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1巻
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――しかしながら、そんな高弥の決意を天が嘲笑うかのように、何もかもが上手く回らない。
そばかすの方が政吉であった。政吉は淡々と高弥に告げた。
「一階が客間、二階が俺ら奉公人の部屋だ。ついてきな」
「へい」
高弥は言われるがまま、荷物を手に政吉について梯子段を上がる。昼とはいえ、閉めきった宿の中は薄暗かった。
「こっちが奉公人の部屋だ。奥は女将さんとお志津のだから、勝手に開けるなよ」
「へい」
小さい宿なのだ。つばくろ屋ほどに部屋の数もなく、主のていも奉公人と同じような暮らしをしているらしい。奉公人と身を寄せ合って暮らす主なら、奉公人との絆は強いのではないだろうか。
政吉が立てつけの悪い障子を開くと、そこは角行灯と丸めた夜具があるだけの狭い部屋であった。男三人でゆとりのないところに高弥が加わる。いくら小柄とはいえ、さらに窮屈になるだろう。
寝相よくいられるだろうか。高弥はそんなことを考え、ごくりと唾を呑む。この狭さも慣れれば気にならなくなるといいのだけれど。
とりあえず部屋に荷物を置かせてもらい、それから高弥は一階に下りた。そうしたら、元助は帳場格子の中でぷかりと煙草を吹かせていた。横目で高弥を軽く見ただけで、何かを言ってくるわけでもない。政吉は客間の障子を開いた。
「部屋数は六――つっても、襖で仕切っただけだけどな」
小さな宿なのだから、そんなものだろう。廊下など設けるゆとりもない。この品川宿の中で大きな宿を構えるには、相当な手腕がいるだろう。
「部屋の名前はそれぞれなんて言うんでしょう」
その名をまずは覚えなければと思って訊ねた。それをしないと、なんとかの間の客が呼んでいると言われても部屋を間違えてしまいそうだ。
当然のことを訊いたつもりでいた高弥に、政吉は眉をひそめた。
「部屋の名たぁ、どういうこった。んなもん、アッチとコッチで十分だろうよ」
「へ――」
あっちの部屋。こっちの部屋。
それで間違えないものなのだろうか。少々心もとない。
「部屋の名前、あった方がわかりやすかねぇですか」
ぼそりと零したけれど、それを政吉は鼻で笑った。
「間違えやしねぇよ」
「はあ」
つい、実家であるつばくろ屋と比べてしまうけれど、そういうところの方が多いのかもしれない。
部屋の名前に関してはまあいい。気になったことが他にいくつかある。
ざらつく板敷と同じように、客間もまた汚れて見えたのだ。畳には染みがあり、障子は破れた箇所さえある。全体に部屋が煤けて見えるのは、古いせいばかりではないように思われた。
しかし、いきなりそれを口にするわけにもいかず、高弥は政吉に連れられて裏手の井戸や雪隠(厠)などを見せてもらった。そうしていると、志津が二人を呼びに来てくれた。
「政さん、高弥さん、お昼よ」
そう告げられた途端、正直なもので、高弥の腹はきゅぅと鳴った。板橋宿からここまで歩いてきたのだ。いつも以上に腹が減っているのも仕方がない。気恥ずかしいながら、高弥は笑ってごまかす。
志津はくすりと柔らかく笑ったけれど、政吉は小莫迦にしたように息を吐き出した。
「ありがとうございやす、お志津さん。お志津さんが作ったんですかい」
「そうよ。飯の支度はわたしか女将さんね」
宿の炊事は、大概が女房や女中の仕事である。料理人を置くような宿は稀なのだ。
あやめ屋もその例に漏れないらしい。
「食ったらキリキリ働けよ」
政吉にそう言われ、高弥は張りきってうなずいた。
「へい、任しておくんなさい」
そうして、高弥のあやめ屋での初日が始まろうとしていた。
その始まりに出た昼餉は――茶粥であった。それに沢庵の糠味噌漬けふた切れ。傷だらけの箱膳にそれだけが置かれている。箱膳が無駄に大きく広く感じられた。
しかし、主であるていも同じものを食べるようであった。高弥が新入りであるからこれだけというわけではない。
台所の畳の上で、あやめ屋の奉公人たちは無言で茶粥を啜っていた。誰も文句など言わない。これが常で、なんの疑問もないようであった。
そう、高弥は食に関して常に恵まれていた。本来ならばこれが昼餉としては妥当な、ごく普通の食事なのである。客ならいざ知らず、奉公人たちが食うものなのだ。質素倹約を心がけているのだろう。
とはいえ、茶粥はまだしも、沢庵は臭みが強かった。
食ったような、食い足りないような心地のまま、昼餉を終えた。客を迎える時刻まで少しくらいのゆとりはある。高弥はそれまでにもう少しこの宿を綺麗にしたいと考えた。
「おい、高弥。まずは宿の掃除からだ」
「へいっ」
政吉に手渡された手ぬぐいと桶を、高弥は上機嫌で受け取った。政吉は高弥が嬉しそうであることが奇妙なようで、眉をちぐはぐに動かしてから言った。
「俺は買い出しに行ってくらぁ。手ぇ抜くなよ」
「へいっ」
高弥は袂から襷を取り出すと、背中で筋交いにして肩口で縛った。
「よし、やるぞっ」
声に出して己を奮い立たせる。最初が肝心なのだ。精一杯磨き上げよう。
裏手の井戸で水を汲んであやめ屋に戻った。まず板敷から拭いてしまおう。
土間伝いに回り込むと、帳場に元助がいた。そこでまた煙管を咥えている。特に何かをしているふうでもなく、煙草を呑んでいるだけのように見えた。
高弥はまず、板敷を部屋用の草箒で掃くと、手ぬぐいを濡らして軽く拭いてみた。そうしたら、手ぬぐいはすぐに黒く汚れた。なんとなく自分の足の裏を見たら、やはり黒く汚れていた。
丁寧に、少し拭いては手ぬぐいを洗い、桶の水が黒くなったら水を取り替え、何度も何度もそれを繰り返した。黒い板敷にほんのりと艶が蘇るまで、高弥はせっせと板敷を拭いていた。
その間、元助は帳場格子の中から少しも動かなかった。時折、灰吹きに煙管を打ちつける音がするくらいである。帳面の整理にしては、帳面は閉じられたままであった。気分転換にしては長い。何をしているのだろう。
そんなことが気になったのを元助が感じたのか、高弥に低い声がかかった。
「おい、いつまで同じところを拭いてやがる。とっとと他のところへ移れ」
同じところを拭いているのは、それだけ汚れがひどかったからだ。板敷を見れば、綺麗になったことがわかるだろうに。だいたい、高弥がずっと掃除をしていたのをそこで見ていたのだ。手を抜いているように見えたのだろうか。
そう思う気持ちがないわけではなかった。けれど、父も高弥にあえて厳しいことを言う。だから、元助のこの言動も何か理由があってのことかもしれない。
このあやめ屋は利兵衛が薦めてくれた宿なのだ。こう汚れているのも、もしかすると繁盛しすぎて掃除に手が回らなくなったからだとか。
「へい、すぐに」
考えていても仕方がない。高弥は笑顔で桶を持って立ち上がり、もう一度水を取り替えてから客間に向かった。畳が汚れているばかりでなく、窓の桟にも埃が積もっている。高弥は客が来る前にと急いで客間を拭き清めた。
終わった頃には汗ばむほどで、高弥なりに仕上がりは満足だった。カラリと障子が開き、そこに糸目の平次が立っている。
「おお、見違ぇたな。お前、よくこんなことやろうと思うなぁ」
驚きと共に含まれるのは、感心だとかそういうものではなかった。呆れたような、そんな言い方に聞こえたのだ。高弥はよくわからないながらにうなずく。
「お客様をお迎えする大事な部屋でございやす。丹念に拭かせて頂きやした」
すると、平次は気の抜けたような笑顔を向けた。
「はは、お客様をなぁ」
「へい。あの、そろそろ呼び込みをする頃でございやす。おれも呼び込みを手伝いやしょうか」
高弥は真面目に言ったのだが、平次はさらに呆れた顔になる。
「お前が呼び込みなんざしてどうすんだ。お志津に任せときゃいいんだよ」
「じゃあ、次は何をしやしょう」
そう返すと、今度は少々言葉に詰まった様子だった。
「何って――」
「お客様をお迎えする前に、平次さんはいつも何をしているんでござんすか」
この時分に、つばくろ屋以外の旅籠が何をしているのかなどといったことは知らない。だからそう訊ねてみたのだ。
けれど、その問いかけで平次の機嫌を損ねてしまったようだ。
「なんでもいいだろっ。旅籠での仕事ってぇのは客が来てからじゃねぇか」
「はぁ」
小さな引っかかりはあれど、それをなんとなく横に押しやってしまうのは、ここが利兵衛の選んでくれた宿だと思うからだろうか。請状を失くした莫迦な己を、それでも受け入れてくれたという引け目もある。
そう難しいことではなく、深く考えない方がいいと高弥の心が察しただけのことであったのかもしれないけれど。
●
それから、高弥はこれをしろという仕事は割り振られず、自分から仕事を探した。表を掃きたいけれど、街道は賑わっているので邪魔になる。せめて土間だけでもと掃いて砂を搔き出しておいた。
そんな間も、元助は帳場格子の中で座っていた。主であるていは台所で夕餉を拵えている。つまり、働いているのだ。元助は――あれで働いているのだろうか。
同じ番頭でも、つばくろ屋の藤助とは何かと違う男であった。
しかし、元助のことばかり気にしていても仕方がない。高弥は箒を片づけ、手を洗って客の来訪に備えた。政吉と平次はどこへ行ったものか姿が見えない。街道では志津だけが、慌ただしく行き交う旅人を引き留めては声をかけていた。
けれど、志津の呼び込みはあまりよいやり方だとは言えなかった。一人ずつ呼び止めては声をかけている。軽く勧めて、首を横に振られたら、はいそうでござんすかと次へ移る。
旅籠の留女といったら、名物になるほど強引な客引きをするものである。客の荷物を奪って自らの宿に放り込む、腕をつかんで引きずっていく、体当たりを食らわせて宿に押し込む。そこまでしなければ客が確保できぬほど、宿場町では旅籠がひしめき合っており、客は奪い合うものなのだ。
志津はその気迫が薄いように感じられた。
それでも、志津は器量がよいからか、声をかけられた男はまんざらでもなかったらしい。どうやら今宵の宿をあやめ屋へ決めてくれたようだ。
高弥が来て、初めての客である。高弥は張りきって挨拶をした。
「ようこそあやめ屋にお越しくださいやした。ささ、お荷物をお預かり致しやす」
「おう、頼まぁ」
男は三十路くらいであろうか。振り分け荷物を投げるようにして高弥に寄越した。帳場から、元助がぎろりと高弥を睨んだ気がした。けれど、おかしなことはしていないつもりなので、気のせいかとあまり気にしなかった。
「おみ足を洗わせて頂きますね」
ていが土間続きの台所から洗い桶を持ってやってきた。客の足を洗って、それから板敷に上げる。高弥が丹精込めて磨いたから、今日の板敷は綺麗だ。やっぱり磨いておいてよかったと、高弥は胸を撫で下ろす。
客の男が記帳している時だけ、元助が番頭としての仕事をしているように見えた。
「元助さん、どのお部屋にご案内致しやしょう」
高弥がそう訊ねると、元助はぶっきら棒に答えた。
「一番奥だ」
「へい」
返事をしつつ、高弥は複雑な心持ちであった。客の前だというのに、言い方が荒っぽく愛想も何もない。これでは、客が気分を害するのではないだろうか。
幸い、この客は同じような男であったから、そこまで気にしていないふうであった。けれどこれが女子供であったなら、元助はどう見えただろう。怖がられたのではないだろうか。もう少し、客を迎え入れやすい雰囲気を作るべきだと思う。
ていはそんな元助を咎めず、再び台所に戻った。
それから、最初の客は湯屋へ行った。先に旅の疲れを流してくるとのことだ。その男が戻ってくるまでの間、志津が捕まえられた客はいなかった。
一人しか客がいない。そんなことがあり得るのか。高弥は恐れおののいた。
だというのに、志津はまるで気にしたふうではない。
「さて、それじゃあわたしも夕餉の支度を手伝ってくるわ」
などとのん気なことを言って街道から引き揚げてきた。それに対し、元助も何も言わない。すました顔で座っている。
「え、や、あの、もうちっと呼び込みをした方がいいんじゃ――」
思わずつぶやいた高弥に、志津はくすりと笑う。
「でも、女将さんだけに台所仕事をさせちゃ悪いでしょう」
「それはそうかもしれやせんが。じゃあ、おれが代わりに呼び込みをしやす」
このままではいけない。何かしないと、と高弥なりに思ったのだ。
けれど、志津は少しだけ顔を曇らせた。自分の仕事にケチをつけられたと感じたのだろうか。
そんなつもりはなかったのだけれど、そう受け取られてしまったのかもしれない。
「そう。頑張ってね」
志津はそれだけを言って台所へ行ってしまった。それを見ていた元助が軽く笑った。高弥の胸の辺りにざわりと隙間風が吹いた。
けれども、気を取り直して表に出た。
夕七つ(午後四時)の品川宿では、旅籠に吸い込まれるようにして旅人の姿が減っている。しかし、そこには板橋宿との違いが確かにあった。
旅人は減っている。それでも、明らかに板橋宿よりも人が多いのだ。これは宿場自体の大きさの違いだけではない。菅笠を被ってはいるが、旅装ではない人々がいる。笠を被っているのならば品川宿の者でもないだろう。それならばどういうことなのだろうか。
釈然としないながらも、高弥は潮と土の匂いを胸いっぱいに吸い込む。そうして軽く吐き出すと、改めてその場で大声を張り上げた。
「さあさ、いらっしゃいませ。今宵のお宿はどうぞこのあやめ屋にお越しください。真心尽くしのおもてなしと美味しい料理をご用意しておりやす。どうぞこのあやめ屋にお越しください」
母の見様見真似だ。声が大きいだけで、母ほどに上手くはない。母は怒鳴っているふうでもないのに、喧騒の中で騒音に負けない声を軽やかに響かせるのだ。
それでも、大声に振り向き、足を止めてくれたらいいと思った。たった一人しか客がいないからといって手を抜くつもりはないけれど、ひと晩一人では宿が立ち行かなくなるのではないかと不安になる。
それとも今日が特別で、普段はこうではないのだろうか。どこにだって繁忙期があり、暇な時期との落差はあるのだから。
二階にいたらしく、平次が欄干から街道を見下ろしている。その顔が引きつっていたけれど、それでも高弥は続けた。
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、今宵のお宿はどうぞこのあやめ屋にっ」
すると、通りかかった菅笠の侍が立ち止まった。どっしりとした厳つい侍で、どこか野暮ったさがある。侍は、高弥を見て顔をゆるめた。
「んだもしたん、おなごんごつむじょかよかちごじゃなぁ」
「へ――」
右の耳から左の耳へ抜け、侍の言葉は高弥の頭には少しも残らなかった。けれど、この国訛りには聞き覚えがある。独特なこの喋りは、確か薩摩弁だ。上方訛り以上に聞き取れず、意味すらまるでわからない。
なんと言われたのか、意味がわからぬから返事ができずにいた。高弥が固まっていると、薩摩藩士らしき侍はくつくつと笑った。
「じゃっどん、男なら足っちょっ」
それからも豪快に笑いながら街道を歩いていった。高弥はぽかんと口を開けて侍を見送った。そんな様子を見ていた平次が、侍と一緒になって笑っている声が二階から降る。
「平次さん、今のお武家様はなんて言われたんでしょう」
二階を見上げると、平次は腹を抱えていた。そうして、ひらひらと手を振って首を引っ込める。それにしても笑いすぎだ。
思わずムッとしたけれど、そんな高弥を御高祖頭巾の男が見ていた。客だと気を取り直して笑顔を作る。
「いらっしゃいませ、今宵のお宿はどうぞこのあやめ屋にお越しください」
すると、男は頭巾の頭を軽く揺らした。うなずいたようだ。
「新しく入った奉公人か」
「へい、今日から上がったばかりで」
「お志津はおるか」
「へい、夕餉の支度をしておりやす」
それを聞くと、頭巾の男はまたうなずいてあやめ屋の暖簾を潜った。その時、すれ違った男の衣の色がたいそう暗く見えた。それから、独特の匂いが僅かに漂った。
この男は志津の知り合いらしい。旅装ともとれない姿である。
高弥はそれからも声を張り上げて呼び込みを続けた。己でやってみて初めて、母が毎日行っていることがこんなにも大変であったのかと気づいた。
声を張り上げることが嫌なわけではない。それでも、見向きもされず、客が足を向けてくれない。この報われなさに心が沈むのだ。声を出すたび、虚しさが募る。もうやめようかと弱気になってしまう。
そんな時、老夫婦が高弥の声に立ち止まってくれた。
「おや、元気な声だね。もてなしと料理が自慢だって。それなら泊まってみようかねぇ。どう思います、おまえさん」
「うぅん、小さな旅籠だなぁ。お前が泊まりてぇなら、まあいいけどよ」
杖を手にした女房に亭主が苦笑する。足元を見れば、二人とも草鞋が汚れ、くたびれていた。それなりの道のりを歩いてきたようだ。
亭主の方も少しばかり腰が曲がっており、足腰が丈夫だった頃のようにはいかず、その道のりを歩くのにどれくらいの時がかかるのかを計れなかったのかもしれない。だから宿を取るにも遅い時刻になったのだろう。
それでも、二人で寄り添って旅をして、いい夫婦だと高弥には思えた。この夫婦をもてなせることを嬉しく思う。精一杯、疲れが癒えるように尽くしたい。
高弥は二人に、にこりと笑いかける。
「ようこそ、あやめ屋へ――」
二人を中へ誘うと、帳場の前にあの御高祖頭巾の男がいた。元助と話をしていたけれど、後ろから新たな客が来たので、そそくさと客間へ行ってしまった。手ぶらの政吉が案内する。
あの客に手荷物はなかったのだ。奇妙な客だと高弥は思ったけれど、今は自分が引き入れたこの老夫婦を部屋へ通さねばと気を取り直した。
ていと志津が洗い桶を持ってきて二人の足を洗う。高弥は亭主から荷物を、女房から杖を預かった。二人は最初の客の向かいの部屋に通せと言われた。
「夕餉の支度が整うまでお待ちください。それとも湯屋に行かれやすか」
高弥がにこやかに訊ねると、老夫婦は顔を見合わせてからかぶりを振った。
「もうすぐお江戸に着くから、湯屋は明日にしておくよ。今日はゆっくり休みたいね」
女房が優しく答えてくれた。やはり、相当に疲れているようだ。亭主もトントン、と腰を軽く叩いている。高弥が目を向けると、亭主は照れ臭そうに言った。
「湯治に行ってきたのよぅ。これでも少しは楽になった方でぇ」
「そうそう、箱根七湯廻り。今生にいい思い出ができましたねぇ」
「ばっきゃろ。長生きするために行ってきたんじゃねぇか。何が今生の思い出だ」
「はいはい、そうでしたね」
フフ、と女房が笑う。高弥も自然と笑っていた。いい旅をしてきた二人だ。このままいい気分で帰ってもらいたい。
「では、支度が整いましたらお報せさせて頂きやす。それまでどうかごゆるりと」
三つ指突いて丁寧に頭を下げた。
「ええ、ありがとうね」
老夫婦はそんな高弥を穏やかに見送ってくれた。
この辺りの旅籠では、食事は用意された膳を客が部屋からやってきて食べるものである。つばくろ屋では上方風に各部屋へ配膳していたけれど、このあやめ屋は部屋への配膳をしない口であろう。各々のやり方があるから、それが合っているのならば構わないと思う。
今日、高弥が食べた昼餉は質素なものであった。もう腹が空いている。あまり足しにはならなかったけれど、皆が同じだけの量しか食べていないのだから何も言えない。
客に出す膳はどのようなものだろうか。高弥はあれこれと考える。
この時季は豆類が旬で美味い。茗荷や瓜なども手に入りやすい。茄子と牛蒡も出回っているだろう。この時季にしかない味がある。それをていや志津がどう料理するのか、高弥なりに楽しみであった。
父が作るつばくろ屋の味ほどではないにしろ、客に出す以上はそれなりのものを作れるはずだ。高弥が学べることもきっとあるだろう。
そうして、出来上がってきた夕餉の膳を志津は空いているひと間に運び込んだ。ここが客で埋まっていたら台所を使うのかもしれないけれど、生憎と空いている。
膳の数は三膳。はて、と高弥は小首をかしげた。客は最初の一人と、御高祖頭巾の男、夫婦の四人である。櫃を抱えた志津は、そんな高弥にぼそりと言った。
「おひと方はここで食事はなさらないの。お泊まりになるだけよ」
それはきっと、あの御高祖頭巾の男だろう。謎めいたあの男は一体何者なのか。志津の馴染みのようであったけれど。
「あの頭巾のお客様ですかい」
なんとなく言うと、志津はそうよ、と消え入りそうな声で答えた。その様子から、志津はもしかするとあの客が苦手なのではないかと思えた。事情を知らない高弥には何も言えないけれど、かといってないがしろにしていいわけもない。一人の客としてもてなさなくてはならぬと思う。
しかし、それにしても料理の膳は彩りに欠けていて、全体が黒っぽく見えた。色が黒くないのは添えられた漬物くらいだろうか。
焼き物の魚は鰯のようだけれど、焼きめが強すぎる。あれでは脂が落ちてしまって硬く、味気ないのではないだろうか。それから、焼き豆腐の吸したじ(吸い物)は妙に黒い。椀の色は朱だからこそ、それがよくわかる。
酢蛸に色味を求めても仕方がないけれど、ほんの少し緑のものを添えるだけでぐっと引き立つのに、ぶつ切りの蛸が素っ気なく並んでいるのが勿体ない。
それから、汁物に豆腐を入れているのにさらに一品が豆腐田楽なのもどうなのだろう。材料が被らないように献立を決めた方がよかったのではないか。
高弥はその膳の色々なことが気になって仕方がなかった。
これで――いいのだろうか。不安に押しつぶされそうだった。今日一番の苦しさだった。
そんな高弥の心など知らず、政吉と平次が客を連れてきたのだった。高弥はへたり込むようにして部屋の片隅に座した。
「ああ、腹が減ったぜ」
などと言いながら男が膳の前に座った。老夫婦もまた、その男に向かい合う形で座る。志津は櫃から飯をよそってそれぞれの膳へ並べていく。ただ、昼餉に食べた時は茶粥だったせいで気づかなかったけれど、ああして茶碗に盛られると、焦げが目立つ。
高弥はもう、口をあんぐりと開けてしまった。美味しそうには見えなかった。
それでも、祈るような気持ちで客が箸をつけるところを見守っていた。ていが男と老夫婦の亭主の猪口に酒を注ぐ。
その酒をくい、と飲み干した男が、酢蛸を口に含んですぐに――むせた。ごほ、ごほ、と気の毒なくらいに。ていがその背をとっさに摩る。
「あらあら、どうなさいました」
男はむせすぎて涙を滲ませていた。あれでは喋ることもできない。それでも、高弥にはなんとなくわかってしまった。あの酢蛸が思った以上に酸いのだと。
そして、吸したじを口に含んだ亭主は、目を白黒させた。女房は、焼きすぎて硬くなった鰯の身が箸で解れずに苦戦している。
酢蛸にはもう箸をつけようとしなかった男は、漬物で飯を食い、それから、串に刺さった田楽をひと口頬張ると、なんとも複雑な面持ちになり、田楽の味噌を皿の縁に擦りつけて落としてから食べた。酒だけをよく飲み、膳は半分以上が残った状態で、席を立つ。
腹が減ったと言っていたのに、箸がまるで進まなかった。あんなにも料理が残されてしまっても、ていと志津は平然としている。それがまた高弥には不可解であった。
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