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小噺
ある日のつばくろ屋
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それは、跡取り息子が修行に出ると言い出して品川宿に向かった後のこと――
板橋宿仲町にあるつばくろ屋。
その二代目主、弥多は、もともとは料理人であり、主となった今もすべての料理を自らが拵えている。その料理の評判を聞きつけて、連日泊り客がやってくるのだ。
幼い頃から厳しくもあたたかい師匠に学び、身につけた料理の腕前である。それを息子がまた引き継ぐことになりそうだった。
血のなせる業か、息子の高弥は、小さな頃から子供のくせにどんな遊びよりも料理に興味津々であった。この子はいつか己を越える料理人になるのだろうか、とそんなことを考えると、嬉しくないはずがなかった。
その子が、今年になって修行に出たいと言い出した。
もうそんなことを考える年になったのかと驚きつつも、それを許した。息子だから、甘やかしてはいけないと、厳しく接してきたつもりである。
礼儀は弁えていないこともない、はず。
よそへ行っても、役立たずというわけではないと思うが――
「――――」
土間で皮を剥いていた筍が、つるり、と手から落ちた。幸い、まだ皮を剥ききっていないので傷はついていない。ほっとして拾うが、またつるり、と落とした。
何をやっているのだと、自分でも呆れてしまう。筍を再び拾うと声がかかった。
「お前さん、何やってるの」
いつからそこにいたのか、見ていたらしい。
「お、お佐久」
畳の上で、女房の佐久が楽し気にコロコロと笑っている。
「あらあら、そんなに高弥のことが気になるのかしら」
そんなふうに言う佐久も、高弥が品川宿に行った当日はしょげ返っていた。寂しいと言う佐久を慰めたのは弥多の方であったのに。
「気になるというか、その、あれだ――」
言葉を濁してみるのだが、気になることに変わりはない。
曲がったことはしない、まっすぐな気質には育ったと思っている。
しかしだ、それ故に違うと思うことには真っ向から違うと言ってしまうようなところがある。若さも手伝って、向こう見ずなのだ。
そうした己と折り合いをつけるための修行であるのだが、学ぶ前に鼻っ柱を折られそうな気もする。
宿の奉公人たちと上手くやれるのだろうか。つばくろ屋では跡取り息子として周りから大事にされてきたから、それが通用しないことをまだ知らないのだ。
もし喧嘩になった時、小柄な高弥では相手にならないだろう。
――色々と考え込んでしまう。
「普段は厳しいおとっつぁんが、高弥の心配をしすぎて調子が狂っているだなんて、あの子も気づいていないでしょうねぇ」
などと言って佐久に笑われた。
最初は佐久の方が心配していたはずなのに、いつの間にか、どうにかするでしょう、と割りきっていた。女の方がいざという時に強いのはどうしたわけだろうか。
「そんな大袈裟なものじゃあない。ただ、高弥が人様に迷惑をかけないかが気がかりなだけで」
精一杯、威厳を保つ。しかし、事実腑抜けているところなど当の高弥には絶対に見せられないけれど。
佐久はふと、穏やかな目をして微笑んだ。
「きっと平気よ。だって、お前さんの子だもの。どんな苦労も乗り越えて帰ってくるわよ」
「どんな苦労も、か」
弥多もこのつばくろ屋へ行き着くまでにいろいろなことがあった。ここへ来てからも順調ではなかった。上手く行かずに叱られたことの方が多い。
それでも、すべては今に繋がる。
それならば、なくてよかった苦労ではない。
高弥もまた品川宿で大変な目に遭うかもしれないけれど、それでもその苦労を懐かしく振り返れる一廉の男になるだろうか。
なってもらわなくては困る。
そうでなければ、このつばくろ屋の主の座を受け渡せないのだから。
ここは先代から受け継いだ大事な場所だから、三代目となる高弥には重たいものを背負わせてしまうかもしれない。けれど、それでもそこに仕合せを見出してほしいと願う。
「ところでお前さん、お福久がまた付け文(恋文)をもらっていたみたいだけれど」
「――――」
筍が転がるのは、丸いからだ。丸い筍が悪い。
転がった筍を見て、佐久は笑いを堪えていた。
「断っていたわよ。息子も娘も、どっちも心配なものよねぇ」
心配できる相手がいることは恵まれたこと。
そうして、親は子を信じてやることしかできない。
乗り越えろ、と弥多は胸のうちで高弥に語りかけた。
―了―
板橋宿仲町にあるつばくろ屋。
その二代目主、弥多は、もともとは料理人であり、主となった今もすべての料理を自らが拵えている。その料理の評判を聞きつけて、連日泊り客がやってくるのだ。
幼い頃から厳しくもあたたかい師匠に学び、身につけた料理の腕前である。それを息子がまた引き継ぐことになりそうだった。
血のなせる業か、息子の高弥は、小さな頃から子供のくせにどんな遊びよりも料理に興味津々であった。この子はいつか己を越える料理人になるのだろうか、とそんなことを考えると、嬉しくないはずがなかった。
その子が、今年になって修行に出たいと言い出した。
もうそんなことを考える年になったのかと驚きつつも、それを許した。息子だから、甘やかしてはいけないと、厳しく接してきたつもりである。
礼儀は弁えていないこともない、はず。
よそへ行っても、役立たずというわけではないと思うが――
「――――」
土間で皮を剥いていた筍が、つるり、と手から落ちた。幸い、まだ皮を剥ききっていないので傷はついていない。ほっとして拾うが、またつるり、と落とした。
何をやっているのだと、自分でも呆れてしまう。筍を再び拾うと声がかかった。
「お前さん、何やってるの」
いつからそこにいたのか、見ていたらしい。
「お、お佐久」
畳の上で、女房の佐久が楽し気にコロコロと笑っている。
「あらあら、そんなに高弥のことが気になるのかしら」
そんなふうに言う佐久も、高弥が品川宿に行った当日はしょげ返っていた。寂しいと言う佐久を慰めたのは弥多の方であったのに。
「気になるというか、その、あれだ――」
言葉を濁してみるのだが、気になることに変わりはない。
曲がったことはしない、まっすぐな気質には育ったと思っている。
しかしだ、それ故に違うと思うことには真っ向から違うと言ってしまうようなところがある。若さも手伝って、向こう見ずなのだ。
そうした己と折り合いをつけるための修行であるのだが、学ぶ前に鼻っ柱を折られそうな気もする。
宿の奉公人たちと上手くやれるのだろうか。つばくろ屋では跡取り息子として周りから大事にされてきたから、それが通用しないことをまだ知らないのだ。
もし喧嘩になった時、小柄な高弥では相手にならないだろう。
――色々と考え込んでしまう。
「普段は厳しいおとっつぁんが、高弥の心配をしすぎて調子が狂っているだなんて、あの子も気づいていないでしょうねぇ」
などと言って佐久に笑われた。
最初は佐久の方が心配していたはずなのに、いつの間にか、どうにかするでしょう、と割りきっていた。女の方がいざという時に強いのはどうしたわけだろうか。
「そんな大袈裟なものじゃあない。ただ、高弥が人様に迷惑をかけないかが気がかりなだけで」
精一杯、威厳を保つ。しかし、事実腑抜けているところなど当の高弥には絶対に見せられないけれど。
佐久はふと、穏やかな目をして微笑んだ。
「きっと平気よ。だって、お前さんの子だもの。どんな苦労も乗り越えて帰ってくるわよ」
「どんな苦労も、か」
弥多もこのつばくろ屋へ行き着くまでにいろいろなことがあった。ここへ来てからも順調ではなかった。上手く行かずに叱られたことの方が多い。
それでも、すべては今に繋がる。
それならば、なくてよかった苦労ではない。
高弥もまた品川宿で大変な目に遭うかもしれないけれど、それでもその苦労を懐かしく振り返れる一廉の男になるだろうか。
なってもらわなくては困る。
そうでなければ、このつばくろ屋の主の座を受け渡せないのだから。
ここは先代から受け継いだ大事な場所だから、三代目となる高弥には重たいものを背負わせてしまうかもしれない。けれど、それでもそこに仕合せを見出してほしいと願う。
「ところでお前さん、お福久がまた付け文(恋文)をもらっていたみたいだけれど」
「――――」
筍が転がるのは、丸いからだ。丸い筍が悪い。
転がった筍を見て、佐久は笑いを堪えていた。
「断っていたわよ。息子も娘も、どっちも心配なものよねぇ」
心配できる相手がいることは恵まれたこと。
そうして、親は子を信じてやることしかできない。
乗り越えろ、と弥多は胸のうちで高弥に語りかけた。
―了―
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