華が閃く

葉城野新八

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第二章 蝶よ花よ

原家の日常②

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 夜叉の仲三郎の異名をもつ高津仲三郎たかつちゅうざぶろうも、向こう気がつよく喧嘩ならば負けしらずの佐川勝さがわすぐれも、涼斎のまえでは借りてきた猫のように大人しくかわる。だが彼らにかぎったことでもなく、誰もがそうなる。
 六尺(一八〇センチ)ある山のような体格をした仲三郎が、ちょこんと小さく正座をして神妙な面持ちでうつむき、口の端までつづく剛毛のもみあげをしきりにいじっている。
 眉毛も鬢もちぢれた癖っ毛で、その見た目こそ老けてみえるが、まだ二十四歳の青年だ。少年のころから源右衛門を慕ってきたからなのか、なんとなく似た雰囲気がある。
 となりの勝は二十歳になったばかりだ。幼少のころは什どうしの喧嘩でならし、徒競走をすれば後ろを遥かにひきはなしていつも一番になる。
 槍と一刀流溝口派で鍛えた五尺三寸(一六〇センチ)の体は引きしまっていて、何をやらせても抜群に動きがはやい。喧嘩っ早さにおいても上位をあらそう。皆からはぐるいなどと、ひそかに渾名されたりもしてきた。
 しかし二人は、三百石どりの立派な家の子息である。

「――仲三郎、お前の源右衛門を思う殊勝な気持ちはわかる。だがな、泊まってまでして酒をくらうとはなにごとか」
「も、申し訳ござりませぬ……」
「勝、お前はまだ日新館の勉学にはげむべき学生の身分だ。心得の十七ヶ条をおぼえているか。すこし諳んじて聞かせよ」
「……皆で集まりお酒を飲み、仕事もせず、女子と遊ぶいかがわしい場所に出かけるのを楽しみにしてはならぬ。喧嘩は自身が我慢できぬから起こるものであって、何ごとも辛抱づよく我慢し、喧嘩をせぬよう常に心掛けよ」
「ほれ、お前のためにあるような条文ではないか。なにか申し開きはあるか」
「……ございません、なるべくあらためるようにいたします」
「まったく、さっさと顔を洗って身なりをととのえてくるがいい。原家の皆さまに失礼であろう」

 二人はすごすごと井戸のほうへ去って行った。
 組太刀をしながら視界の端で始終を見ていたあさ子と承治が、くすくすと笑いをこらえる。
 入れかわりに源右衛門が縁側にでてきた。すでに身なりを整えてあったが、涼斎の横に座って折り目ただしく礼をした。
 父も小言をされるのだろうかと固唾をのんで見守ったが、さっきまでと一変して両者の表情が翳りをおびたので、あさ子と承治は見聞きしてはならないような気がして、目をそらし組太刀にもどった。
 姉弟に聞こえぬよう声をひそめ、話をきりだしたのは涼斎のほうだった。

「――此度はたいへんだったな。傷の具合は癒えたか」
「こんなもの、浅くて傷のうちにもはいりません」

 源右衛門が臍のあたりをさすり、口惜しげに唇を引きむすんだ。

「きせ殿には気づかれたか」
「いいえ。しかし何かを察しているかもしれませぬ」
「そうか……要らぬ心労はかけぬことだ。海防と千代田城のまわりはどうであった」
「房総の海防は磐石。まれに異国船が海上をゆき過ぎますが、会津の者たちはよくやっております。しかしながら、これまでにない不穏な動きが諸藩に見うけられます」

 涼斎の目に厳しい光がやどる。

「水戸、烈公か」
「はい。海防と将軍継嗣の一件に乗じ、幕政介入を目論んでいるのでしょう。あやしげな京の公卿とつながりを保つかたわらで大広間詰おおひろまづめを煽り、右腕の藤田東湖ふじたとうこ殿がしきりに西国の者と誼を通じております」
「うむ。幕閣はどうか」
「あいかわらず老中らの言うことが二転三転して話になりませぬ。君公も呆れておいでです」
「フン、あいかわらずか。困ったものだ」

 涼斎は乾いた笑いをもらしたあと、目尻の皺をなおいっそう深くさせ嘆息をゆらした。
 宝蔵院流一門は、その結束力と屈強さ、藩をまたがる広い人脈から、密偵のような役まわりを上から与えられることがしばしばあった。
 そもそも志賀重方の廻国修行は、諸藩の情報収集を兼ねたものであったし、涼斎と伝五郎もただ純朴に槍の腕を磨いていたというわけでもない。だからこそ帰国したときに君公じきじきの褒賞をたまわりもした。
 会津にかぎらず、相応の規模をもつ藩や幕府もあたりまえにやっていることだ。
 泰平の世というのは表向きの建前であって、内実は醜い政局と激しい衝突が二百五十年もつづいてきたにすぎない。
 常にどこかで静かなる闘争がある。
 たとえば奥羽の近隣では仙台藩が、町人や博徒をよそおった探索方をはなっている。それは戦国の世からつづくもので、おそらく白河や米沢、若松城下にもまぎれているはずだ。
 いっぽう幕府がよくやる手口は、御家騒動への介入や家政の不行き届きによる改易などで、口実を求めていつも目を光らせている。これぞ徳川幕府だけが行使できる強権であり、大名を屈服させる伝家の宝刀である。
 諸家にとってみればたまったものではなかった。かつて山形藩最上家もそれでやられ、多くの浪人が出て藩祖正之に召しかかえられた。
 伊達あるいは徳川と対立した蒲生、最上、蘆名遺臣の裔が会津には多くある。父祖がこうむった苦難は、救ってくれた神君正之公に対する忠義の根拠としていまもなお口伝され、仙台は宿敵だと言ってはばからぬ者はあるし、幕府への遺恨が複雑な感情として根づよくのこっている。
 天下の安寧と秩序を保つため、幕府はたしかに必要なしくみだ。であるが、これまで会津はどんなに迷惑をこうむってきたか知れなかった。
 四十年ほどまえの文化五年(一八〇八年)、南下東進するロシア船が蝦夷えぞ樺太からふとの沿岸を荒らした。そこで白羽の矢がたったのは、蝦夷と択捉に交易の航路をもつ会津藩と仙台藩だった。
 御家門としての面目をたもつため会津からの志願という手順を踏んだが、幕府から開示された情報はいちじるしく不足してなかば騙しうちに近かった。
 前任の津軽藩では、過酷な気候のため栄養不足の浮腫が蔓延した。派兵したうちの八割が死んでいたのである。
 会津は陣将隊と三番頭隊で編成された千六百名の軍勢を樺太まで送った。
 会津の武家が五千人ほどであったことを思えば、たいへんな大出兵である。現地のコタンでは歓迎をうけ、ロシアと直接的な交戦も生じなかったが、やはり栄養不足で五十人以上が殉難した。
 会津の武名は高まったものの、兵を動かすと莫大な費用を要する。幕府から下された報酬は悲惨な犠牲に見合うものではなかった。
 蝦夷出兵の傷も癒えぬ二年後の文化七年(一八一〇年)。
 四海を異国の商船が往来するようになった。幕府から江戸の沿岸警備を命じられ、三浦半島を割りあてられた。こんどは加増の交渉を事前にやるようにしたが、千人あまりの長期出兵となり、気の毒だったのは離ればなれとなる家族たちだった。
 そして弘化三年(一八四六年)閏五月。
 アメリカの軍艦が浦賀沖にあらわれた。司令官のジェームス・ピドルは条約の締結をもとめ上陸を試みたが不調となり去っていった。
 当然に二百八十藩が大騒ぎとなった。
 翌、弘化四年(一八四七年)の二月、会津は房総の沿岸警備を幕府から命じられた。
 負担になるだけなので老中たちに辞退を申しでたが、沿岸警備の前例をもちだされ強硬におしこまれてしまった。
 陣屋と砲台の建設、船は十九艘、出兵の数は千四百人。その人数を一年交代でまわす。やはり莫大な出費となったし、若松城下は慢性的な人手不足にあえいだ。
 相模から江戸、房総までの海岸線はとてもながい。ほかに命じられたのは彦根伊井家、高松松平家、川越松平家、奥平松平家(忍藩)のいずれも溜詰たまりづめか溜詰格の家だった。
 ならわしとして幕政は、徳川譜代の老中が世襲で執政をにぎっている。おもに外様家からなる大広間詰は口出しを許されなかったし、諮問機関的な役割の溜詰も形骸化して久しい。
 しかしいつまで続くかわからない海防の負担は、会津にとって死活問題になるから大人しく従ってもいられなかった。
 嘉永二年(一八四九年)五月。ついに業を煮やした会津松平八代容敬は、異国船の打ちはらいは現実的に不可能だと幕府へ上申し、江戸湾警備の策としてお台場の設置を提案した。
 かたわらでひろく親交をふかめ、おなじく溜詰の彦根伊井家や高松松平家と協力して幕政に参加できるよう老中首座の阿部正弘あべまさひろに求めた。が、正弘はよく人の意見を聞きはするが、自身の定見がなく煮えきらなかった。
 そうしたなか源右衛門は、房総警備の任につきながら探索や重役の警護をしてきた。
 ところが昨年の嘉永三年の十月、予期せぬ変事に巻きこまれた。
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