『群青圏』ーあるいは幻想界の実存ー

李適

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『群青圏』

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『群青圏』



 夢は、閉ざされた想像界の完璧な実現である。―ジャン・ポール・サルトル



「いや、それはまっことけしからん話ですよ。星の基層に淡い群青の大気圏が構成されているだなんて。少なくともそれは侮辱として受け取らなければならんことです。まったく、ええ」



 口蓋さんは鼻を大きく膨らませて恒星の粒を噴き上げた。彼の肉付きの良い頬が、粒に揺られうるさそうに微動した。



「そもそもがですな、我々はその衝突を防がんとせんがために星の調停を取り計らっておるのです。みてみなさい、有史以来二億とんで八千数百年間のあいだ、我々は見事にその仕事をやり遂げてきた!この宇宙の中には、―虚数空間から非ユークリッド空間におけるすべての時空間が―、一つの統率に守られて丁寧に、綺麗に、間違いなく配置されておるのです。それもこれも我々が不平一つ言わず、献身的にこの仕事に奉仕してきた結果ではありませんか!それが星の基層に淡い大気圏だなんて……、まったく馬鹿馬鹿しい!」



 ふんすと息を吐き出すと、口蓋さんは髭のあたりにのっかていた箒星を散り散りにしてしまった。後ろには、次に訪れるのは自分の番かと、青褪めた表情でこちらをみる双子星の顔があった。



「淡い大気圏でなくて、群青の淡い大気圏ですよ、口蓋さん。大気圏の色は澄んだ青色をしていたのです。星の基層なんていう真っ暗闇の、そこの底でね」



「そんなことは些事ですよ!私が申し上げたいのはね、どうしてそんなありもしない話を集団は有難がるのかということなんです。そのふざけた集団心理というやつ、そいつに私は我慢がならない」



 ピシャリと私の提言を跳ね除けると、口蓋さんは恰幅のいい身体を雄鹿のソファに深く沈めた。そのにべもない様子は、いわば彼の自らの仕事に対する矜持の現れだった。





「口蓋さん。あなたは、その群青の淡い大気圏を、―仮にそれを『群青圏』と呼びましょうか―、それをありもしない虚像だと、集団によく流通する、喜ばしい嘘の類であると、そう結論づけるようですが、」



「……いや、一つ違いますな。虚像というのは考えてみれば、スコラの人間の喜ぶ、形而上の性質のものでしょう。つまり物質でないというだけで厳然と存在するのが虚像です。『群青圏』は違う。『群青圏』はまるで存在しえない。それは虚妄、いわば空無の霧散とでもいうべきものです」



「はあ、確かに私もその意見には首肯くのですがね…。しかし、それには『群青圏』の可能性を見損なうという、そういう危険性があるのではありませんか」





 私の受け答えを聞いた口蓋さんの顔には明らかに怪訝の表情が浮かんでいた。いまや彼の目は細めるだけ細められて、彼の目元の皺を延長し、眉間の皺へ繋ぐためだけのものになっていた。





「まあ聞いてください。虚妄と呼ばれる諸々の類。劣悪で、奇妙で、風変わりで…、そういうものはその劣悪さから常に我々の耳目を喜ばせる。故に、虚妄は我々の普遍心理に深い敷衍を可能とするわけです。しかしそれは好奇を仲立ちとした我々の暗黙裏の了解でもあるのです。その結果虚妄は、当意を得たとばかり、我が物顔でそこら中を歩き回るようになる。まあ、言を折るほどでもない、自明のことでしょう。

 ちょうどこの関係は貨幣と市場にも同じことがいえる。市場に出回る貨幣も、実はその多くが質の悪い三等以下の低級貨幣である場合が多いのです。なぜそんなことが起こりうるのか。良質な貨幣はいったいどこに消えてしまったのか。大衆というのはね、口蓋さん、生活の歓楽をこよなく愛する一方で、生来の凡夫たる側面ゆえに非常に涙ぐましい倹しやかな一面を持っているのです。彼らは一瞬の享楽のために、自らの懐から良質な貨幣が飛んでいくことを嫌う。出来ることなら悪質な貨幣で済ましてしまいたいと考える。結果、彼らの懐には良質な貨幣が収まったままになり、悪質な貨幣はすすんで市場にばら撒かれていく。なくなく支払われた一等貨幣も、次の瞬間にはひょいと隣人の懐に仕舞い込まれてしまうという次第で、一向に市場には増えていかないのです。つまり、これはこういうことが言えるわけですよ。『悪貨な貨幣は市場を介す前に心理を介し、そして市場に介されたがゆえに良質な貨幣を駆逐してしまった』とね」



「…興味深い話ですな」と、口蓋さんは背もたれに預けたまま呟いた。そして少し物思いに耽る様子を見せると、ふうむと唸り声をあげ、髭を撫ぜながら、「…しかし、いったいそれがどう関係あるというのです」と至極真っ当なことをいった。

 私は周囲を見回した。あたりにはぴんと張り詰めた星辰の輝きが瞬いて見える。私はそのなかの一つ、最も輝いてみえた凶兆の紅星を右手でつまむと、それを少しばかり左にずらして口蓋さんの方に向き直った。




「…今までの話をまとめましょう。虚妄と貨幣はその駆逐と拡大の作用によってそう変わらない性質を持つわけです。一方は普遍心理において、もう一方は市場においてね。しかるに、貨幣の最大目的とはなんでしょうか?兎にも角にもそれは、交換です。意味と具象を繋いで現実に取り直してやる、それが貨幣の目的とするところなのです。

 …して虚妄は。虚妄の最大目的とはなんでしょう。虚妄はいま我々の普遍心理に広範な流通を果たしている。そしてそれは紛れもない大衆の合意によって形成されたときている。これは貨幣が成立するときの、ちょうど逆をいくものとなっているのではないですか?貨幣は先立っていた具象を意味に取り直してやるために生まれた、それこそが貨幣の出自であったわけですから。しかし、虚妄はどうでしょう。虚妄はいま通貨的意義をもち、そうしてそれに変換されるだけの意味を生み出した。ただ具象にだけは…、あと一つのところで接続する力を持たないわけです。けれど…、けれど、実はしかし、それら自体が先に存するものであったと考えればどうでしょうか。虚妄と意味とが、実は具象に先だつ苗床であったと考えればどうでしょうか。虚妄は生まれたのではない、在ったのです。私たちが彼らを認識する遥か昔から、具象がその存在を貨幣に規定される遥か昔からあったように。とすれば、欲求の爆発に応じて貨幣が生じたように、ここにもある欲求が結実していくことになる。…そしてその欲求の向かう先とは、いまだ満たされない『群青圏』の具象ということになるのではないでしょうか?」




「そんな馬鹿な!」




 口蓋さんは怯えたようにいきりたった。雄鹿のソファがギィと揺れ、脚元から薄銀色の風が立ち上った。煽られた双子星が、青い燐光をたなびかせながら彼方へとんで、消えた。



「いったい、どんな根拠があってそんなことを!失礼ながら言わせていただくが、私は実務家として、誰よりもこの包括星雲について詳しいつもりだ!事実そのとおりだろう。なぜって、二次から三次への移動を可能にした球状包括概念、この概念こそを提唱したのは他ならない私自身だからだ!それによって、極相上の区別は消失し、見られるものはただちに存在するようになった。そしてまた、存在するものはただちに見られるようになった。いわばそれは球体を介した一箇の視線の回転であったから…、そしてそれは空間と平面との永遠の和解を意味していたから!

 鞣革さん、あなたにこの意味が分からないわけじゃないでしょう。それがなにを『群青圏』!そんなものに…、そんなものに私の仕事が阻害されるなんて、侮辱もいいところだ!」



 痺れるような絶叫。彼の声は瞬時に結晶化し飛翔した。しかしパラボラな衝突を繰り返したのか、しばらくすると結晶化した声はやはり綺麗な形のままで、私たちのもとに帰ってきた。そしてそれは先ほど吹き飛ばされた双子星も同様だったのだ。



「口蓋さん。私は決してあなたを侮辱したいわけではない。また、あなたの二相システムを揶揄したいわけでもない。しかし、あなたがそう激昂するように、私もまたこの包括系をとりなす一人であるのです。仕事の駆逐は私にとっても冗談ごとではありません」



「であるならば!そうであるならば具体的な根拠を示していただかないと!」



 そう言い放つと、彼はまたどっかりと雄鹿のソファに座りこんだ。ソファの皮に溜まっていたコバルトの星粒がさっと舞い上がった。





「まあ、そんなものが見付かればの話ですがな!」

 口蓋さんの顔には嘲にも似た勝ち誇った笑みの表情があった。そして、それはやはり彼の実務家としての責務の全うを意味しているのだった。





 ただ、悲しいかな。ここで彼の経験事象はなんらの意味をもっていなかった。『群青圏』は否が応でもその到来を果たし、全ての包括星雲の瓦解を成し遂げることを私は直感していた。そして、それはこの空間における無意識裡の必然であると感じていた。『群青圏』はおよそただちに、透明質の淡い水素体を用いてこの暗澹の虚空に浸潤する。虚空に浮かぶ、あまねく惑星体はそのとき許容を超えた無意識の爆発を察知するだろう。同時にそれが、遂に具象への到達を果たした無意識の勝鬨であることに気づく。彼らはそこに必然の宿命をみて喝采の悲鳴をあげる。だがその悲鳴を聞くことは誰も叶わないのだ。なぜなら我々もまた群青圏の中で即座に無限の純化が始められるから。無意識によって誕生した気圏はその場における一切の理知の伝達を阻み、純化の作用によって我々の表象を奪う。意思と表象を失った我々は水素性の気圏に包まれて乳色の靄として漂うだろう。私は直感している。我々の球体空間は『群青圏』によって駆逐され、拡大を繰り返していき、そして二度とその閉鎖的な和解が試みられることはないであろうと。





 私は口蓋さんの顔を見た。彼の顔には相変わらず嘲るような薄ら笑いが張り付いていた。

 しかし、その後ろには、冷えた虚空の中で、ただ一人、青褪めた表情でこちらを見る、双子星の姿が、そこにはあった。
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