華が閃く

葉城野新八

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第三章 夢よ現よ

いちだいじ③

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 銈を見送ったあと、ふりかえった善左衛門が朗らかに誘ってくれた。

「ではせっかくここまで来られたのですから、御薬園までお送りするがてら人参畑をご案内さしあげましょう」

 その顔を直視できないまま、とんでもないと手をふってあさ子は遠慮をしたが、

「いいえ、ぜひともお願いしたく存じます。私たちは人参に興味がありまして参りました」

 と横から千重子に封じられてしまった。
 あらためて近くから見た善左衛門という人は、気張って己を大きく見せようとする風もなく、明朗快活という言葉がふさわしかった。
 やはり細身の長身で、竿に干した羽織が歩いているかのようであったが、よく見れば不健康な痩身というわけでもなかった。身が引き締まっているのだろう。
 武芸は苦手だそうだが激烈さで有名な精武流の荒稽古を耐えぬいたのだから、それなりに芯のかよった人なのかもしれない。手をとったときにわかったが、ちゃんと掌の皮がかたまっていた。
 あとは笑うたびにのぞかせる白い八重歯が印象的だ。
 人参畑につくと、学問の師から野外講義をうけるように善左衛門の解説に聞きいった。

「まずは御種人参の由来からお話いたしましょう」

 さかのぼること寛文十年(一六七〇年)、会津松平二代正経まさつねのころ。家臣と領民思いだった正経は、疫病の治療と予防のため、所有する庭園に薬草園をひらいたのが起源だ。
 享保きょうほ年間(一七一七年)、三代正容まさかたの代になると、栽培がむずかしいとされる朝鮮人参の御種おたねを幕府からわけてもらい、試行錯誤のすえ、ついに試植を成功させた。
 以来、領内では栽培を奨励するようになり、御種人参は家中の経政のみならず四民の滋養強壮に貢献してきたのだった。
 聞くにつけ、こんなにも手間がかかるものかと驚かされるばかりである。
 御種人参は繊細な性質の植物であるため、とにもかくにも適切な土壌作りに尽きる。籾殻もみがら、肥料、こまかく刻んだ藁などを攪拌かくはんし、ふっくらと軟らかくなるまで土にすきこむ。
 湿りすぎても、乾きすぎてもいけない。とくに日光と長雨は大敵となるので注意が必要だ。直射日光をあびると葉が焼け、長雨をあびると根が腐ってしまうので、日よけと雨よけの大きな屋根をかける。だけど風は適度にとおりぬけたほうがよい。
 肥料は米の研ぎ汁など天然由来のものにかぎられる。色々なものを口にするため成分の制御がむずかしい動物由来の下肥しもごえは、地質を急激に変えてしまいかねないので駄目なのだそうだ。
 ちなみにさきほどあさ子たちがはまった堆肥は、人参の肥料となるための米の肥料であり、こちらも一定の制限のもとで作られている。
 どれもこれも迷信的な理由からではなく、先人たちが研究と失敗をつみ重ねるうちに得た実学上の知見だ。
 苗の栽培は、徹頭徹尾、神経質な管理のもとで工程が進む。
 種を蒔くと、春にぷくぷくと芽が吹いてきて、一尺から二尺の茎が一本ずつ伸びる。それを御薬円の圃場ほじょうで寝ずの番をつけて育苗し、時期がきたら核の割れていないものだけを選別する。
 それから専用の木箱で厳重に保管されたのち、栽培手として認定された農家にだけ配布されることになる。苗の本数と行き先はすべて追跡できるよう記録されてあるので、密売はおろか密耕作も不可能であるし、なにかの理由で生育にまとまった支障がおこれば検証も可能だ。
 これらの決まりごとを犯した者は獄に放りこまれるか、武家ならば腹を切って詫びねばならない。
 やがて初夏になると卵形の大きな葉が土を覆うほど茂り、真夏に花が咲き、玉粒状の真っ赤な実をつける。
 これらを四年以上も繰りかえしたすえ、いよいよ掘りかえして根の収穫をむかえる。五年六年と経ったものは稀少なので、たいへんな高値がついて取引されるそうだ。
 だが出荷して終わりというわけでもない。すぐに次の土づくりがはじまる。
 御種人参の短所は、その薬効成分がつよすぎて土に染みでてしまう点にあり、ひとたび収穫を終えた畑では成分が薄れるまでしばらく苗を育てられなくなる。じっくりと土壌改良をかさねて待たねばならない。気の遠くなるような話であるが、だからこそ他所からの参入が少なく高値がつくのだ。
 過去に懇意とする親藩からせがまれて栽培法を伝授したこともあった。が、武家の能力のみならず農村の整備と教育水準こそ肝要となるので、ことごとく失敗してあきらめたそうだ。
 このようなわけで、人参方と栽培農家のあいだにかよう信頼関係は、町方や普請方、金山方と比べてみてもきわめて強固である。人参を栽培する農家はまわりから一段も二段も高く見られ、腕のよい特別な農家という証になるので誇りなのだという。
 整然とひろがる人参畑をながめ、善左衛門が力強く言った。

「御種人参はじつに奥がふかい。いまや会津の家中にとって、いいえ、この郷土で暮らす四民にとって欠かせぬものとなりました。ほら、ご覧ください。あの気高き磐梯山の高嶺を。冬に降りつもった雪は春に清水となり、猪苗代湖へそそぎ封土を潤します。草木のみならず獣と人の血潮となり、肥やしとなる。天地の神祇がさだめた循環と調和が刻々と働き、その恵みが御種人参をはじめとした本草と多種多様の農作物です」
「はい……」
「人参方の仕事とはこうしたお役目です。私は幼少より、父が熱心にやっていたこの仕事につきたいと願ってまいりました。そしていつか、天地の循環と調和について究めたい。まだ見ぬ草木のを尋ね、国産の品目をさらに充実させ、会津盆地の風土と人の暮らしをより豊かなものにしたい。そう思うのです」

 嬉しそうに屈託なく語るその横顔は、天下国家と大砲について論じる覚馬ともどこかかさなる。熱き志をいだき、さらなる高みを求める男子だけが見せる横顔だ。
 大砲指南役の家に生まれ、外様の武官として道をあゆむ覚馬。
 かたや人参方の家に生まれ、近習の文官として探求をつづける善左衛門。
 それぞれ志した道は異なるが、深層にあるものは同じだ。

「やり方と立場はちがうけれど、このお方もまた、会津のことを真心から想っておられるのね――」

 胸の奥で、言いようもない感動がとくんと跳ねた。ぱっとひろがりゆくさざ波が、体の隅々までおだやかな熱をはこんでゆく。
 この日、あさ子は知らなかった会津のあたらしい顔を発見した。
 それからとある決心をするまで、たいした時を要さなかった。晩に蒲団にはいってから人参について熱っぽく語る善左衛門の横顔を思いだすと、どきどきと胸が高まり、目がさえてなかなか寝付けなかった。
 夜闇のなか、遠くへ離れて行った人の顔より、こちらへ向かってくる善左衛門の顔のほうがぐんぐんと明瞭になってくる。己のせまい行動範囲と視界のなかで得た憧れなど、しょせんは他を知らなかった幼い思いこみに過ぎなかったのだと思い知らされる。

「やっぱり縁組とはいちだいじ。これまでとこれからは遥かにちがう。これまでの私には、これからの私のことはまだわからない――」

 あくる朝。
 いつものように五本の型稽古をとおしたあと、すでに心は決まっていた。
 そのつもりであるなら早く言ったほうがまわりにとって助かるはずだと思い、あらためて父と母を仏間に呼び、手をついてこう言った。

「先日のご縁談、つつしんでお受けしたく存じます。かくなるうえは原家とご先方の家名に恥じぬよう励む所存です」

 断られるのではないかとはらはらしていた源右衛門ときせ子は、もちろん喜んだ。目にうっすらと涙を浮かべ、大人びた娘の口上に、そろって噛みしめるように頷くのだった。
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