華が閃く

葉城野新八

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第三章 夢よ現よ

一閃の霹靂②

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 重くしずんでいるあさ子の心もちなどよそに、源右衛門がほこらしげに述べる。

「――河原善左衛門殿は、優秀なご成績で日新館の課程をおさめ、いまや梶原様から将来を嘱望されておる。文政十年の生まれだから、年はおあさと八つちがいの二十四。じつに釣りあいもよろしく、こんな良縁があったものかと我が耳目をうたがうばかりだ」

 ということは、覚馬の一つ歳うえで仲三郎とはおなじということになる。年の釣りあいとしては確かにおかしくないので先方も初婚なのだろう。
 会津では武家も農家も男二十三と女十七あたりを目安に縁組をする。人生五十か六十年。家計と暮らし向きが定まり子を多くもてて、家督の相続が滑らかになる可能性が高まるからだ。なにか事情があって周りに望まれた者はもっとはやい。
 でもなぜ。どうして急に。

「堀様によるところ、先方から原家の才媛を――重要なところだからもう一度言うが、原家の才媛をぜひとも頂きたいと、たっての強い申し出があったそうだ。おそらくはおあさの稽古ごとにおける評判をどこかで知ったのであろう。目をつけた河原家はなかなかの慧眼をお持ちであると見た」

 そのとおりと、きせ子も噛みしめるように頷く。

「旦那さま、お気づきでしょうか。原のうえに河の字をのせると河原になるのです」
「原あさ子……河原あさ子……まことだ!」
「どうも私は天地の神祇がさだめためぐり合わせのように思えてなりません。これを仕合せと呼ぶのではないでしょうか。おんな弁慶などとおかしな渾名で風評がながれたときは、もうどうしようかと思いましたが、まさにわざわい転じて福となす。あれは吉兆だったのでしょう」

 ちなみにおんな弁慶などという不名誉な二つ名をひろめたのはあの佐々木只三郎であるが、その起源について原家の者が知る由もない。あさ子の背が高いからそう呼ばれてしまったのだとすっかり思いこんだ源右衛門ときせ子は、

「嫁入りまえになんとしたことか。儂に似て背が伸びてしまったからだ、すまぬ」
「いいえ、おあさを身ごもったとき、はじめての子でしたので加減も知らずにとにかく食べつづけた私が悪かったのです、ごめんなさい」

 などと、本人を目のまえにして嘆いてきた。
 おりしも原家の才媛をくれとの話である。落胆から喜びの天地を移動した心持ちはいかばかりか、娘のことを持ちあげられた経験がとぼしかった二人は、すっかり舞いあがってしまい上機嫌でいる。
 かたや男子について覚馬かそれ以外かの分類しか持ちあわせていないあさ子であるから、

「なんだ、雑魚じゃないの――」

 とまだ会ってすらいない善左衛門という人をばっさりと切り捨ててしまっている。
 どうせ近習の文士など、ぬくぬくと甘やかされて育った生っ白い腰抜けで、己の意志らしき意志もなく、二十四になったから周りにせっつかれて嫁迎えをするだけなのだろう。そうした意識薄弱の、覚馬の対極にある情けない男子を想像した。
 するとかたわらから、赤紫に変色し膨れはじめた頬をさすりながら仲三郎が感心したようすで唸った。

「――ほう、河原といえば、かの者のことか」
「仲三郎さんはごぞんじなのですか」
「おう。こちらは外様であちらは近習であるから直に話す機会もなかったが、河原は講釋所こうしゃくじょの主席を覚馬とあらそってきた一人だ。源さんの言うとおり同輩のあいだで一目置かれる秀才であったのはまちがいない。ゆくゆくは御用役や御供番、あるいは奉行職につき、家中の将来を背負ってゆくのであろう」
「ふぅん、そうなのですか」
「また原家とおなじ百三十石取りというのはよい。おなじ家格同士で知行取りまで一緒というのはあるようでなかなか無いものだ。嫁いでからなんら過不足なく過ごせるであろう。まるでおあさのためにあったような縁談ではないか。さすがは娘思いの源さん、方々に声をかけて引きよせたのであろう」

 じっとりと睨むあさ子の視線に気づき、仲三郎は慌てて口をふさいだ。その目がなにを訴えているのかを察し、咳ばらいを鳴らした。

「――コホンコホン、ときに源さん」
「なんだ、まだいたのか」
「河原はいずれの剣術を嗜まれたか」
「うむ、それはな、精武流であるそうだ」
「ああ、精武流でしたか」

 仲三郎の顔色がすこしだけ曇る。
 というのも、過激な者が集まりがちな宝蔵院流一派と精武流一派は伝統的におりあいが悪い。似た者どうしはおなじ次元でいがみあうもので、ちょくちょく激しい喧嘩があった。

「――で、いかほどの腕前で」
「さてな、そこまで詳しくは尋ねてこなかったが、馬術のほうはずいぶん達者であるらしいぞ。あとは……」

 尻すぼみに言いよどみ、目をそらして髪をなでつけた。つまり、たいした腕前ではないということだ。
 しばし気まずい沈黙がただよったのち、源右衛門がなにかを思いだした顔になってトンと手を合わせた。

「――だがな、河原家は蒲生の遺臣。普請の経験を買われ、なんと土津様に召しかかえられた古参家のひとつである。勤勉実直な近習として代々の信頼をつみかさね、普請奉行や公事奉行、人参奉行を勤めてきたそうだ。いまや善左衛門殿も人参方で励んでおられる」
「おお、土津様の世からですか。それはすごい、生粋の近習ですな」

 藩祖正之より召しだされた家柄というのは、ずんと重みを増す。きせのみならず、この場においては味方だと思っていた仲三郎までもが引きよせられて話の向きがかわった。

「に、にんじん……」

 とり残されてきょとんとするあさ子である。が、なにをする役目なのかよくわからないが、にんじん奉行の妻などと呼ばれたくない。それは幼いころから思い描いてきた将来とはちがう。
 まわりが勝手に盛りあがれば盛りあがるほど恨めしくも思えてきて、ついぽろりと、心の声がこぼれ出てしまった。

「どうしてですか……どうして、覚馬さまではないのですか」

 仲三郎が声をひそめ、

「おあさ、その気持ちもわかるが――」

 と言いかけたとき、源右衛門がいつになく真剣な声音でかぶせてきた。

「駄目だ。覚馬だけはやめておけ」
「なぜです。父上も覚馬さまはご立派だとつねづねおっしゃっていたではありませぬか」
「もちろんあれは立派な武官になる。涼斎先生や儂も手塩にかけてきたのだから。なればこそである。よいか、覚馬のように才気が迸りすぎる男は往々にして女子を泣かすものだ。近くにある仕合せよりも遠くにある高き志に目をむけ、ありあまる才だけを頼りにどこまでも駆けていってしまう。それが悪いとはいわぬが、おあさのこととなれば話は別だ。ならぬものはならぬ」

 あさ子はぎゅっとくちびるを噛む。
 父はおかしなことをいう。きっと覚馬をあきらめさせるため方便を弄しているにちがいないと睨みつけだが、おどろいたことに母と仲三郎までもがしずかに首肯している。
 源右衛門がいつになく厳とした声音でつづけた。

「われら外様の武官が国家を背負うということは、さまざまなことがつきまとう。けして晴れ晴れとしたものばかりでもない。たとえば目下、いつ戦になるとも知れぬ江戸沿岸の警備においては命を落とすことも当然にありうる。皆々、そうした覚悟をもって臨んでいるのだ。だが、未亡人となられたご妻女は憐れだ。唐突に父を失う子も憐れだ。じつにそれは、そうした目にあった者にしか……」

 声を詰まらせ、頭を垂れるようにうつむく。

「わかってくれ、おあさ。父はお前にそうした心労をさせたくない。会いたくなったときにいつでも会えるというのは、じつはありがたい仕合せなのだ。これからも近くにいて、可愛い孫の顔をきせに見せてやってくれ。すこし時間をやるから、どうかよくよく考えてみてほしい」

 きせ子が隣でうっすらと目に涙をうかべている。
 不器用な父がそこまで深く考えてくれていたとは、あさ子にとって思いがけないことだった。娘として胸が詰まるほどありがたい言葉にちがいない。

「だけど、そんな急にいわれても……」

 幼いころからずっと慕ってきた人をいきなり諦めろといわれても、おいそれとできることではなかった。
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