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番外編

番外編「短夜のおと」一

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 夏も真夏。
 じりじりと照りつくお天道様の光が眩しい。見上げると、目を潰してしまいそうなほどに強い光が空にある。

 弥多やたは井戸水を汲み、たらいに移し終えてから額の汗を手の甲で拭った。ふぅ、とひとつ息をつく。

 こう暑いと参ってしまう。
 自分はいい。けれど、老齢の文吾ぶんごや病の痕を抱える伊平いへいにとって、この暑さは暑気払いでも追いつかないほどにしんどいものであるだろう。

 それから、佐久さく
 佐久は弥多の女房である。そう呼べる日が来たことが夢のようで、時折、これは本当に夢なのではないかという気になった。それほどまでに今、弥多は満たされていた。仕合しあわせであった。

 幼い頃から恋焦がれた佐久と夫婦めおとになれた。その佐久が弥多の子を孕み、産まれ月を迎えようとしていた。大きな腹を抱えてこの暑さに耐えている佐久を見ると、弥多はしてやれることの少ない男の身であることが申し訳ないような気になる。代わって産んでやることもできやしないのだ。
 つらくはないかと気遣うのが精一杯である。佐久はそんな弥多にいつも笑う。

「大変なのは確かだけれど、産まれる前からお腹の子を可愛いって思えるのは女の方だわ。男の人の方が可哀想かも。おとっつぁんだけ除け者みたいでごめんなさいね」

 腹を摩る手つきが優しい。その『おとっつぁん』というのが自分のことなのだと弥多が気づいたのは、それから少ししてからであった。それほどまでに実感がない。自分は父親になるのだと、子ができたとわかった時から知っていたはずなのに、未だによくわからない。佐久が言うように、父親というのは母と子から少しだけ離れた存在なのかもしれない。

 弥多が自らの父と接した時間は限りなく少ない。忙しい、立派な人であった。それから、子も多かったから、跡継ぎでもない弥多だけに目を向けてくれることもなかった。
 しかし、佐久が産む子はすぐそこに、いつでも手を伸ばせば抱き締められるところにいることになる。抱き締めてあげることがいい父親なのだろうか、それとも、普通の父親とは、子とほとんど口も利かないものなのだろうか。その普通がわからない。

 女子だったらまだいい。そうしたら、伊平を手本にする。大事に可愛がる。
 けれど、もし、男児だったら。
 甘く育てるだけではいけないのではないだろうか。どの程度の厳しさでいれば、子はまっすぐに育ってくれるのだろう。

 今は仕合せだ。
 それを心から思う。
 だからこれは贅沢な悩みであるのかもしれない。



 その翌日、昼餉の席では佐久がびくりと肩を跳ね上げた。ほんの少し変わった動きをするだけで皆が敏感になる。
 それを感じたのか、佐久は柔らかく笑った。

「お腹の子が蹴ったのよ」

 それを聞き、皆がほっと息を吐く。丁稚の留吉とめきちは目を輝かせながら弥多を見た。

「名前はもう考えてあるんですか」

 考えようとはするのだけれど、赤子の顔を見てもいない今、その子に合った名前をつけてやれるか悩んでしまうのだ。

「まあ、いくつかは――」

 そう言って言葉を濁した弥多から、察しのいい兄貴分の藤七とうしちは何かを感じてくれたのかもしれない。

とめ、気が早すぎるぞ。まだ男か女かもわかってないんだからな」

 そんなことを言って苦笑する。
 すると、それを聞いた佐久は食んでいた飯を飲み込むと微笑んだ。

「あら、この子は女子おなごですとも」

 それは初耳だ。弥多は驚いた。
 母親には何か感ずるところがあるらしい。
 そうか、女子か、と弥多が納得し始めると、日出ひでが首を傾げていた。日出は三人の子を産み、このつばくろ屋で女中として働きながらその子らを育てている。母としていい手本であるのだ。

「どうしてそう思うんですか」

 日出に問われ、佐久は嬉しそうに答えた。

「おたかが生まれ変わってきてくれたんだとしたら、女子でしょ」

 佐久がそう思いたい気持ちもわからなくはない。皆、たかには仕合せになってほしかったから。
 皆がそっと藤七を窺う。藤七は静かに苦笑した。

「じゃあきっと、お腹の子は男ですね」
「ええっ」
「おたかは人よりも余計に気を遣う娘です。恩あるお嬢さんの子になんてとんでもない、と向こうで神仏相手に首の振り通しですよ」

 たか――幸薄い娘であったから、今度こそは仕合せにという、佐久が友を想う気持ちは痛いほどにわかる。けれど、そのたかを誰よりもよくわかっているのは、やはり心を通わせた藤七である。その藤七が言うのなら、たかは弥多と佐久の娘にはなってくれないのだろうか。
 なんとなくしょんぼりとしてしまった佐久の背を日出が母親のようなあたたかさで摩ってくれた。

「いいんですよ、男でも女でも。子は来るべくしてその親のところへ来るんです。精一杯慈しんで育てていくだけですよ」

 三人も子を産んだ日出だから、他の誰が言うよりも安堵を与えてくれる。
 皆、それだけで納得した。もちろん佐久も。

「わたし、この子にあれこれ望みすぎなのかもしれないわね。ねえ、お日出。わたしはわからないことだらけだから、色々と教えてね」
「ええ、もちろんですとも」

 日出はドン、と頼もしく胸を叩く。そんな様子を見て、通い番頭の利助りすけは笑った。

「このつばくろ屋に赤ん坊が来るのは、あのおすえちゃん以来です。楽しみですねぇ」
「おすえちゃんがいたのはほんの短い間でしたけれど、それでも賑やかでしたから。今度はもっと賑やかになりそうです」

 藤七が優しく言ってくれた。

 皆が待ち焦がれ、そうして産まれてくる。我が子はなんて仕合せな子だろうかと、弥多は胸がいっぱいになって何も言えずにそこにいた。
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