中山道板橋宿つばくろ屋

五十鈴りく

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番外編

番外編「散る日、照る日」一

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 二階から外を眺めていた。
 縁に肘をつき、煙管を片手にぼうっとする。

 開いた障子窓の隙間から冷たい風が松太郎まつたろうの手にかかった。その風は綿入れの隙間を縫い、首筋から体をなぞる。昼下がりとはいえ、睦月では寒いのも当然。雪もまだ表には僅かながらに残っている。

 冬の宿場町は幾分か静かに思える。雪に湿った道が音を和らげるのか、寒さに人が負けるのか。
 事実、息を吐くだけで体の熱が逃げて寿命が縮むような気になる。それでも、松太郎は冷えた部屋の中でほぅ、と息をついた。
 松太郎は寒さに震えるでもなく、ただぼうっと外を見続けている。すると、背後の障子がカラリと動いた。

「あらぁ、松太郎坊ちゃん、お部屋においででしたの」

 媚態を含んだ声に松太郎は振り向きもしなかった。その代わりに煙管を咥え、ぷかりと煙を噴かせる。けれど、煙草が美味いとは少しも思えなかった。ただ慰みに吸っているだけにすぎない。

 そんな松太郎に、松太郎の父が営む飯盛旅籠めしもりはたご盛元せいげん』の飯盛女めしもりおんなの一人である娘が再び声をかけてきた。

「松太郎坊ちゃん、寒いでしょうに。まったく、どうしたってぇんですか」

 寒い最中でも足袋を履かない足が畳の上を歩む。戸を閉めようとした娘の手首を松太郎はつかんで止めた。

「閉めるな。寒かねぇよ」

 手首をつかまれても娘は怯まない。それはそうだ。この娘は、という飯盛女で、ここへ来てかれこれ五年以上は経つ。男に少し触れられたくらいで怯むようなおぼこではない。
 娘という呼び方もいつの間にか合わなくなっていた。松太郎よりも年上である。特別美人でもないが、愛嬌はある。こうして跡取り息子の松太郎にも気さくに声をかけてくる。

 はつは松太郎から何かを感じたのか、眉を器用に動かして苦笑した。

「松太郎坊ちゃんが寒くないって言い張ったって、風邪ふうじゃは入り込むんですよ」

 そう言うと、はつは障子窓を閉めるのを諦めて松太郎の正面に膝をついた。松太郎が手を離すと、はつは化粧っ気のない顔で笑った。

「さ、あたしも暇じゃないんで手短に行きますよ。どうしたら松太郎坊ちゃんはこの障子を閉めておくれになりますか」
「どうって――なんだよ、お前、ずいぶん絡むじゃねぇか。俺は別に寒かねぇから開けてるだけだろうがよ」

 ぶっきらぼうにそう言うと、はつはその場で膝をそろえて正座をした。そうして松太郎を見上げる。

「最近、松太郎坊ちゃんはめっきりお出かけしなくなりましたねぇ」
「へ――」
「何かってぇと仲宿へ出向いていた頃が嘘のようですねぇ」

 顔をしかめて松太郎は、煙管を灰吹きにカンとぶつけた。すべて見通したようなはつの顔に腹が立つ。

「うるせぇな」

 そう吐き捨ててそっぽを向くも、はつの目は松太郎から逸れなかった。黒目がちの目が細められ、そうしてこちらに向いているだろうことを感じながらも、松太郎は顔なんて向けてやるかという気になった。
 それは、はつの言葉が松太郎の胸を抉ったからである。はつはきっと、わかっていてやっている。

「松太郎坊ちゃん、そう毎日物憂げに過ごしていないで、このはつねえさんに話してみちゃいかがでござんしょ」

 何が姐さんだ、と松太郎は膨れた。松太郎は跡取り息子で、はつは買われた女郎である。偉そうに、と思うけれど、はつはいつもこうだ。松太郎に限らず、楼主である父以外には誰にでも。

「おふくろになんか言われたんだろ、お前」

 ようやく顔を向けた松太郎に、はつはくすりと笑った。

「おや、わかりますか。そうですよ、女将さんが心配されてますよ。松太郎坊ちゃんが日増しにしょげているって」

 日増しにと来た。そんなつもりはない。日に日に立ち直っている。その――つもりだった。
 喉が詰まり、調子よく返せない松太郎に、はつはひとつ息をついてみせた。

「松太郎坊ちゃんにだって色々とあると思いますよ。でもね、どんなことがあっても、人生立ち止まっていいことなんて、なんにもありゃしないんですよ」

 そう言いきったはつは、以前よりもずっと肌の色つやもよく、目にも光がある。以前から芯の強さはあったけれど、疲れは顔に出ていた。それがずいぶんと和らいできたのだ。

 ――正直に言って、この旅籠は女郎たちにとって過ごしやすい場所ではなかった。それが変わったのは、そう、ある事件がきっかけであった。

 とある仲宿の平旅籠との悶着の末、欲に塗れていた松太郎の父が、自らが抱える遊女たちにほんの少しの労りを見せるようになった。そのついでに妙に信心深くなり、壺やら札やらを買い集めたり祈祷に出かけたりと忙しい。年をとったせいもあるのかもしれないけれど、これまでを思うと今が丁度いいのかもしれない。

 そのきっかけとなった平旅籠『つばくろ屋』。

 それこそが松太郎の気鬱の原因である。
 正確に言うならそれも違い、自己嫌悪とも言える。

 あの宿、あの娘――情けない自分。
 松太郎の思考はいつもそこで鈍って先に進めなくなる。その先を考えることをしたくないのだ。
 けれど――

 はつが言うように、このまま堂々巡りでは苦しいだけだ。どこかで吹っきりたい気持ちはもちろんある。
 かといって、はつに語りたいとは思わない。いや、誰にもだ。誰にも語りたくはない。
 全部、この胸にしまい込んで蓋をしてしまいたい。これを深く思い起こすのも今日を最後にしたい。

 松太郎はそう決めて、心の中の思い出の蓋をそうっと、恐る恐る開いた。
 あれは、今から四年ほど前のことだった――
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