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(五)
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思いがけず得た楽しい歳月は、軽やかに流れてゆく。
見性院は、幸松のことを我が子のごとくいとおしみ、たいせつに育てた。またお静のことを娘のように思い、ときに厳しく、武将の母となる女の心得とたしなみを授けた。もちろんそれは、かつて見性院が母から授けられたもの。甲斐武田家の女に脈々と受け継がれてきた流儀だ。
長年、さびしげに俯いて過ごし、まるで己を罰するかのように身が痩せ細り、小さくなってゆく主人を見てきた屋敷女中たちにとって、これほど嬉しいことはない。
「見性院さまは若がえりをなされました。十、あるいは二十も」
「私もさように思います。そういえば先日に嵐がありましたでしょ。雷が落ちたりもして。ところが幸松さまはまったく恐れたごようすもなく、むしろ右往左往する大人たちを見てころころと笑っておいででしたの」
「さすがは将軍さまのお血筋にあられますね。まこと御当家はありがたい良縁にめぐまれました」
わざわざ見性院が取り寄せてくれた甲斐絹で仕立てた女中たちの着物は艶やかだ。
屋敷にあふれる活気を浴びて、今年は庭先のつつじも一段と彩りを増したようにすら思える。幸松は見性院だけでなく、屋敷のなか隅々までぱっと明るく変えていた。
そんなある時のこと。
突と不穏な暗雲がやってきた。
やはり権謀術数うずまく千代田城内のこと。秘密を秘密として何年も保っておくことは難しかった。にわかに活気づいた屋敷のようすを怪訝に思った者があったのかもしれないし、勘のするどい江与のことだから秀忠と接するうちに小さな変化を察したのかもしれない。
ついに幸松の存在が、江与の知るところとなってしまったのである。
「おこたえください。あの御子はどこから貰ってこられたのでしょう。よもや風聞のとおり、上さまのご落胤ではないのですか!?」
「…………」
「もしそうであるなら言語道断、御台さまのお許しもなく上さまの御子をなすのはならわし破りの大重罪、いいえ、その女子は謀反人に違いなりませぬ。御家はその謀反人をかくまうのですか!?」
江与の名代として大奥から遣わされ、上座に陣取った女中年寄が、見性院に対して居丈高につめよる。威光を笠に着てくどくどと、まるで主人が従者をなじるような口ぶりだ。あまつさえ、さも見性院が悪企みでもしているかのような濡れ衣まできせてくるのだから許せない。
脇に控えた女中たちが、口おしげに唇をかむ。襖の陰で襷掛けとなり、懐剣の柄に手をかける者もあった。これは談判などといった生易しいものではない。武家の女同士の面目をかけた、いくさに他ならなかった。
とうの見性院はといえば、俯きかげんに押しだまって話をきいていたが、やっと言葉のつきたころあいとみるや、威儀をただして首と背筋をたかく伸ばし、よく通る声できっぱりと言いはなった。
「いかにもその通り。上さまの御子です」
正面にいた女中年寄と部下だけでなく、その場をとりまく見性院の女中たち、中庭に侍る警護の者たち、誰もが驚いて目をみはった。
まるで眉間を射ぬかれたような、鋭利な凄みをもつその語気と、聞く者を身ごと上から封じる太い声音が、普段のものと遥かに別人であったからだ。
長く左右対称にたらされた正絹の尼頭巾のなか、武神毘沙門天像をおもわす眼光が、炯炯と一点にとどまって見る者の心を強烈に吸い寄せる。
皆が皆、息をするのも忘れ、つぎの言葉を待った。
「されど、成人のあかつきには武田の名をつがせ、頂戴した少々の知行を譲るつもりでおります。たとえ御台さまよりいかなるお咎めをこうむりましょうとも、ひとたびこの見性院の子といたしたうえは、けして手放すものではございません」
虚をつく、したたかな一矢だった。
「な、なんとご養子……御家のご養子になさると申されますか」
「それがなにか?」
「そ、それは……」
女中年寄はおもわず目を反らして泳がせた。
母子の身柄を預かっているのではなく、武田家の養子にしたということになると道理は大きく入れ替わる。いくら大奥とはいえ、他家の子を引き剥がす訳にもゆかない。
それは不当な略取となり、こんどは徳川家が諸家世論からの批判を免れない。
(そう、そうだった――)
かねてよりおとなしい老尼だったのですっかり見くびって来たが、女中年寄は目のまえにある女性の真の姿を、はたと思い出した。
この見性院という人は、あの新羅三郎義光の血をうけた甲斐の虎、甲斐信濃守護武田信玄公と、高貴な公家からむかえられた貴人三条夫人のあいだに生まれた姫である――と。
どこかで一つでも掛けちがえれば、織田家と同盟関係にあった徳川家が滅び、武田家の天下だってありえた。
まぎれもなくこの女性は、江与の浅井家よりも格式の高い甲斐武田家の姫様だったのだ。
気迫がちがう。
覚悟がちがう。
生まれもった運命と、背負ってきたものの重みがちがう。
おずおずとあげた視界の先にある、質素な打ち掛けのところどころに散りばめられた武田の花菱紋が、なぜだかいまは鮮烈に際だって見えた。
見性院が放つ侵しがたい迫力に射すくめられた女中年寄の顔色は、みるみる蒼白にかわり、やがて手と唇が小きざみに震えだしたのだった。押さえようとしてみたがどうにも止まらない。渇いた口のなかを潤そうと湯のみ茶碗に手を伸ばしたところ、ころりと、みっともなく取りおとしてしまった。
とうとうあとは何も言えなくなって、矛をおさめたというよりも木っ端微塵に心を粉砕され、縺れる足どりを部下たちに支えられながらすごすごと退散して行くのみだった。
屋敷女中たちはくすくすと笑いをこらえ、胸すく思いで主の顔を仰ぎ見た。
だがじつのところ幸松の将来は、未だに曖昧なままだ。武田家の養子だと公言したのは、この場から女中年寄を追いかえすための機転にすぎなかった。
(このまま御台さまが引いてくれるはずがない。直接お話し申し上げ、それでも駄目だった時はこの身をもってお詫びし、幸松どのとお静の助命をお願いするほかあるまい――)
心中で江与との直接対決まで覚悟した見性院だったが、あとに大奥からの横槍がはいることはなかった。それは江与の黙認を意味する。
けして江与も、私情に流されるような盲目の人ではない。
おなじく乱世の波動に翻弄され、衆生の極限をみてきた身のうえだ。そのなかに通う武家の道理をわきまえているからこそ、江与と見性院はこの千代田城のなかに居る。
女中年寄より伝え聞いたところから、江与が見性院の言いさすところを汲んでくれたに違いなかった。
見性院は、幸松のことを我が子のごとくいとおしみ、たいせつに育てた。またお静のことを娘のように思い、ときに厳しく、武将の母となる女の心得とたしなみを授けた。もちろんそれは、かつて見性院が母から授けられたもの。甲斐武田家の女に脈々と受け継がれてきた流儀だ。
長年、さびしげに俯いて過ごし、まるで己を罰するかのように身が痩せ細り、小さくなってゆく主人を見てきた屋敷女中たちにとって、これほど嬉しいことはない。
「見性院さまは若がえりをなされました。十、あるいは二十も」
「私もさように思います。そういえば先日に嵐がありましたでしょ。雷が落ちたりもして。ところが幸松さまはまったく恐れたごようすもなく、むしろ右往左往する大人たちを見てころころと笑っておいででしたの」
「さすがは将軍さまのお血筋にあられますね。まこと御当家はありがたい良縁にめぐまれました」
わざわざ見性院が取り寄せてくれた甲斐絹で仕立てた女中たちの着物は艶やかだ。
屋敷にあふれる活気を浴びて、今年は庭先のつつじも一段と彩りを増したようにすら思える。幸松は見性院だけでなく、屋敷のなか隅々までぱっと明るく変えていた。
そんなある時のこと。
突と不穏な暗雲がやってきた。
やはり権謀術数うずまく千代田城内のこと。秘密を秘密として何年も保っておくことは難しかった。にわかに活気づいた屋敷のようすを怪訝に思った者があったのかもしれないし、勘のするどい江与のことだから秀忠と接するうちに小さな変化を察したのかもしれない。
ついに幸松の存在が、江与の知るところとなってしまったのである。
「おこたえください。あの御子はどこから貰ってこられたのでしょう。よもや風聞のとおり、上さまのご落胤ではないのですか!?」
「…………」
「もしそうであるなら言語道断、御台さまのお許しもなく上さまの御子をなすのはならわし破りの大重罪、いいえ、その女子は謀反人に違いなりませぬ。御家はその謀反人をかくまうのですか!?」
江与の名代として大奥から遣わされ、上座に陣取った女中年寄が、見性院に対して居丈高につめよる。威光を笠に着てくどくどと、まるで主人が従者をなじるような口ぶりだ。あまつさえ、さも見性院が悪企みでもしているかのような濡れ衣まできせてくるのだから許せない。
脇に控えた女中たちが、口おしげに唇をかむ。襖の陰で襷掛けとなり、懐剣の柄に手をかける者もあった。これは談判などといった生易しいものではない。武家の女同士の面目をかけた、いくさに他ならなかった。
とうの見性院はといえば、俯きかげんに押しだまって話をきいていたが、やっと言葉のつきたころあいとみるや、威儀をただして首と背筋をたかく伸ばし、よく通る声できっぱりと言いはなった。
「いかにもその通り。上さまの御子です」
正面にいた女中年寄と部下だけでなく、その場をとりまく見性院の女中たち、中庭に侍る警護の者たち、誰もが驚いて目をみはった。
まるで眉間を射ぬかれたような、鋭利な凄みをもつその語気と、聞く者を身ごと上から封じる太い声音が、普段のものと遥かに別人であったからだ。
長く左右対称にたらされた正絹の尼頭巾のなか、武神毘沙門天像をおもわす眼光が、炯炯と一点にとどまって見る者の心を強烈に吸い寄せる。
皆が皆、息をするのも忘れ、つぎの言葉を待った。
「されど、成人のあかつきには武田の名をつがせ、頂戴した少々の知行を譲るつもりでおります。たとえ御台さまよりいかなるお咎めをこうむりましょうとも、ひとたびこの見性院の子といたしたうえは、けして手放すものではございません」
虚をつく、したたかな一矢だった。
「な、なんとご養子……御家のご養子になさると申されますか」
「それがなにか?」
「そ、それは……」
女中年寄はおもわず目を反らして泳がせた。
母子の身柄を預かっているのではなく、武田家の養子にしたということになると道理は大きく入れ替わる。いくら大奥とはいえ、他家の子を引き剥がす訳にもゆかない。
それは不当な略取となり、こんどは徳川家が諸家世論からの批判を免れない。
(そう、そうだった――)
かねてよりおとなしい老尼だったのですっかり見くびって来たが、女中年寄は目のまえにある女性の真の姿を、はたと思い出した。
この見性院という人は、あの新羅三郎義光の血をうけた甲斐の虎、甲斐信濃守護武田信玄公と、高貴な公家からむかえられた貴人三条夫人のあいだに生まれた姫である――と。
どこかで一つでも掛けちがえれば、織田家と同盟関係にあった徳川家が滅び、武田家の天下だってありえた。
まぎれもなくこの女性は、江与の浅井家よりも格式の高い甲斐武田家の姫様だったのだ。
気迫がちがう。
覚悟がちがう。
生まれもった運命と、背負ってきたものの重みがちがう。
おずおずとあげた視界の先にある、質素な打ち掛けのところどころに散りばめられた武田の花菱紋が、なぜだかいまは鮮烈に際だって見えた。
見性院が放つ侵しがたい迫力に射すくめられた女中年寄の顔色は、みるみる蒼白にかわり、やがて手と唇が小きざみに震えだしたのだった。押さえようとしてみたがどうにも止まらない。渇いた口のなかを潤そうと湯のみ茶碗に手を伸ばしたところ、ころりと、みっともなく取りおとしてしまった。
とうとうあとは何も言えなくなって、矛をおさめたというよりも木っ端微塵に心を粉砕され、縺れる足どりを部下たちに支えられながらすごすごと退散して行くのみだった。
屋敷女中たちはくすくすと笑いをこらえ、胸すく思いで主の顔を仰ぎ見た。
だがじつのところ幸松の将来は、未だに曖昧なままだ。武田家の養子だと公言したのは、この場から女中年寄を追いかえすための機転にすぎなかった。
(このまま御台さまが引いてくれるはずがない。直接お話し申し上げ、それでも駄目だった時はこの身をもってお詫びし、幸松どのとお静の助命をお願いするほかあるまい――)
心中で江与との直接対決まで覚悟した見性院だったが、あとに大奥からの横槍がはいることはなかった。それは江与の黙認を意味する。
けして江与も、私情に流されるような盲目の人ではない。
おなじく乱世の波動に翻弄され、衆生の極限をみてきた身のうえだ。そのなかに通う武家の道理をわきまえているからこそ、江与と見性院はこの千代田城のなかに居る。
女中年寄より伝え聞いたところから、江与が見性院の言いさすところを汲んでくれたに違いなかった。
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