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それから
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そんなわけで、高弥はあやめ屋に戻り、ていの用意してくれた真新しい前掛けを身につけて働くのだった。
それは涙の別れから三日と経たない出来事である。
別れの挨拶をした得意先には出戻った報告をせねばならず、少々恥ずかしいような思いもしたのだが、あやめ屋でまた過ごせることになった今はそれも些細なことに思えた。
主のてい、番頭の元助、奉公人の政吉、平次、そして女中の志津。
始めは馴染めなかったし、好きにはなれなかった。けれど今では、誰もが大事だ。
いつかはまた別れが来る。それは避けられないことだ。それでも、前よりも清々しく区切りをつけて別れられるように、今を精一杯過ごすしかない。
「じゃあ、今日も『八百晋』でいいのを仕入れてきやす。それから献立を決めやしょう」
高弥はにこやかに平次に向けて言った。平次は糸目をさらに細めて笑う。
「ああ、おいらは米屋に頼みに行くからよ、そっちは頼まぁ」
二人は同い年なのだが、上背は平次の方が高い。ほんの少し追いついた気がしたのだが、平次も伸び盛りである。気づけば差は縮まっていなかった。
台所から岡持桶を手にし、高弥はあやめ屋の暖簾を潜って外に出た。
すると、そこには竹箒で表を掃いていた政吉がいた。政吉は高弥よりもやや年上で、段々と逞しくなってきた。それというのも、想う相手がいるせいだ。由宇といって、高弥が買い出しに出かけようとしている青物屋『八百晋』の一人娘である。
以前は政吉の片恋であったようだが、火事で八百晋が焼け、由宇たち親子が焼け出された時、政吉はそれは献身的に尽くした。その一途さに由宇も政吉に惹かれたのだ。
政吉はいずれはあやめ屋を出て由宇のところの入り婿になる。由宇の父である晋八もそれを望んでいた。由宇が政吉がいいと考えている以上、他の縁談を受けることはないだろう。後は政吉の気持ち次第なのである。
政吉はすぐにでもそうしたいはずなのだが、孤児であった己を育ててくれたあやめ屋に恩返しをせずには出ていけないと考えている。
「政吉さん、八百晋に買い出しに行きやす。お由宇さんに何か伝えることはありやすか」
思わず、高弥はニヤニヤしながら言った。その途端、政吉は高弥に拳骨をくれた。
「要らねぇこと言ってんじゃねぇよ。早く行きな」
照れている。それがわかるから、つい冷やかしてしまうのだった。政吉がどれほど由宇を大切に想っているのかを知っているから、そんなところも微笑ましくなる。殴られた月代は痛むけれど。すぐに手が出るのは元助だけでいい。
行ってきやす、と断って高弥は出かけた。
潮の香りがする、これが品川宿だ。板橋にはないものである。最初はそれが嫌だったけれど、慣れてしまえばむしろ落ち着く。
高弥は上機嫌で街道を歩いた。旅人が行き交う賑やかな街道はいつも通り。時折騒ぎも起こるけれど、毎日は平穏であった。少し前に起きた火事からも徐々に立ち直り、街並みも歯抜けになっているところはあるものの、瓦礫や炭などは取り除かれ、綺麗なものだった。
あやめ屋のある徒歩新宿から少し北へ歩くと、程なくして八百晋がある。一度は焼けて建て直したばかりの真新しい店だ。父娘のこだわりの野菜が、棚や半切桶に並んでいる。高弥はここへ来るのが楽しみで仕方がない。
以前の政吉は、己が由宇に会いたいがために高弥に買い出しをさせてくれなかったのだが、最近はそうでもない。むしろ、行ってこいと送り出してくれる。政吉は以前ほど由宇に会いに行っていないけれど、互いの好意はわかっている。今すぐにというのではないにしても、いずれは祝言を挙げる二人だから、会わずとも平気なのだろうか。
「おはようございやす。今日も美味ぇ野菜を見つくろってください」
いつも通り、高弥は岡持桶を突き出す。それを店主の晋八がにこやかに受け取ってくれた。大柄で、一見すると厳つい親父なのだが、気は優しい。一人娘の由宇と野菜が何より大事な熱い男なのだ。
「おお、高弥。いつもありがとよ」
晋八はガサゴソと野菜を岡持桶に詰め始める。その間、店先に野菜を並べていた由宇と目が合った。
「お由宇さん、おはようございやす」
にこりと笑って挨拶すると、由宇も笑って返してくれた。
「おはようございます、高弥さん」
黒目がちで、いかにも愛らしい娘なのだ。美人というよりも、愛嬌がある。こうした娘と相思相愛になれたのだから、政吉は仕合せ者だと思う。諦めなければ想いは通じるらしい。
ただ――
あれ、と少しの違和感を覚えた。
由宇は、浮かない顔をしていた。笑いかけてくれたのも少しのこと。いつもならばずっとニコニコと笑っている由宇が、気を抜くと真顔に戻るのだ。
なんだろう、あれは。
そんなことを高弥が考えていると、晋八が岡持桶をいっぱいにして高弥に差し出してくれた。
「ほれ。このそら豆は美味ぇぞ。茹でるのもいいが、七輪で莢ごと焼いてみな」
「ああ、今日はそれに決めやしたっ」
焼く手間暇はかかるが、旨味が茹でた湯に流れ出ず豆に閉じ込められ、ホクホクになる。そのまま食べても美味いけれど、塩を振ったらさらに美味さが引き立つ。
高弥は焼き立てのそら豆に何を合わせようかと頭の中がいっぱいになる。いつもこうなのだが、この時も料理のことばかり考えていた。
ただ、やはり去り際に何かが少し気になって、高弥は由宇に訊ねた。
「お由宇さん、どうかしやしたか。政吉さんに何かお伝えしやしょうか」
善意のつもりであった。けれど、それを言った途端に由宇はギクリとしたようだった。
もしかすると、政吉のことを考えていて切ない気持ちになったとか、そういうことなのだろうか。自慢ではないが、そうした女子の気持ちは高弥にはわからない。
余計な世話であったかと、高弥が苦笑した時、由宇は大人びた微笑を見せて言った。
「そうねぇ、『ちゃんとわかっているから』って、それだけかしら」
わかっている。何をだ。
高弥にはわからないけれど、政吉にはそれを伝えればわかるのだろうか。
「へい、確かに。じゃあまたっ」
高弥が莢つきのそら豆の入った岡持桶を持ってあやめ屋に戻ると、政吉は表にはおらず、裏手の井戸端にいた。滑車をキコキコと揺らして水を汲んでいる政吉に、高弥は笑顔で告げる。
「お由宇さんが、政吉さんに『ちゃんとわかっているから』って伝えてほしいそうで。おれ、伝えやしたから」
すると、政吉は汲んでいた水を盥の外に零し、足元を濡らして慌てた。その様子を見て高弥はクク、と笑いを堪えた。
「お由宇さんが言うところの『わかってる』って、なんのことでござんすか」
政吉はわざと顔をしかめた。けれど、嬉しそうでしかない。
「そんなの――俺の方が一段落するまで待たせるってやつだ」
なるほど。政吉が婿になると、あやめ屋を出ていかなくてはならなくなるのだから、政吉が納得するまでは待つと。あやめ屋に恩返しをしたい政吉の気持ちをちゃんとわかっている、そういう意味だったのだ。
「お熱いことで」
言ったら睨まれた。しかし、ニヤニヤが止まらない。
高弥はまた殴られないうちに台所へ退散した。
その時、台所にいたのは平次ではなく、志津であった。ドキリ、と心の臓が正直に鳴った。
「あら、高弥さん。おかえりなさい」
「へい、只今戻りやした」
平静を装うものの、二人きりだと落ち着かない。以前はこうではなかったのだが、別れを意識し始めた時に、志津とは特に離れがたいような気になってしまい、それが恋心というやつなのかと自覚した高弥だった。志津は高弥よりも少し年上のすらりとした美人である。
天災で家族を亡くし、孤独な身の上だが、それでもしっかりと生きている。ここへ来た当初、一人で浮いていた高弥に一番打ち解けてくれたのも志津だったのだ。
ふと、同じ女子の志津ならば由宇のあの沈んだ様子の意味もわかるのだろうかという気になった。それとなく話を振る。
「あの、八百晋でお由宇さんに会ったら、なんかこう、仕合せいっぱいじゃあなくって、ちょっと寂しそうに見えて――。ああいうの、なんででしょうか」
志津は茶碗を拭いていた手を止め、目を瞬かせた。
「それは、好いた人がいるから不安で仕方ないんだと思うわ」
「不安って、政吉さんはあんなにお由宇さんのことを大事に想っているのに、それでも不安になるもんなんでしょうか」
「そんなの、いくらだって不安になるわよ」
今いち、志津の言うことは高弥にはよくわからなかった。
それは涙の別れから三日と経たない出来事である。
別れの挨拶をした得意先には出戻った報告をせねばならず、少々恥ずかしいような思いもしたのだが、あやめ屋でまた過ごせることになった今はそれも些細なことに思えた。
主のてい、番頭の元助、奉公人の政吉、平次、そして女中の志津。
始めは馴染めなかったし、好きにはなれなかった。けれど今では、誰もが大事だ。
いつかはまた別れが来る。それは避けられないことだ。それでも、前よりも清々しく区切りをつけて別れられるように、今を精一杯過ごすしかない。
「じゃあ、今日も『八百晋』でいいのを仕入れてきやす。それから献立を決めやしょう」
高弥はにこやかに平次に向けて言った。平次は糸目をさらに細めて笑う。
「ああ、おいらは米屋に頼みに行くからよ、そっちは頼まぁ」
二人は同い年なのだが、上背は平次の方が高い。ほんの少し追いついた気がしたのだが、平次も伸び盛りである。気づけば差は縮まっていなかった。
台所から岡持桶を手にし、高弥はあやめ屋の暖簾を潜って外に出た。
すると、そこには竹箒で表を掃いていた政吉がいた。政吉は高弥よりもやや年上で、段々と逞しくなってきた。それというのも、想う相手がいるせいだ。由宇といって、高弥が買い出しに出かけようとしている青物屋『八百晋』の一人娘である。
以前は政吉の片恋であったようだが、火事で八百晋が焼け、由宇たち親子が焼け出された時、政吉はそれは献身的に尽くした。その一途さに由宇も政吉に惹かれたのだ。
政吉はいずれはあやめ屋を出て由宇のところの入り婿になる。由宇の父である晋八もそれを望んでいた。由宇が政吉がいいと考えている以上、他の縁談を受けることはないだろう。後は政吉の気持ち次第なのである。
政吉はすぐにでもそうしたいはずなのだが、孤児であった己を育ててくれたあやめ屋に恩返しをせずには出ていけないと考えている。
「政吉さん、八百晋に買い出しに行きやす。お由宇さんに何か伝えることはありやすか」
思わず、高弥はニヤニヤしながら言った。その途端、政吉は高弥に拳骨をくれた。
「要らねぇこと言ってんじゃねぇよ。早く行きな」
照れている。それがわかるから、つい冷やかしてしまうのだった。政吉がどれほど由宇を大切に想っているのかを知っているから、そんなところも微笑ましくなる。殴られた月代は痛むけれど。すぐに手が出るのは元助だけでいい。
行ってきやす、と断って高弥は出かけた。
潮の香りがする、これが品川宿だ。板橋にはないものである。最初はそれが嫌だったけれど、慣れてしまえばむしろ落ち着く。
高弥は上機嫌で街道を歩いた。旅人が行き交う賑やかな街道はいつも通り。時折騒ぎも起こるけれど、毎日は平穏であった。少し前に起きた火事からも徐々に立ち直り、街並みも歯抜けになっているところはあるものの、瓦礫や炭などは取り除かれ、綺麗なものだった。
あやめ屋のある徒歩新宿から少し北へ歩くと、程なくして八百晋がある。一度は焼けて建て直したばかりの真新しい店だ。父娘のこだわりの野菜が、棚や半切桶に並んでいる。高弥はここへ来るのが楽しみで仕方がない。
以前の政吉は、己が由宇に会いたいがために高弥に買い出しをさせてくれなかったのだが、最近はそうでもない。むしろ、行ってこいと送り出してくれる。政吉は以前ほど由宇に会いに行っていないけれど、互いの好意はわかっている。今すぐにというのではないにしても、いずれは祝言を挙げる二人だから、会わずとも平気なのだろうか。
「おはようございやす。今日も美味ぇ野菜を見つくろってください」
いつも通り、高弥は岡持桶を突き出す。それを店主の晋八がにこやかに受け取ってくれた。大柄で、一見すると厳つい親父なのだが、気は優しい。一人娘の由宇と野菜が何より大事な熱い男なのだ。
「おお、高弥。いつもありがとよ」
晋八はガサゴソと野菜を岡持桶に詰め始める。その間、店先に野菜を並べていた由宇と目が合った。
「お由宇さん、おはようございやす」
にこりと笑って挨拶すると、由宇も笑って返してくれた。
「おはようございます、高弥さん」
黒目がちで、いかにも愛らしい娘なのだ。美人というよりも、愛嬌がある。こうした娘と相思相愛になれたのだから、政吉は仕合せ者だと思う。諦めなければ想いは通じるらしい。
ただ――
あれ、と少しの違和感を覚えた。
由宇は、浮かない顔をしていた。笑いかけてくれたのも少しのこと。いつもならばずっとニコニコと笑っている由宇が、気を抜くと真顔に戻るのだ。
なんだろう、あれは。
そんなことを高弥が考えていると、晋八が岡持桶をいっぱいにして高弥に差し出してくれた。
「ほれ。このそら豆は美味ぇぞ。茹でるのもいいが、七輪で莢ごと焼いてみな」
「ああ、今日はそれに決めやしたっ」
焼く手間暇はかかるが、旨味が茹でた湯に流れ出ず豆に閉じ込められ、ホクホクになる。そのまま食べても美味いけれど、塩を振ったらさらに美味さが引き立つ。
高弥は焼き立てのそら豆に何を合わせようかと頭の中がいっぱいになる。いつもこうなのだが、この時も料理のことばかり考えていた。
ただ、やはり去り際に何かが少し気になって、高弥は由宇に訊ねた。
「お由宇さん、どうかしやしたか。政吉さんに何かお伝えしやしょうか」
善意のつもりであった。けれど、それを言った途端に由宇はギクリとしたようだった。
もしかすると、政吉のことを考えていて切ない気持ちになったとか、そういうことなのだろうか。自慢ではないが、そうした女子の気持ちは高弥にはわからない。
余計な世話であったかと、高弥が苦笑した時、由宇は大人びた微笑を見せて言った。
「そうねぇ、『ちゃんとわかっているから』って、それだけかしら」
わかっている。何をだ。
高弥にはわからないけれど、政吉にはそれを伝えればわかるのだろうか。
「へい、確かに。じゃあまたっ」
高弥が莢つきのそら豆の入った岡持桶を持ってあやめ屋に戻ると、政吉は表にはおらず、裏手の井戸端にいた。滑車をキコキコと揺らして水を汲んでいる政吉に、高弥は笑顔で告げる。
「お由宇さんが、政吉さんに『ちゃんとわかっているから』って伝えてほしいそうで。おれ、伝えやしたから」
すると、政吉は汲んでいた水を盥の外に零し、足元を濡らして慌てた。その様子を見て高弥はクク、と笑いを堪えた。
「お由宇さんが言うところの『わかってる』って、なんのことでござんすか」
政吉はわざと顔をしかめた。けれど、嬉しそうでしかない。
「そんなの――俺の方が一段落するまで待たせるってやつだ」
なるほど。政吉が婿になると、あやめ屋を出ていかなくてはならなくなるのだから、政吉が納得するまでは待つと。あやめ屋に恩返しをしたい政吉の気持ちをちゃんとわかっている、そういう意味だったのだ。
「お熱いことで」
言ったら睨まれた。しかし、ニヤニヤが止まらない。
高弥はまた殴られないうちに台所へ退散した。
その時、台所にいたのは平次ではなく、志津であった。ドキリ、と心の臓が正直に鳴った。
「あら、高弥さん。おかえりなさい」
「へい、只今戻りやした」
平静を装うものの、二人きりだと落ち着かない。以前はこうではなかったのだが、別れを意識し始めた時に、志津とは特に離れがたいような気になってしまい、それが恋心というやつなのかと自覚した高弥だった。志津は高弥よりも少し年上のすらりとした美人である。
天災で家族を亡くし、孤独な身の上だが、それでもしっかりと生きている。ここへ来た当初、一人で浮いていた高弥に一番打ち解けてくれたのも志津だったのだ。
ふと、同じ女子の志津ならば由宇のあの沈んだ様子の意味もわかるのだろうかという気になった。それとなく話を振る。
「あの、八百晋でお由宇さんに会ったら、なんかこう、仕合せいっぱいじゃあなくって、ちょっと寂しそうに見えて――。ああいうの、なんででしょうか」
志津は茶碗を拭いていた手を止め、目を瞬かせた。
「それは、好いた人がいるから不安で仕方ないんだと思うわ」
「不安って、政吉さんはあんなにお由宇さんのことを大事に想っているのに、それでも不安になるもんなんでしょうか」
「そんなの、いくらだって不安になるわよ」
今いち、志津の言うことは高弥にはよくわからなかった。
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