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番外編

番外編「花に染む」五

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 二人の暮らしに慣れて小金が貯まると、伊平いへい喜久きくは長屋を引き払い、板橋宿の裏長屋へと越した。そうしてそこでまた働きながら宿を構えるために金を貯める。
 常に二人で見る夢は楽しかった。それが実現したらどんなに仕合しあわせだろうかと。
 家族の少ない二人だから、思うことは同じだった。

「店を大きくして奉公人もたくさん増やして、賑やかに過ごしたいわね」
「ああ。たったひと晩接するだけのお客様も家族のように親身に、心を込めてもてなしたいもんだ」
「お前さんは優しいから、お客様もお前さんのもてなしをきっと喜んでくださるわ」

 喜久はすぐに伊平に優しいと言う。
 そんなことはない。自分は平凡な人間だと思うのに、喜久があまりにそう言うから、伊平は自分の中にある小粒な優しさに水をやるようにして育てることになったのかもしれない。
 喜久と出会わなければ、伊平はもっと懐の狭い人間であったと思うのだ。喜久に嫌われたくない一心で、いつも笑い、度量の大きいふりをしてみせる。そしていつしかそれが当たり前として伊平を育てた。そんな気がするのだ。

 ふと、喜久は言った。

「お宿の名前はもう決めたのかしら」
「いいや、まだだけれど」
「つばくろ屋ってどうかしら」
つばくろかい。なんでまた」

 すると、喜久は子供のように無邪気な笑みを浮かべた。

「この長屋のひさしの下にいつも燕の巣があるの。それを眺めていたら、あの親鳥みたいに甲斐甲斐しくお客様のお世話ができるようになれたらなって思ったの。だから、屋。おかしいかしら」

 なんとなく、喜久らしいと伊平は思った。だから、喜久の手に手を添えて、そうしてうなずいた。

「いいね。つばくろ屋か」
「ええ」
「早く暖簾のれんをかける日が来るといいねぇ――」

 
 それから数年。楽しくはあったけれど、忙しすぎる毎日は、若い二人であっても思う以上に疲れていたのかもしれない。なかなか子はできなかった。

 子ができるよりも先に、伊平は旅籠屋の主になった。板橋宿の旅籠屋で商いが滞り、宿を閉めるという宿主の話を聞きつけ、伊平が宿を買い取ることになったのだ。
 その宿は伊平の願いよりも大きな宿であった。それも仲宿の街道沿いという立地の良さだ。しかし、それでも現に先の持ち主は宿を手放した。場所がよいだけで客はつかない。

 この宿を傾けずに守っていけるのか、尻込みした伊平の背を押したのは喜久であった。

「ここならたくさんお客様が来てくださるわ。楽しみね」

 いつもその柔らかな笑顔に伊平は守られている。

「ああ、そうだねぇ。気張らないとねぇ」

 喜久が笑うから、伊平も笑って返した。
 この宿の大きさでは、夫婦二人では間に合わない。この宿を引き継ぐ時、そこから二人だけ奉公人を一緒に引き継いだ。一人は利助りすけという顔の濃い手代である。この利助、一見顔のせいで気難しく見えるものの、いたって柔和、人当たりの良い男であった。もう一人はみいという年若い女中である。

 ただし、念願のつばくろ屋の暖簾を掲げて三月みつき。ようやくちらほらと客が足を止めてくれるようになった頃、みいは嫁に行くことになったのでと暇乞いとまごいをした。人手が減るのは厳しいものの、目出たいことであるから引き留めるわけにもいかなかった。

「大丈夫よ、お前さん。わたしが今まで以上に頑張るからね」

 喜久が妹のように可愛がった女中の仕合せを願っている。伊平も同じように喜んでやるしかなかった。

「そうだね。お喜久の手料理は美味いから、もっとたくさんのお客様に食べて頂きたいね」
「私も精一杯お勤めさせて頂きます」

 利助も丁稚がするような雑務を文句ひとつ零さずにこなしてくれている。ありがたいばかりであった。
 ただ、ここでひとつ、思いもよらぬ出来事がつばくろ屋に起こったのだ。

 喜久の懐妊である。子はできぬのかもしれないと諦めがどこかにあった。だからこそ、伊平はもう、飛び上がりたいほどに嬉しかった。やっと、やっとのことで自分たちに子ができたのだ。ただ――

 喜久の悪阻つわりがひどく、台所に立つと戻してしまう。必死で食事をこしらえてくれるものの、味もよくわからないらしく、料理の味が明らかに変わった。嬉しい半面、宿としてはこのままではいけないとも思う。


 そうして、喜久は娘を産んだ。跡取り息子ではない、娘である。けれど、あんなにも可愛らしい赤子を前に、男も女もない。どちらにせよ伊平には宝である。奉公人の前だと言うのに、小さな娘を抱いて伊平はおいおいと泣いてしまった。

「お前さんったら」

 産後の青白い顔で喜久は笑った。娘は喜久から一文字取って佐久さくと名づけた。その名がよかったのか、佐久は喜久によく似た面立ちの可愛らしい娘であった。


 伊平はそうして本腰を入れて宿の料理人を探すことにした。子育てで忙しい喜久一人に宿の料理をすべて作らせるのは酷である。口入屋くちいれやに頼み、臨時で手伝える女中は入れた。
 今のうちに早く見つけなければと思うけれど、誰でもいいわけではない。納得のいく料理を作ってくれる料理人でなければいけない。これだけは譲れなかった。

 こだわりすぎて時だけが過ぎてしまう。伊平は思いきって板橋にとどまらず、思いつく限りの知己を頼って料理人を探した。

 そのうちに、大昔に丁稚奉公した料理屋の当時の仲間から、ある一人の男の話を聞きつけた。その男は、料亭の料理人で腕は確かだが、奉公はもういいと気楽な煮売屋になるつもりらしい。根っからの江戸っ子で気難しいから、多分うんとは言わないだろうけれど、とのことである。

 それでも伊平はその男に会いに神田の長屋まで出向いた。五十がらみの気難しそうな小男は、それでも顔を見た瞬間に伊平は確信した。これは真の料理人だと。
 神仏に参るようにして、その男、文吾のもとに通い詰めた。

「まったく――そこまでされてうんと言えねぇようじゃ男がすたりまさぁ。よござんす。お世話になりやしょう」

 ついに文吾にそう言わせた。伊平の粘り勝ちである。
 そうして伊平はのちに料理自慢の宿と謳えるほどの料理人を得たのであった。
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