東海道品川宿あやめ屋

五十鈴りく

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それから

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 一人欠けたあやめ屋。
 けれど、仕事が減ったわけではない。

 それに、高弥もいつかは板橋に帰るのだから、このままの人手では今後すぐに行き詰ってしまう。そんなことは誰が言い出さずとも、ていはわかっていた。
 政吉と由宇の祝言を終え、少しばかり落ち着いた夏に、ていは皆と夕餉を食べながら言った。

「そろそろ新しい奉公人を増やそうかと思うんだけど」

 それを聞くなり、元助はキュッと眉根を寄せた。

「女将さんがお決めになることなら従いやす」

 とは言うが、元助のような番犬めいた男にとって、新入りというのはあまり嬉しくないのだ。
 元助にとってこのあやめ屋はとても大事な場所である。だからこそ、このあやめ屋を掻き乱すような者には容赦がない。ここへ来たばかりの高弥もまさにそれであったのだから。

 新入りは苦労するだろうな、と高弥は内心苦笑した。けれど、このあやめ屋のことを大事にしてくれる奉公人が増えるのなら、高弥も安心である。

「女将さん、おいらより年下にしてくだせぇ。年上じゃあ色々と教えにくいんで」

 平次がそんなことを言う。事実、年上にものを教えるのに偉そうなことは言いづらい。

「そうすると、丁稚でっちでございやすか」

 高弥が明日葉の浸し物を呑み込んでから問うと、ていは軽く笑った。

「いいや、雇うのは女中にするつもりだよ」

 皆がえっ、と声を上げた。政吉が抜けた後釜が女中なのだ。女中ならば志津がいるというのに。
 すると、ていは皆をそれぞれに見て、最後に志津に目を留めた。

「お志津だってそのうちに嫁にやらなくっちゃいけないからね。それを考えたら女手を増やした方がいいと思うのさ」
「お、女将さん、わたしはまだ、そんな――」

 当の志津はほんのりと頬を染め、かぶりを振る。それを、ていはとても優しい目をして言った。

「まだって、あんたも十九になったんだからそろそろだよ」
「ああ、まあ、ぐずぐずしてるとすぐに行き遅れ――」

 と言いかけて志津に睨まれ、平次は黙った。その話の間、高弥は気が気ではなかったのだが、そんなことは誰も知らない。
 元助も軽く首を傾けた。

「お志津ももう十九か。早ぇもんだな」

 志津があやめ屋を訪れた時のことでも思い出しているのだろうか。そんなことをしみじみと言った。
 ていは、困惑する志津に笑いかける。

「お志津にはどんなお人がいいかねぇ。博打ばくちをしないのはもちろん、酒や女にだらしないのは駄目さ。真面目にコツコツ働ける亭主がいいね」

 志津は居心地が悪そうに見えた。自分の話になると、どうしていいのかわからないのだろう。
 博打をせず、酒や女にだらしなくない、真面目に働く、それなら高弥もそこに含んでもらえるだろうか。
 しかし、ていはあっさりと言った。

「ほら、『つぐみ屋』の壮助そうすけさんみたいなお人だといいねぇ」

 ――壮助か、と高弥は内心で唸っていた。

 つぐみ屋は、高弥の実家であるつばくろ屋で番頭をしていた利兵衛りへえの旅籠である。板橋ではなく、この品川で営んでいる。
 壮助はそのつぐみ屋の一人息子だ。美人の母親似で姿がよく、気遣いができて優しい。つばくろ屋に父が世話になったから、と高弥にもとてもよくしてくれる。高弥も壮助のことは頼りにしているし、好ましく思っているが――

 壮助ならば、志津と並んでも見劣りしない。それどころか、似合う。見てくればかりでなく、内面もよいのだ。年恰好もぴったりである。壮助が相手では、高弥には難癖をつけられたものではない。
 だからこそ、面白くないところである。

「あんな立派なお人はわたしには勿体ないし、きっともういい人がおられますよ」

 などと言って照れる志津に、ていは声を立てて笑った。

「まあ、あんなふうなお人がいいってことさ。すぐってわけには行かないけれど、ちゃんと探すから心配しなくてもいいんだよ」

 そんなわけで、ていは口入れ屋で女中を探すことにしたのだった。
 志津は照れてわざと困ったような顔をしてみせるかに思えたけれど、もしかすると本当にまだ嫁に行きたいという気にはなれていないのかもしれない。
 他に想う人がいるとか、そうしたことではなく、志津もまだこのあやめ屋を離れたくないように見えた。

 ていも娘のように可愛がっている志津を遠くへはやりたくないとすると、近場で相手を探そうとするはずだ。だから壮助がいいなどと言ったりする。
 いっそ元助や平次と言わないのは、今さらそんな気になれない間柄であるからか。

 高弥は板橋に戻るのだから、除外されている。いや、そもそも、それがなくとも志津を任せてもいいと思うほどの男にはなれていないのかもしれない。背も少しは伸びたが、まだ低い。顔も女顔だと言われっぱなしである。
 なんとなく、しんみりとしたのは志津だけでなく高弥もであった。


     ●


 そうして、ていだけでなく、元助も連れ立って口入れ屋に行った。
 留守番をする高弥と平次、それから志津はいつも漬物石のように帳場に座っている元助がいないうちにと、板敷の辺りを掃除する。パタパタとはたきをかける志津を、高弥は板敷を拭きながらぼんやりと見た。その時、平次が土間を掃きながら無遠慮に言った。

「お志津、お前、嫁に行く気なんてあんのかよ」

 高弥の方がびっくりした。なんてことを言うんだ、と。

「へ、平次さんっ」

 志津は手を止め、ムッとしたまま振り返る。

「どういう意味よ」

 高弥は二人の間で気が気ではなかった。しかし、平次はそんな高弥の心など知らず、平然としていた。

「いや、だって、ちっともそんな感じがしねぇから」

 年頃の娘なら、もう少しくらいは所帯を持つことを夢見てもよさそうなものである。しかし、志津の口からそうした言葉を聞いたことがない。志津にとって所帯とはまだまだ他人事であったのだろうか。

「――わからないわよ、そんなの」

 ボソリとつぶやいたそれが、志津の正直な気持ちであるのかもしれなかった。ていは志津の仕合せを一番に考えてくれている。けれど、当の志津がこの調子なら、嫁に行くのはまだ先のことでもいいような気がする。

 むしろ、今すぐにというのなら、若造の高弥では無理だ。志津とは縁がなかったと、そういうことになる。まだ、気持ちはほんのりと色づいたばかりで、寂しさはあるけれど、諦められなくはない。多分まだ踏みとどまれる。政吉が由宇を想うようなものではない。

 ――それでも、できることならば、芽生えた気持ちは育ててみたいような気にはなる。
 そんな高弥の考えに平次の声が割り込む。

「ん、まあ、急がなくったっていいんじゃねぇの。政きっつぁんも行っちまって、お志津も行って、高弥も帰って――それじゃあ寂しいしなぁ」

 このあやめ屋は、ていがいてこその場所だ。逆に言うならば、ていさえいれば、他の誰が入れ替わったとしてもここはあやめ屋なのである。
 ただ、元助がていのそばを離れるとは考えにくい。きっと、それは最後まで。

 平次はいつか暖簾分けをしてもらって離れるかもしれないけれど、元助はそれさえ断ってていの亡くなった亭主の分までていに恩返しをすると思える。元助はそうした男だから。
 平次の言葉に、志津も軽くうなずいた。

「うん、まだ先でいいの」

 そうしていてくれると高弥も助かる。
 しかし、それとは別としても、新たな女中は入ってくるのだった。
 ていと元助が戻り、それが本決まりとなったことを伝えた。


「――名はおはま、年は十五。漁師町の娘らしい」

 と、元助は仏頂面で言い、上がり框にドカリと腰を据える。

「中途半端な時期だから、長く働ける子を探すのは難しいかと思ったんだけれど、ちょうどよさそうな子がいてよかったよ」

 十五歳となると、高弥の妹、福久と同い年である。小生意気な年頃だが、福久よりは淑やかだろう。特に根拠はないが、高弥はそう思った。

「十五かぁ。可愛い子だといいな。な、高弥っ」

 平次がそんなことを言って高弥に振る。志津の手前、高弥は相槌も打ちたくなかった。

「人は見た目じゃありやせん。大事なのは仕事ぶりでござんす」

 慌てて言うと、平次は口を尖らせた。

「いい子ぶんなよなぁ」
「平さんったら、高弥さんを巻き込まないの」

 志津が庇ってくれた。それが少し嬉しい。
 ていはそんなやり取りをニコニコと笑いながら聞いていた。

「お浜は明後日には来るからね。皆、そのつもりでいておくれ」

 皆がそれぞれに返事をする。
 とりあえず、その浜が一人前になるまで志津がどこかへ行くことはないだろう。それ以前に、新入りがこのあやめ屋に馴染むのは大変かもしれない。
 高弥自身が苦労したのだ。今にして思えばその苦労も愛しいけれど、十五の娘にはどうだろうか。

 高弥はせめて、その浜があやめ屋に馴染みやすくなるように気を配らねばと思った。
 何せ、元助の仏頂面でまず怯えさせてしまうのは間違いないのだから。
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