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小噺
ある日のあやめ屋
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それは、どこかの宿の跡取り息子が手違いで押しかけてくる少ぅし前のこと――
品川宿あやめ屋。
すっきりと美しく咲く高貴な花の名を持つ宿。
しかし、当のあやめ屋は、その名に相応しいとは言えない有様であったかもしれない。
先代の主を失い、その妻女であるていが宿を引き継いだ。ただし、ていはたおやかで、亭主に口答えなどしたこともない女人であった。旅籠の商いにもそれほど通じているわけでもない。丈夫な方でもなく、疲れが出ると寝込んでしまうこともしばしばであった。
旅籠の女主になど向いているわけではない。むしろ、宿を畳んでどこかでひっそりと暮らした方がいいのかもしれない。
けれど、ていは亭主が始めたあやめ屋をなくしてしまいたくはないようだった。不慣れながらにも健気に、奉公人に混じって炊事、洗濯、掃除と仕事をする。そうした姿を見てると、番頭の元助も力にならねばと思うのであった。
ていが引き継いでから十年。
正直にいってよく持った方だと思う。
ていも旅籠の主には向いていないが、元助もまた旅籠の番頭には向いていなかった。そうして、奉公人の政吉も、平次もだ。大黒柱がいなくなり、支えを失ったあやめ屋は、それだけで皆がどこを目指して進めばいいのかもわからなくなった。皆がてんでばらばらに動いている。
女手がていだけでは大変だからと女中に志津という娘を雇ったが、志津もまた今のあやめ屋の中にいては特別できる女中にはならなかった。誰も厳しく教えないのだから、あんなものではある。
炊事洗濯といった家事を元助が教えることはできない。ていも料理はあまり得意ではなかった。
元助にできることは、ていが苦手ながらに腐心して作った料理を黙って食べることだけである。それが真夜中に喉が渇いて起きるほど塩辛かったとしても。
どうやら、ていは味見をして物足りないと思えば味を足すのだが、その後の味見はしない。その注ぎ足しがどうなったのか、自分の膳に載せて食べてみて初めてわかるといった具合なのだが、仮に二度目の味見をしたところで、注ぎ足した醤油は取り戻せない。
そんなことを繰り返しているうちに皆、塩辛い料理にすっかり慣れてしまった。
ただ、障りがあるとすれば――
元助は帳場に座ったままで帳面を広げていた。
ここ数年、客足は降下の一途を辿っている。その理由として考えられることはいくつかあった。
料理が美味いとは言えないかもしれない。けれど、旅籠は寝泊まりする場であり、料亭のような料理が出ると期待する客もそう多くはないはずだ。期待していなかったにしても、それを大きく下回る料理が出たとでもいうのだろうか。
しかもそれが口づてに広がり、あそこの旅籠の飯は不味いから、間違っても泊まるなという噂を立てられているのかもしれない。ていも志津も声が小さく、呼び込みが下手なこともあるだろう。
一日二日、客が少ないのならばまだしも、これが連日となると困る。奉公人たちが食っていけなくなる。ここの奉公人たちは帰る当てのない者たちばかりなのだ。
どうにかして客を増やさねばならない。
そうは思うが、元助にも何をどうすればいいのかがわからない。
だからこそ、できることは倹約、である。
銭の無駄遣いはないか、そこを細かく調べて抑える。正直なところ、元助にはそんなことしかできなかった。そのせいで思わずため息が漏れるのである。
どう考えてもかさんでいるのは、醤油代だった。
ていが味つけの際に醤油を気持ち減らしてくれたら、醤油代が安くつく。それから、もしかすると客にとって食べやすい料理になるかもしれない。そうしたら、いいこと尽くしなのだ。
ひと言、言いさえすればいい。ていに、料理に使う醤油の量を少し減らしてみてはどうかと。
今日こそは、と元助は――傍目にはわからないとしても――意気込んでいた。
帳場に座り、ていが通りかかるのを待つ。煙管を弄び、ごく自然に切り出すつもりでいた。
カラリ、と台所の戸が開いた。元助は何気なく、たった今思いついたかのようにして、ていに醤油代のことを言ってみる――と、そのはずであった。
しかし、ていは手ぬぐいで手を押さえ、キュッと目を瞑っていた。
「女将さん、どうかされやしたか」
様子がおかしくて、思わず問う。すると、ていはそっと片目を開け、苦笑した。
「ううん、ちょいと指を切っちまってね。大したことはないんだよ」
そうして、梯子段を上がっていった。
「――――」
この間切った傷がようやく治ったかというところである。またか、とは思わない。
あんなにも苦手である料理を、それでも懸命に作ってくれている。そう思うと、余計なことなど言えたものではなかった。
そうして、また言えぬまま歳月は過ぎる。
あやめ屋の菜が塩辛いのは、ていが作るのだから仕方がない。醤油代よりも他に削れるところがまだあるはずだ。
「――おい、政吉」
「へ、へい」
元助は通りかかった政吉に仏頂面で言った。
「おめぇ、買いつけの時に言い値で受け取るんじゃねぇよ。安くできるものは値切れ」
「ええっ」
「八百晋より安いところねぇのかよ」
「そそ、そんなっ」
政吉の焦りをよそに、今日も帳場で煙管を咥え、プカリと煙草を吹かす元助であった。
―了―
品川宿あやめ屋。
すっきりと美しく咲く高貴な花の名を持つ宿。
しかし、当のあやめ屋は、その名に相応しいとは言えない有様であったかもしれない。
先代の主を失い、その妻女であるていが宿を引き継いだ。ただし、ていはたおやかで、亭主に口答えなどしたこともない女人であった。旅籠の商いにもそれほど通じているわけでもない。丈夫な方でもなく、疲れが出ると寝込んでしまうこともしばしばであった。
旅籠の女主になど向いているわけではない。むしろ、宿を畳んでどこかでひっそりと暮らした方がいいのかもしれない。
けれど、ていは亭主が始めたあやめ屋をなくしてしまいたくはないようだった。不慣れながらにも健気に、奉公人に混じって炊事、洗濯、掃除と仕事をする。そうした姿を見てると、番頭の元助も力にならねばと思うのであった。
ていが引き継いでから十年。
正直にいってよく持った方だと思う。
ていも旅籠の主には向いていないが、元助もまた旅籠の番頭には向いていなかった。そうして、奉公人の政吉も、平次もだ。大黒柱がいなくなり、支えを失ったあやめ屋は、それだけで皆がどこを目指して進めばいいのかもわからなくなった。皆がてんでばらばらに動いている。
女手がていだけでは大変だからと女中に志津という娘を雇ったが、志津もまた今のあやめ屋の中にいては特別できる女中にはならなかった。誰も厳しく教えないのだから、あんなものではある。
炊事洗濯といった家事を元助が教えることはできない。ていも料理はあまり得意ではなかった。
元助にできることは、ていが苦手ながらに腐心して作った料理を黙って食べることだけである。それが真夜中に喉が渇いて起きるほど塩辛かったとしても。
どうやら、ていは味見をして物足りないと思えば味を足すのだが、その後の味見はしない。その注ぎ足しがどうなったのか、自分の膳に載せて食べてみて初めてわかるといった具合なのだが、仮に二度目の味見をしたところで、注ぎ足した醤油は取り戻せない。
そんなことを繰り返しているうちに皆、塩辛い料理にすっかり慣れてしまった。
ただ、障りがあるとすれば――
元助は帳場に座ったままで帳面を広げていた。
ここ数年、客足は降下の一途を辿っている。その理由として考えられることはいくつかあった。
料理が美味いとは言えないかもしれない。けれど、旅籠は寝泊まりする場であり、料亭のような料理が出ると期待する客もそう多くはないはずだ。期待していなかったにしても、それを大きく下回る料理が出たとでもいうのだろうか。
しかもそれが口づてに広がり、あそこの旅籠の飯は不味いから、間違っても泊まるなという噂を立てられているのかもしれない。ていも志津も声が小さく、呼び込みが下手なこともあるだろう。
一日二日、客が少ないのならばまだしも、これが連日となると困る。奉公人たちが食っていけなくなる。ここの奉公人たちは帰る当てのない者たちばかりなのだ。
どうにかして客を増やさねばならない。
そうは思うが、元助にも何をどうすればいいのかがわからない。
だからこそ、できることは倹約、である。
銭の無駄遣いはないか、そこを細かく調べて抑える。正直なところ、元助にはそんなことしかできなかった。そのせいで思わずため息が漏れるのである。
どう考えてもかさんでいるのは、醤油代だった。
ていが味つけの際に醤油を気持ち減らしてくれたら、醤油代が安くつく。それから、もしかすると客にとって食べやすい料理になるかもしれない。そうしたら、いいこと尽くしなのだ。
ひと言、言いさえすればいい。ていに、料理に使う醤油の量を少し減らしてみてはどうかと。
今日こそは、と元助は――傍目にはわからないとしても――意気込んでいた。
帳場に座り、ていが通りかかるのを待つ。煙管を弄び、ごく自然に切り出すつもりでいた。
カラリ、と台所の戸が開いた。元助は何気なく、たった今思いついたかのようにして、ていに醤油代のことを言ってみる――と、そのはずであった。
しかし、ていは手ぬぐいで手を押さえ、キュッと目を瞑っていた。
「女将さん、どうかされやしたか」
様子がおかしくて、思わず問う。すると、ていはそっと片目を開け、苦笑した。
「ううん、ちょいと指を切っちまってね。大したことはないんだよ」
そうして、梯子段を上がっていった。
「――――」
この間切った傷がようやく治ったかというところである。またか、とは思わない。
あんなにも苦手である料理を、それでも懸命に作ってくれている。そう思うと、余計なことなど言えたものではなかった。
そうして、また言えぬまま歳月は過ぎる。
あやめ屋の菜が塩辛いのは、ていが作るのだから仕方がない。醤油代よりも他に削れるところがまだあるはずだ。
「――おい、政吉」
「へ、へい」
元助は通りかかった政吉に仏頂面で言った。
「おめぇ、買いつけの時に言い値で受け取るんじゃねぇよ。安くできるものは値切れ」
「ええっ」
「八百晋より安いところねぇのかよ」
「そそ、そんなっ」
政吉の焦りをよそに、今日も帳場で煙管を咥え、プカリと煙草を吹かす元助であった。
―了―
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