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1巻
1-2
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「まんじ屋さん、お豆腐くださいな」
豆腐屋まんじ。
先代の店主万次が興した豆腐屋である。今は息子で二代目の万蔵が継いでいる。
「あら、つばくろ屋のお嬢さん。いつもありがとうございます。もう少ししたらお持ちしましたのに」
この中年増の女将は落ち着いた物腰で評判もいい。
「すぐそこだもの。大丈夫です。ええと、お豆腐一丁半ください」
「はいはい。あんた、つばくろ屋のお嬢さんに豆腐一丁半だよ」
岡持桶を受け取ると、まんじ屋の女将は暖簾の奥にそれを突き出す。おお、と野太い声がして、岡持桶を受け取った万蔵が大きな体を覗かせた。
「ありがとうな。いつも通り、奴でいいんだろう」
「はい」
頼めば好きな大きさに切ってくれるけれど、佐久はいつも奴――そのままの形で買う。
万蔵は桶に水を張り、そこに浸るように豆腐を入れてくれた。白米、大根に次ぐ三白の名に恥じない、見事な白い豆腐である。しっかりと腰があって崩れにくい。京豆腐は柔らかくて一丁がこの四分の一ほどしかないと聞くけれど、佐久にはとても信じられない。そんなに小さな一丁では、精々が一家分だ。
ありがとうと礼を言って、ずしりと重たくなった岡持桶を大事に提げた。豆腐が土埃に塗れぬように蓋をして道を引き返す。
するとその時、とある女の姿が目に入った。佐久が目を留めたのは、農民のような女である。目抜き通りには似た格好の飯盛女が多く、本来ならば珍しくない。ただ、その女が飯盛女ではないとすぐに知れたのは、背に幼子を背負っていたからだ。
継ぎのある浴衣、素足に草鞋、髪も崩れているけれど直す手間が惜しいのだろうか。子育てに疲れたのか、悲愴に面やつれしていた。大年増とまでは行かずとも、そう若くもない。
日々の暮らしに疲れ果てた様子が窺えた。それが佐久には気になったのだ。
しょんぼりとした様子の女は佐久の横を通り過ぎる時、ハッとして顔を上げた。佐久は驚きつつも愛想よく振る舞う。
「おはようございます」
女は困り果てた眉のない顔を向け、ぽつりと零した。
「あ、あの」
唇から覗く歯にお歯黒は塗られていなかった。それが意味することを佐久はぼんやり考える。
「あの、前野村の喜一って男を知りゃしませんか。年は三十路で浅黒くって、背は低いけれど逞しい方と思います」
珍しい名ではない上、板橋宿の外、前野村となれば佐久も詳しくはない。
「尋ね人でございますか。うぅん、心当たりはありませんけれど、わたしも気に留めておきますね。あなたのご亭主ですか」
うなずいた女はみねと名乗った。
「はい、助郷務めで一年前に隣の蕨宿まで。あたしも産後すぐには動けませんでしたし、今か今かと待ちわびておったんですが、あすこは近くに川がありますでしょう。一旦悪いふうに考え出すとどうにもならなくて、捜し始めたんです」
蕨宿までの道中、そばには戸田川があり、蕨宿ができる前は渡し場で船に乗って渡河していた。けれど川とは厄介なもので、大雨で戸田川の水が溢れてしまえば、時刻にかかわらず川留めされてしまう。その先には進めぬのだ。
中山道は過去、板橋宿の次は浦和宿であった。ただ、距離が遠すぎることと、増水の際の渡河に難儀することから、その間の堤防上に蕨宿を設けたのである。堀を廻らせた十町(約一キロメートル)の珍しい宿場町ではあるものの、それなりに栄えてはいる。
ここから蕨宿までの距離は二里十町(約八・九キロメートル)ほどしかなく、平素の状態で帰りがそんなにも遅いというのはおかしなことだ。
「それは心配ですね」
佐久がつぶやくと、みねは節に土汚れの染みついた手を握り締めた。
「この子の他にも三人の子がいます。もう、どうしていいやら」
うっすら涙ぐむみねに、佐久の方が困り果てた。どう言って慰めればよいのか、思いつくのは月並みな言葉ばかりである。
「きっと今に戻られますよ。お気を落とされずに」
あまり思い詰めると乳の出が悪くなる。佐久は気休めになることを、と思ってもそれしか言えなかった。その代わり、喜一とやらを捜す助けとなれたらいい。
「番屋には行かれましたか」
その問いに、みねはかぶりを振る。
「あたしみたいな貧乏人、相手にされやしません」
卑屈なことを言うけれど、事実、この忙しい時期に消えた農民一人を役人が躍起になって探してくれるはずもない。それでも、訊ねるくらいなら佐久にも手伝える。よし、と心を決めて佐久はみねの手を取った。
「試しに一度行ってみましょう。わたしもお供しますから。でもその前に、この豆腐を置いてきますね」
にこりと笑う佐久に、みねは戸惑いながら礼を述べた。そのまま二人で歩き、みねをつばくろ屋の軒先に待たせ、佐久は板敷に豆腐を置いた。そこには丁度、帳場に座った利助と藤七がいた。
「ねえ、この豆腐を板場までお願い。わたし、少し出てくるわ。半刻(約一時間)くらいで戻るから」
すると、利助と藤七が顔を見合わせた。
「どちらまでですか。お嬢さんになんぞあってはいけません。藤七をお連れください」
利助が太い眉を下げて言った。藤七は佐久が断る前に、素早く土間へ下りてくる。
「御用向きはなんでしょうか」
藤七が目をすぅっと細めた。何か訝っている時の仕草だ。
「いえ、実は――」
と説明しかけたけれど、みねに会ってもらった方が手っ取り早い。佐久は藤七を伴って暖簾を潜り、外へ出た。
「おみねさん、お待たせしました」
佐久の後ろに立つ、背が高くて目つきの鋭い男。みねが目に見えて怯えたので、佐久はやんわりと言った。
「うちの手代の藤七です。頼りになるので連れてきました。藤七、おみねさんよ」
「どうも」
「あ、ああ、すみません、お世話様です」
怯えながらもみねは藤七に挨拶し、佐久の助けを借りて事情を話す。藤七は顎を摩りながらつぶやいた。
「なるほど。事情はわかりました。しかし、それだけ時が経っても戻らぬということなら、手がかりもほとんどないでしょうね」
口調だけが丁寧な、藤七の歯に衣着せぬ物言いに、みねが縮こまった。佐久が目で咎めても、藤七は気づかぬ振りをする。みねは呻くように答えた。
「それでも、おっとうはまだかと待ち続ける子供たちが憐れでなりません」
「ほら、困っている女の人には親切にするものよ」
佐久はいまひとつ乗り気でない藤七の背を押した。藤七は、はいはい、と切れの悪い返事をする。
「さあ、番屋へ行きましょう」
にこやかに言うと、みねの背中で眠っていた幼子がふあ、と愛らしい声を上げた。
「あら、起こしてしまったみたい。堪忍してね」
佐久がみねの背中に回りこむと、大きく澄んだ眼がじいっと佐久を見上げた。白木綿の産着に、髪は剃られて眉も薄く、あどけない表情が大層可愛らしかった。赤子は、起きても大人しくしている。
「すえ、といいます」
みねの声が柔らかくなった。名前からして女子のようだ。
「おすえちゃんね。賢い子。きっといい娘さんに育つわね」
「ありがとうございます」
フフ、とみねが声を立てて笑うのを、佐久は初めて聞いた。いつもそうして笑っていられるといいのに、苦労というのは絶えないものだ。
佐久はみねと並んで、村に残してきたという子供たちの話を聞きながら歩いた。藤七はその後をついてくる。
上二人は男、下二人が女なのだと、みねは子供たちのことを語った。その様子はやはり母親のあたたかさがあり、佐久は亡き母を偲びながらみねの話を聞いていた。
やがて番屋に辿り着くと、佐久は開け放たれた戸から中を覗き見る。そこにいるのは一人だけだった。ひりひりと張り詰めた気が漂っている。今は参勤交代の時期。宿場に滞在する人が増えれば、その数だけ揉め事もあるのだ。
「私が行きましょう」
藤七がそう言ってくれてほっとする。安請け合いをしてしまったのは佐久だけれど、女子供が訴えるよりは藤七が話してくれた方がおざなりにされにくい気がした。
番屋の戸を潜り、中で話をする藤七を、佐久とみねはハラハラと待つ。やっと中から出てきた藤七は、無言でかぶりを振った。
「ここ最近でそういう男の話は聞かないそうです」
そこでやめればよかったのだ。それなのに、藤七は無遠慮につけ加えた。
「こんな話はよくあるのですよ。怪我や病気ならいざ知らず、本人の意思で去ったのなら捜しようが――」
「藤七っ」
思わず声を高くして佐久は藤七の言葉を遮った。けれど、みねの顔は幽霊のように青白い。あれほど大人しかった背中のすえも甲高い声で泣き出した。我に返ったみねは慌ててすえをあやす。
居たたまれなくなって、佐久はそっと言った。
「おみねさん、この後どうされますか」
「まだ戻れません。もう一日だけここに留まります」
乾いた唇をキュッと結ぶみねに、藤七は抜け目なく商売っ気を出した。
「宿をお探しでしたら、ぜひつばくろ屋へ」
みねはトントンと後ろ手に背中のすえを宥めつつ、悄然と視線を下げる。
「お世話になっておいて申し訳ないんですが、あたしには立派過ぎます。木賃宿の方に泊まりますんで」
木賃宿は、この板橋宿では仲宿を抜けた先の上宿に多くある。自炊できる素泊まり宿で、旅籠一日分の宿代があれば五日は泊まることができる安価な宿だ。ただ、それ故に流れ者や荒っぽい雲助(駕籠や荷物運びの人足)のたまり場であり、子連れの女が泊まるには物騒である。
「木賃宿なんて徒者が多いところ、危ないわ。とりあえず、うちに来てくださいな」
銭が払えなくとも、みねとすえくらいならばどうにでもなる。佐久はみねの手を引いた。冷たいと感じる手だ。
この時、藤七が深く嘆息した理由を、佐久はまだよくわかっていなかった。
みねを空き部屋へ通した日出は、にこにこと笑顔を貼りつけて戻ってきた。
「むつき(おしめ)は濡れていたし、乳もあげなくちゃいけないから助かったってさ。可愛い子だねぇ」
佐久がパッと笑みを向けると、日出は急に笑顔を消した。
「でも、それとこれとは話が別ですよ」
「えっ」
戸惑う佐久に、利助までもが厳しい目をした。
「そうですよ、お嬢さん。人情あっての商売とはいえ、宿代をまけたりしては、つばくろ屋の看板に傷がつきますからね。それをしてはなりませんよ」
大人たちのいつにない様子に、留吉がおろおろと動き回る。すると、板場から仏頂面の文吾と弥多までもがやってきた。濡れた手を前掛けで拭いているところを見ると、仕事を中断させてしまったようだ。
「なんでぇ騒がしい」
「お嬢さん、どうされたんですか」
心配そうに佐久を見つめる弥多に、佐久は事情を説明した。優しい弥多ならばわかってくれるのではないかと期待を込めて。
けれど、その優しい弥多が案じたのはみねではなく、佐久と宿のことである。
「それはいけません。お嬢さんは優しすぎます」
「けれど――」
しょんぼりと縮こまる佐久に、文吾は腕を組んでふんぞり返りながら言った。
「ひと晩くらいなら、あっしの家へ泊めましょう。手狭な長屋ですがね、うちのカカァはちぃせえ子供が好きなんで、まあ喜ぶと思いやす」
文吾のところは、孫ももう小さいというほどではない。すえのような子なら可愛がってもらえるだろう。文吾の申し出は正直なところ、ありがたかった。
「甘えてもいいのかしら」
佐久がおずおずと言うと、文吾はカカッと笑い飛ばした。場の湿っぽさが吹き飛ぶ明朗な声だ。
「今更何を言うんですかぃ。まったく、お嬢さんもお人がよすぎると弥多の気が散っていけねぇ」
「オヤジさ――っ」
いつになく大きな声を出しかけた弥多は、自分の口元を押さえてその先を止めた。そうして、ひとつ咳払いをすると黙り込む。心なし顔が赤かった。
「ええと、とりあえず宿の商いが終わるまでおみねさんには待っていてもらうわ」
「ああ、そうしておくんなせぇ」
そう、宿が忙しいのはこれからなのである。佐久がみねのもとへ行って事情を説明すると、みねは畳に額を擦りつけて何度も礼を言った。けれど、日の高いうちにもう少し聞き込みをしたいのだという。日が暮れたらここへ戻ってくると約束して、みねはすえを伴って街道へ出た。
気がかりではあるものの、今は宿に来てくれた客をもてなすことを第一に考えなければならない。佐久はつばくろ屋の印半纏を羽織ると、気を取り直した。
三つ指を突いて、笑顔で客を迎え入れる。
「ようこそ、つばくろ屋へおいでくださいました」
今日の献立は菜っ葉の味噌汁、浅蜊のむき身切干し、三つ葉のおひたし、八杯豆腐、沢庵漬けである。佐久はひと仕事終えると、膳を重ねて父のもとへ向かった。
「お待たせ、おとっつぁん」
佐久が顔を見せると、ここからほとんど動いていないはずの伊平は何故か訳知り顔であった。
「今日は何かあったようだね」
ギクリとしつつも佐久は小さくうなずく。
「ええ、少ぅし」
膳を伊平に差し出し、二人で手をそろえる。伊平が箸をつけるのを待って、佐久も食べ始めた。くたりと煮た、醤油と酒が香る八杯豆腐。短冊に切られた豆腐は今朝、佐久が買い求めたものである。
佐久はもみ海苔のかかった豆腐を呑み込むと、みねのことを話した。食べやすいよう、特別に薄く切られた伊平の沢庵漬けに目が行く。文吾と弥多の心遣いが感じられて胸にあたたかさが染みた。
話し終えた後の伊平の返しは、佐久が思ったよりも厳しいものであった。
「深入りはやめなさい。今日のことは約束してしまったのだから仕方ないにしても、皆忙しい身だ。そうそう手伝えるわけじゃあない」
自分だけでも手伝いたい、とは言えなかった。佐久が抜ければ皆の負担も増えるのだ。自分で片をつけられないことを背負い込むのは、身の程知らずである。
「お佐久」
「――はい」
一度箸を置き、身をすくめて佐久は返事をした。伊平はそんな娘に困ったようにささやく。
「あたしがこんな体になったから、お前に宿のことを頼まなくちゃいけなくなった。それはすまないと思っている。けれど、あたしが深入りするなと言う理由は、何も宿のことばかりじゃあないんだよ」
体のことで一番つらい思いをしているのは伊平だ。そんな父に、自ら体のことを言わせたくはなかったと心が痛む。伊平は言葉を続けた。
「現はね、そう優しいばかりじゃあない。年若いお前にはまだ受け入れられぬこともあるだろう」
父の言葉がぼんやりと佐久に届く。
ただ、佐久が関わらなかったとして、それでもみねが傷つき苦しむことに変わりはない。そこから目を背けることは正しいのだろうか。佐久には判断がつかなかった。
食べ終えた膳を下げに行くと、帳場に利助がいた。いつもならばすでに帰っている時刻だ。利助はすまし顔で帳面を眺めては算盤を弾いている。佐久はその軽快な音を聞きながら、なんとなく訊ねた。
「おみねさんは戻ったかしら」
「いいえ。まだでございますよ」
パチン、と算盤の音がひと際響いた。
「もうとっぷり日が暮れてるのに、遅いわね」
「そうですねぇ」
あまり気のない返事である。佐久は板場の方に膳を返しに行った。
「ごちそうさま。今日も美味しかったわ」
カラリと障子を開けると、藁縄で食器を洗っていた弥多が腰を浮かせた。前掛けで手を拭きつつ、佐久から膳を受け取る。椀がかすかに擦れ合う音が鳴った。
「旦那さんが今日もしっかりと召し上がってくだすってよかったです」
弥多はそう言って笑う。女形にでもなっていたら結構な人気を博したのではないか、と思うほど美しい微笑だ。
「うん、おとっつぁんも美味しいって喜んでいたわ。――ねえ、仕事はもう終えそうかしら」
佐久が訊ねると、弥多は穏やかにうなずいた。
「そうですね、後は片づけだけですから」
片づけは弥多の仕事である。ということは、文吾は仕事を終えたのだろう。どこかで一服しているのか、姿が見えない。
「わかったわ。ありがとう」
文吾の家にみねを泊めてもらうのだ。早く戻ってきてもらわないと文吾も帰れない。ただでさえ遅い時間まで働いてくれている文吾に申し訳なかった。
佐久は裏手から外へ出た。回り込むと、通りには店の行灯が続き、ほの明るく道を照らしている。佐久は通りに立ってみねを捜した。けれど、それらしい姿は見えない。
どうしたものかと平尾宿(下宿)に向けて少しだけ歩いてみた。時刻が時刻なので道行く人は少ない。
すると、通りかかった細い横道の脇で座り込んでいるみねを見つけた。その様子は暗く、疫病神にでも取り憑かれたかのようだ。佐久は声をかけることをためらった。触れれば壊れるような危うさが、みねにはあったのだ。
そうしていると、立ち尽くす佐久の近くに人の気配がした。ハッとして振り向けば、女が立っている。
細身でやや上背のある若い女。少しほつれたつぶし島田、湯屋帰りなのか化粧っ気はなく浴衣姿だ。着飾れば美しく映える顔立ちだろうに、何か気力というものが見受けられない。狐が化けている、そう言われても佐久は信じてしまったかもしれない。
女はふぅと息をつくと、佐久に気だるげな目を向けてつぶやく。
「あんた、喜一の女房の知り合いかい」
「え、ああ――はい」
どくり、と胸が鳴った。この女はみねの亭主を知っているのだ。
そうかい、と女は言った。
「世の中には知らない方がいいこともあるんだよ。知りたいと欲を出した途端、魂を食いちぎられるような目に遭うのさ」
「ど、どういうことですか」
佐久が襟元で手を握り締めると、女はぼそりと零す。
「亭主の喜一を知らないかって訊ねて回ってたけれど、喜一はね、女と手を取り合って逃げたのさ。助郷務めに宿場へ来て身持ちを崩すなんざ、よくある話だからね。まあ、女を搔っ攫って逃げたんだ、楼主はおかんむりさ。そこへのこのこ女房がやってきたんだ。足抜けした遊女の年季分の銭を払えって、店先で男衆にがなり倒されてあの始末さ」
「そんな――。何かの間違いではないのですか」
子供が四人もいる一家の大黒柱が遊女と手に手を取り合って、などという話は、佐久には鵜呑みにできるものではなかった。女はもう一度ため息をつく。
「あの女房も同じことを考えているだろうね」
間違いであってほしい。何かの間違いでなければ、みねはこの先子供たちを抱えてどうしたらいいというのか。
女は感情の読みにくい目をみねに向け、佐久に訊ねた。
「背中の子、女の子かい」
「ええ」
「これから可哀想なことになるね」
女はそんなことを言った。みねの一家がズタズタになる、そう予見するのか。易者ではなく、ただの農民のような若い女だ。そこでああ、と佐久は思い至った。
この女はきっと飯盛女、宿場の妓楼が抱える遊女なのだろう。だから、すえもいずれは食い詰めた挙句に妓楼へ売られてしまうと思ったようだ。すえに自分を重ねたのかもしれない。
佐久はどうしていいかわからず、足に根が生えたかのように立ち尽くす。風がヒュウと吹いて、それにすら体が揺らぐようだった。すると女は佐久に背を向け、去り際にひと言だけ残した。
「七つ前は神のうち――ってね。育ちの良さそうなあんたにはわからないだろうけど」
女の背中は深まる闇の中へ消えた。ぽつりと残された佐久は、みねをどうにかして励まさなければならないと感じた。覚悟を決めてみねに声をかける。
「おみねさん、こんなところにいらして。ほら、おすえちゃんが風邪をひいてしまいます。戻りましょう」
「お嬢さん――」
春とはいえ寒さの残る中、冷えきったみねの手をただ引いて歩く。佐久は、みねが啜り泣く声を聞かなかったことにした。下手な慰めなど言えやしない。
心が搔き毟られながらも、戻って早々、佐久は日出に怒られた。
「嫁入り前の娘さんが黙って出歩く時刻ですかっ」
日出が怒ると雷様よりも怖い。佐久が縮こまって項垂れていると、日出のその剣幕にみねが詫びた。
「あたしがいつまでも戻らなかったから悪いんです。お世話をかけてあいすみません」
客人のみねまで叱ることはできず、日出の怒りは行き場を失う。すみませんと繰り返すみねに、文吾は苦笑しながら言った。
「ほれ、行くぞ」
「あい」
うなずき、みねは文吾の後に続く。赤くなっているであろうみねの目元を、外の暗さが隠してくれている。
みねは大丈夫だろうか。すえを背負った背中を見送りながら佐久は案じた。
藤七が暖簾を取り込み、弥多と留吉が一緒に雨戸を閉め始める。表の行灯の火をふぅと消すと、藤七は留吉を手招きした。
「おい、留。昨日の浚いだ。来い」
留吉はすでに眠たいようで、目を擦りながらあい、とつぶやいた。
「お嬢さん、おやすみなさい」
「お嬢ひゃん、おやすみなひゃい」
留吉も藤七に続いて頭を下げた。今から読み書き算盤を習うのだ。留吉が少し可哀想になるけれど、将来のためと思えば仕方がない。
そうして二人が去ると、土間には佐久と弥多だけが取り残された。暗がりの中、弥多はいつもの優しい微笑を浮かべてはいなかった。
「ひと声かけてくだされば、私が行きましたものを」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、弥多はそっと気遣うように声を絞り出した。
「お嬢さん、無茶はいけません」
佐久はこくりとうなずいた。
みねはこれからどうするのか。考えると佐久まで恐ろしくなって指先が震えた。みねの心細さはいつまで続くのだろう――
●
翌朝、文吾はみねたちを連れずにつばくろ屋へ出てきた。
「いえね、おすえちゃんがまだ寝てたんで置いてきやした。起きたらこっちに来るようにおみねさんには言ってありますんで」
そこで文吾はフフ、と珍しい笑い方をした。
「まあ大人しい子で、少しも邪魔にならなかったですぜ。むしろうちのが名残惜しくて、ごねてるくらいでさ」
「そうなの。よかった」
佐久はそれを聞いてほっとした。
豆腐屋まんじ。
先代の店主万次が興した豆腐屋である。今は息子で二代目の万蔵が継いでいる。
「あら、つばくろ屋のお嬢さん。いつもありがとうございます。もう少ししたらお持ちしましたのに」
この中年増の女将は落ち着いた物腰で評判もいい。
「すぐそこだもの。大丈夫です。ええと、お豆腐一丁半ください」
「はいはい。あんた、つばくろ屋のお嬢さんに豆腐一丁半だよ」
岡持桶を受け取ると、まんじ屋の女将は暖簾の奥にそれを突き出す。おお、と野太い声がして、岡持桶を受け取った万蔵が大きな体を覗かせた。
「ありがとうな。いつも通り、奴でいいんだろう」
「はい」
頼めば好きな大きさに切ってくれるけれど、佐久はいつも奴――そのままの形で買う。
万蔵は桶に水を張り、そこに浸るように豆腐を入れてくれた。白米、大根に次ぐ三白の名に恥じない、見事な白い豆腐である。しっかりと腰があって崩れにくい。京豆腐は柔らかくて一丁がこの四分の一ほどしかないと聞くけれど、佐久にはとても信じられない。そんなに小さな一丁では、精々が一家分だ。
ありがとうと礼を言って、ずしりと重たくなった岡持桶を大事に提げた。豆腐が土埃に塗れぬように蓋をして道を引き返す。
するとその時、とある女の姿が目に入った。佐久が目を留めたのは、農民のような女である。目抜き通りには似た格好の飯盛女が多く、本来ならば珍しくない。ただ、その女が飯盛女ではないとすぐに知れたのは、背に幼子を背負っていたからだ。
継ぎのある浴衣、素足に草鞋、髪も崩れているけれど直す手間が惜しいのだろうか。子育てに疲れたのか、悲愴に面やつれしていた。大年増とまでは行かずとも、そう若くもない。
日々の暮らしに疲れ果てた様子が窺えた。それが佐久には気になったのだ。
しょんぼりとした様子の女は佐久の横を通り過ぎる時、ハッとして顔を上げた。佐久は驚きつつも愛想よく振る舞う。
「おはようございます」
女は困り果てた眉のない顔を向け、ぽつりと零した。
「あ、あの」
唇から覗く歯にお歯黒は塗られていなかった。それが意味することを佐久はぼんやり考える。
「あの、前野村の喜一って男を知りゃしませんか。年は三十路で浅黒くって、背は低いけれど逞しい方と思います」
珍しい名ではない上、板橋宿の外、前野村となれば佐久も詳しくはない。
「尋ね人でございますか。うぅん、心当たりはありませんけれど、わたしも気に留めておきますね。あなたのご亭主ですか」
うなずいた女はみねと名乗った。
「はい、助郷務めで一年前に隣の蕨宿まで。あたしも産後すぐには動けませんでしたし、今か今かと待ちわびておったんですが、あすこは近くに川がありますでしょう。一旦悪いふうに考え出すとどうにもならなくて、捜し始めたんです」
蕨宿までの道中、そばには戸田川があり、蕨宿ができる前は渡し場で船に乗って渡河していた。けれど川とは厄介なもので、大雨で戸田川の水が溢れてしまえば、時刻にかかわらず川留めされてしまう。その先には進めぬのだ。
中山道は過去、板橋宿の次は浦和宿であった。ただ、距離が遠すぎることと、増水の際の渡河に難儀することから、その間の堤防上に蕨宿を設けたのである。堀を廻らせた十町(約一キロメートル)の珍しい宿場町ではあるものの、それなりに栄えてはいる。
ここから蕨宿までの距離は二里十町(約八・九キロメートル)ほどしかなく、平素の状態で帰りがそんなにも遅いというのはおかしなことだ。
「それは心配ですね」
佐久がつぶやくと、みねは節に土汚れの染みついた手を握り締めた。
「この子の他にも三人の子がいます。もう、どうしていいやら」
うっすら涙ぐむみねに、佐久の方が困り果てた。どう言って慰めればよいのか、思いつくのは月並みな言葉ばかりである。
「きっと今に戻られますよ。お気を落とされずに」
あまり思い詰めると乳の出が悪くなる。佐久は気休めになることを、と思ってもそれしか言えなかった。その代わり、喜一とやらを捜す助けとなれたらいい。
「番屋には行かれましたか」
その問いに、みねはかぶりを振る。
「あたしみたいな貧乏人、相手にされやしません」
卑屈なことを言うけれど、事実、この忙しい時期に消えた農民一人を役人が躍起になって探してくれるはずもない。それでも、訊ねるくらいなら佐久にも手伝える。よし、と心を決めて佐久はみねの手を取った。
「試しに一度行ってみましょう。わたしもお供しますから。でもその前に、この豆腐を置いてきますね」
にこりと笑う佐久に、みねは戸惑いながら礼を述べた。そのまま二人で歩き、みねをつばくろ屋の軒先に待たせ、佐久は板敷に豆腐を置いた。そこには丁度、帳場に座った利助と藤七がいた。
「ねえ、この豆腐を板場までお願い。わたし、少し出てくるわ。半刻(約一時間)くらいで戻るから」
すると、利助と藤七が顔を見合わせた。
「どちらまでですか。お嬢さんになんぞあってはいけません。藤七をお連れください」
利助が太い眉を下げて言った。藤七は佐久が断る前に、素早く土間へ下りてくる。
「御用向きはなんでしょうか」
藤七が目をすぅっと細めた。何か訝っている時の仕草だ。
「いえ、実は――」
と説明しかけたけれど、みねに会ってもらった方が手っ取り早い。佐久は藤七を伴って暖簾を潜り、外へ出た。
「おみねさん、お待たせしました」
佐久の後ろに立つ、背が高くて目つきの鋭い男。みねが目に見えて怯えたので、佐久はやんわりと言った。
「うちの手代の藤七です。頼りになるので連れてきました。藤七、おみねさんよ」
「どうも」
「あ、ああ、すみません、お世話様です」
怯えながらもみねは藤七に挨拶し、佐久の助けを借りて事情を話す。藤七は顎を摩りながらつぶやいた。
「なるほど。事情はわかりました。しかし、それだけ時が経っても戻らぬということなら、手がかりもほとんどないでしょうね」
口調だけが丁寧な、藤七の歯に衣着せぬ物言いに、みねが縮こまった。佐久が目で咎めても、藤七は気づかぬ振りをする。みねは呻くように答えた。
「それでも、おっとうはまだかと待ち続ける子供たちが憐れでなりません」
「ほら、困っている女の人には親切にするものよ」
佐久はいまひとつ乗り気でない藤七の背を押した。藤七は、はいはい、と切れの悪い返事をする。
「さあ、番屋へ行きましょう」
にこやかに言うと、みねの背中で眠っていた幼子がふあ、と愛らしい声を上げた。
「あら、起こしてしまったみたい。堪忍してね」
佐久がみねの背中に回りこむと、大きく澄んだ眼がじいっと佐久を見上げた。白木綿の産着に、髪は剃られて眉も薄く、あどけない表情が大層可愛らしかった。赤子は、起きても大人しくしている。
「すえ、といいます」
みねの声が柔らかくなった。名前からして女子のようだ。
「おすえちゃんね。賢い子。きっといい娘さんに育つわね」
「ありがとうございます」
フフ、とみねが声を立てて笑うのを、佐久は初めて聞いた。いつもそうして笑っていられるといいのに、苦労というのは絶えないものだ。
佐久はみねと並んで、村に残してきたという子供たちの話を聞きながら歩いた。藤七はその後をついてくる。
上二人は男、下二人が女なのだと、みねは子供たちのことを語った。その様子はやはり母親のあたたかさがあり、佐久は亡き母を偲びながらみねの話を聞いていた。
やがて番屋に辿り着くと、佐久は開け放たれた戸から中を覗き見る。そこにいるのは一人だけだった。ひりひりと張り詰めた気が漂っている。今は参勤交代の時期。宿場に滞在する人が増えれば、その数だけ揉め事もあるのだ。
「私が行きましょう」
藤七がそう言ってくれてほっとする。安請け合いをしてしまったのは佐久だけれど、女子供が訴えるよりは藤七が話してくれた方がおざなりにされにくい気がした。
番屋の戸を潜り、中で話をする藤七を、佐久とみねはハラハラと待つ。やっと中から出てきた藤七は、無言でかぶりを振った。
「ここ最近でそういう男の話は聞かないそうです」
そこでやめればよかったのだ。それなのに、藤七は無遠慮につけ加えた。
「こんな話はよくあるのですよ。怪我や病気ならいざ知らず、本人の意思で去ったのなら捜しようが――」
「藤七っ」
思わず声を高くして佐久は藤七の言葉を遮った。けれど、みねの顔は幽霊のように青白い。あれほど大人しかった背中のすえも甲高い声で泣き出した。我に返ったみねは慌ててすえをあやす。
居たたまれなくなって、佐久はそっと言った。
「おみねさん、この後どうされますか」
「まだ戻れません。もう一日だけここに留まります」
乾いた唇をキュッと結ぶみねに、藤七は抜け目なく商売っ気を出した。
「宿をお探しでしたら、ぜひつばくろ屋へ」
みねはトントンと後ろ手に背中のすえを宥めつつ、悄然と視線を下げる。
「お世話になっておいて申し訳ないんですが、あたしには立派過ぎます。木賃宿の方に泊まりますんで」
木賃宿は、この板橋宿では仲宿を抜けた先の上宿に多くある。自炊できる素泊まり宿で、旅籠一日分の宿代があれば五日は泊まることができる安価な宿だ。ただ、それ故に流れ者や荒っぽい雲助(駕籠や荷物運びの人足)のたまり場であり、子連れの女が泊まるには物騒である。
「木賃宿なんて徒者が多いところ、危ないわ。とりあえず、うちに来てくださいな」
銭が払えなくとも、みねとすえくらいならばどうにでもなる。佐久はみねの手を引いた。冷たいと感じる手だ。
この時、藤七が深く嘆息した理由を、佐久はまだよくわかっていなかった。
みねを空き部屋へ通した日出は、にこにこと笑顔を貼りつけて戻ってきた。
「むつき(おしめ)は濡れていたし、乳もあげなくちゃいけないから助かったってさ。可愛い子だねぇ」
佐久がパッと笑みを向けると、日出は急に笑顔を消した。
「でも、それとこれとは話が別ですよ」
「えっ」
戸惑う佐久に、利助までもが厳しい目をした。
「そうですよ、お嬢さん。人情あっての商売とはいえ、宿代をまけたりしては、つばくろ屋の看板に傷がつきますからね。それをしてはなりませんよ」
大人たちのいつにない様子に、留吉がおろおろと動き回る。すると、板場から仏頂面の文吾と弥多までもがやってきた。濡れた手を前掛けで拭いているところを見ると、仕事を中断させてしまったようだ。
「なんでぇ騒がしい」
「お嬢さん、どうされたんですか」
心配そうに佐久を見つめる弥多に、佐久は事情を説明した。優しい弥多ならばわかってくれるのではないかと期待を込めて。
けれど、その優しい弥多が案じたのはみねではなく、佐久と宿のことである。
「それはいけません。お嬢さんは優しすぎます」
「けれど――」
しょんぼりと縮こまる佐久に、文吾は腕を組んでふんぞり返りながら言った。
「ひと晩くらいなら、あっしの家へ泊めましょう。手狭な長屋ですがね、うちのカカァはちぃせえ子供が好きなんで、まあ喜ぶと思いやす」
文吾のところは、孫ももう小さいというほどではない。すえのような子なら可愛がってもらえるだろう。文吾の申し出は正直なところ、ありがたかった。
「甘えてもいいのかしら」
佐久がおずおずと言うと、文吾はカカッと笑い飛ばした。場の湿っぽさが吹き飛ぶ明朗な声だ。
「今更何を言うんですかぃ。まったく、お嬢さんもお人がよすぎると弥多の気が散っていけねぇ」
「オヤジさ――っ」
いつになく大きな声を出しかけた弥多は、自分の口元を押さえてその先を止めた。そうして、ひとつ咳払いをすると黙り込む。心なし顔が赤かった。
「ええと、とりあえず宿の商いが終わるまでおみねさんには待っていてもらうわ」
「ああ、そうしておくんなせぇ」
そう、宿が忙しいのはこれからなのである。佐久がみねのもとへ行って事情を説明すると、みねは畳に額を擦りつけて何度も礼を言った。けれど、日の高いうちにもう少し聞き込みをしたいのだという。日が暮れたらここへ戻ってくると約束して、みねはすえを伴って街道へ出た。
気がかりではあるものの、今は宿に来てくれた客をもてなすことを第一に考えなければならない。佐久はつばくろ屋の印半纏を羽織ると、気を取り直した。
三つ指を突いて、笑顔で客を迎え入れる。
「ようこそ、つばくろ屋へおいでくださいました」
今日の献立は菜っ葉の味噌汁、浅蜊のむき身切干し、三つ葉のおひたし、八杯豆腐、沢庵漬けである。佐久はひと仕事終えると、膳を重ねて父のもとへ向かった。
「お待たせ、おとっつぁん」
佐久が顔を見せると、ここからほとんど動いていないはずの伊平は何故か訳知り顔であった。
「今日は何かあったようだね」
ギクリとしつつも佐久は小さくうなずく。
「ええ、少ぅし」
膳を伊平に差し出し、二人で手をそろえる。伊平が箸をつけるのを待って、佐久も食べ始めた。くたりと煮た、醤油と酒が香る八杯豆腐。短冊に切られた豆腐は今朝、佐久が買い求めたものである。
佐久はもみ海苔のかかった豆腐を呑み込むと、みねのことを話した。食べやすいよう、特別に薄く切られた伊平の沢庵漬けに目が行く。文吾と弥多の心遣いが感じられて胸にあたたかさが染みた。
話し終えた後の伊平の返しは、佐久が思ったよりも厳しいものであった。
「深入りはやめなさい。今日のことは約束してしまったのだから仕方ないにしても、皆忙しい身だ。そうそう手伝えるわけじゃあない」
自分だけでも手伝いたい、とは言えなかった。佐久が抜ければ皆の負担も増えるのだ。自分で片をつけられないことを背負い込むのは、身の程知らずである。
「お佐久」
「――はい」
一度箸を置き、身をすくめて佐久は返事をした。伊平はそんな娘に困ったようにささやく。
「あたしがこんな体になったから、お前に宿のことを頼まなくちゃいけなくなった。それはすまないと思っている。けれど、あたしが深入りするなと言う理由は、何も宿のことばかりじゃあないんだよ」
体のことで一番つらい思いをしているのは伊平だ。そんな父に、自ら体のことを言わせたくはなかったと心が痛む。伊平は言葉を続けた。
「現はね、そう優しいばかりじゃあない。年若いお前にはまだ受け入れられぬこともあるだろう」
父の言葉がぼんやりと佐久に届く。
ただ、佐久が関わらなかったとして、それでもみねが傷つき苦しむことに変わりはない。そこから目を背けることは正しいのだろうか。佐久には判断がつかなかった。
食べ終えた膳を下げに行くと、帳場に利助がいた。いつもならばすでに帰っている時刻だ。利助はすまし顔で帳面を眺めては算盤を弾いている。佐久はその軽快な音を聞きながら、なんとなく訊ねた。
「おみねさんは戻ったかしら」
「いいえ。まだでございますよ」
パチン、と算盤の音がひと際響いた。
「もうとっぷり日が暮れてるのに、遅いわね」
「そうですねぇ」
あまり気のない返事である。佐久は板場の方に膳を返しに行った。
「ごちそうさま。今日も美味しかったわ」
カラリと障子を開けると、藁縄で食器を洗っていた弥多が腰を浮かせた。前掛けで手を拭きつつ、佐久から膳を受け取る。椀がかすかに擦れ合う音が鳴った。
「旦那さんが今日もしっかりと召し上がってくだすってよかったです」
弥多はそう言って笑う。女形にでもなっていたら結構な人気を博したのではないか、と思うほど美しい微笑だ。
「うん、おとっつぁんも美味しいって喜んでいたわ。――ねえ、仕事はもう終えそうかしら」
佐久が訊ねると、弥多は穏やかにうなずいた。
「そうですね、後は片づけだけですから」
片づけは弥多の仕事である。ということは、文吾は仕事を終えたのだろう。どこかで一服しているのか、姿が見えない。
「わかったわ。ありがとう」
文吾の家にみねを泊めてもらうのだ。早く戻ってきてもらわないと文吾も帰れない。ただでさえ遅い時間まで働いてくれている文吾に申し訳なかった。
佐久は裏手から外へ出た。回り込むと、通りには店の行灯が続き、ほの明るく道を照らしている。佐久は通りに立ってみねを捜した。けれど、それらしい姿は見えない。
どうしたものかと平尾宿(下宿)に向けて少しだけ歩いてみた。時刻が時刻なので道行く人は少ない。
すると、通りかかった細い横道の脇で座り込んでいるみねを見つけた。その様子は暗く、疫病神にでも取り憑かれたかのようだ。佐久は声をかけることをためらった。触れれば壊れるような危うさが、みねにはあったのだ。
そうしていると、立ち尽くす佐久の近くに人の気配がした。ハッとして振り向けば、女が立っている。
細身でやや上背のある若い女。少しほつれたつぶし島田、湯屋帰りなのか化粧っ気はなく浴衣姿だ。着飾れば美しく映える顔立ちだろうに、何か気力というものが見受けられない。狐が化けている、そう言われても佐久は信じてしまったかもしれない。
女はふぅと息をつくと、佐久に気だるげな目を向けてつぶやく。
「あんた、喜一の女房の知り合いかい」
「え、ああ――はい」
どくり、と胸が鳴った。この女はみねの亭主を知っているのだ。
そうかい、と女は言った。
「世の中には知らない方がいいこともあるんだよ。知りたいと欲を出した途端、魂を食いちぎられるような目に遭うのさ」
「ど、どういうことですか」
佐久が襟元で手を握り締めると、女はぼそりと零す。
「亭主の喜一を知らないかって訊ねて回ってたけれど、喜一はね、女と手を取り合って逃げたのさ。助郷務めに宿場へ来て身持ちを崩すなんざ、よくある話だからね。まあ、女を搔っ攫って逃げたんだ、楼主はおかんむりさ。そこへのこのこ女房がやってきたんだ。足抜けした遊女の年季分の銭を払えって、店先で男衆にがなり倒されてあの始末さ」
「そんな――。何かの間違いではないのですか」
子供が四人もいる一家の大黒柱が遊女と手に手を取り合って、などという話は、佐久には鵜呑みにできるものではなかった。女はもう一度ため息をつく。
「あの女房も同じことを考えているだろうね」
間違いであってほしい。何かの間違いでなければ、みねはこの先子供たちを抱えてどうしたらいいというのか。
女は感情の読みにくい目をみねに向け、佐久に訊ねた。
「背中の子、女の子かい」
「ええ」
「これから可哀想なことになるね」
女はそんなことを言った。みねの一家がズタズタになる、そう予見するのか。易者ではなく、ただの農民のような若い女だ。そこでああ、と佐久は思い至った。
この女はきっと飯盛女、宿場の妓楼が抱える遊女なのだろう。だから、すえもいずれは食い詰めた挙句に妓楼へ売られてしまうと思ったようだ。すえに自分を重ねたのかもしれない。
佐久はどうしていいかわからず、足に根が生えたかのように立ち尽くす。風がヒュウと吹いて、それにすら体が揺らぐようだった。すると女は佐久に背を向け、去り際にひと言だけ残した。
「七つ前は神のうち――ってね。育ちの良さそうなあんたにはわからないだろうけど」
女の背中は深まる闇の中へ消えた。ぽつりと残された佐久は、みねをどうにかして励まさなければならないと感じた。覚悟を決めてみねに声をかける。
「おみねさん、こんなところにいらして。ほら、おすえちゃんが風邪をひいてしまいます。戻りましょう」
「お嬢さん――」
春とはいえ寒さの残る中、冷えきったみねの手をただ引いて歩く。佐久は、みねが啜り泣く声を聞かなかったことにした。下手な慰めなど言えやしない。
心が搔き毟られながらも、戻って早々、佐久は日出に怒られた。
「嫁入り前の娘さんが黙って出歩く時刻ですかっ」
日出が怒ると雷様よりも怖い。佐久が縮こまって項垂れていると、日出のその剣幕にみねが詫びた。
「あたしがいつまでも戻らなかったから悪いんです。お世話をかけてあいすみません」
客人のみねまで叱ることはできず、日出の怒りは行き場を失う。すみませんと繰り返すみねに、文吾は苦笑しながら言った。
「ほれ、行くぞ」
「あい」
うなずき、みねは文吾の後に続く。赤くなっているであろうみねの目元を、外の暗さが隠してくれている。
みねは大丈夫だろうか。すえを背負った背中を見送りながら佐久は案じた。
藤七が暖簾を取り込み、弥多と留吉が一緒に雨戸を閉め始める。表の行灯の火をふぅと消すと、藤七は留吉を手招きした。
「おい、留。昨日の浚いだ。来い」
留吉はすでに眠たいようで、目を擦りながらあい、とつぶやいた。
「お嬢さん、おやすみなさい」
「お嬢ひゃん、おやすみなひゃい」
留吉も藤七に続いて頭を下げた。今から読み書き算盤を習うのだ。留吉が少し可哀想になるけれど、将来のためと思えば仕方がない。
そうして二人が去ると、土間には佐久と弥多だけが取り残された。暗がりの中、弥多はいつもの優しい微笑を浮かべてはいなかった。
「ひと声かけてくだされば、私が行きましたものを」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、弥多はそっと気遣うように声を絞り出した。
「お嬢さん、無茶はいけません」
佐久はこくりとうなずいた。
みねはこれからどうするのか。考えると佐久まで恐ろしくなって指先が震えた。みねの心細さはいつまで続くのだろう――
●
翌朝、文吾はみねたちを連れずにつばくろ屋へ出てきた。
「いえね、おすえちゃんがまだ寝てたんで置いてきやした。起きたらこっちに来るようにおみねさんには言ってありますんで」
そこで文吾はフフ、と珍しい笑い方をした。
「まあ大人しい子で、少しも邪魔にならなかったですぜ。むしろうちのが名残惜しくて、ごねてるくらいでさ」
「そうなの。よかった」
佐久はそれを聞いてほっとした。
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