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(一)
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保科正之という人は、数奇な運命をたどった人だった。
その出生と幼少期には、すこし風変わりな秘話がある。
徳川の治世のあいだは幕府中枢の機密事項であったため、詳らかに明かされたのは明治の世になってからだ。かれこれ四百年も過ぎたというのに、今もなお知っている人はそう多くもない。
正之は、まだ乱世の余韻がただよう慶長十六年(1611)に生まれ、幼名を幸松という。
生母は北条家遺臣の娘で、お静という女。二代将軍徳川秀忠から見そめられ、千代田城で秀忠の養育をした大乳母殿と呼ばれた人に仕えていた。
しかし、秀忠には江与という正室があった。
江与はかの織田信長の妹お市が産んだ浅井三姉妹の末っ子だ。
見目は麗しい。男ならば誰しも眺めていたくなるような、高貴な美しさを備えた女性であるというのは違いなかった。よくいえば真っ直ぐな気性をもつ芯のつよい女性で、武家の女として頼もしいのだが、悪くいえば織田弾正忠家の血筋のなせる業ともいうべきか、先祖ゆずりの激烈な気性をそのまま受け継いでいるのが難といえた。
遠くから見ているぶんにはよいが、妻として近くに置くとなると夫になる者は大変だ。
信長という人は秀忠が三歳のときに亡くなっているから、実際に面会したことはなかったが、江与と対峙していると、どこからともなく侵しがたい気のようなものがたちこめてくる。正体不明の威圧感をうけて返答に困ることがたびたびあったもので、父の家康が太閤秀吉とは敵対しても信長に反目しなかった理由を、あえて尋ねずとも自得できた。
だからといって嫌いではない。はじめは驚きもしたが、しだいに慣れてくるとむしろ尻の下に敷かれているほうが心地よくすら感じられ、ここが己の居場所だと思えてくるのだから不可解だった。でも付き合いが長くなってくると、ふとした瞬間、そんな自分が男として嫌になるのだ。
本能寺における明智光秀の謀反について、どうして確たる見通しもなくあんな馬鹿な真似をしたのか、光秀らしくもない、信長は光秀を寵愛していたし、光秀も信長に心酔していた、二人は周りが羨むほどの蜜月の主従だった、わからないと当時を知る老人たちは今でも首を傾げる。だがなぜだか秀忠には、光秀が言葉にして残さなかったその気持ちが、しみじみと分かるのである。信長に弓矢したのは、邪心や憎悪から出でたものではなかったのだと。
秀忠からみて江与は六歳上、お静は五歳下にあたる。
江与は上から秀忠を組み敷くが、お静は下から秀忠を立ててくれる。
江与は家中について気づいたことをあれやこれやと伝えてくれるが、ほとんど秀忠の話には興味を示してくれない。ところがお静は、いつも黙って秀忠の話を聞いてくれた。
二人は真逆の属性をもっていたのだ。
癒しを求めた秀忠が、江与の目を盗んで足しげく通ううち、ごく自然な成り行きとしてお静が子をやどした。
色白で面長の顔を俯かせたお静からそう告げられたとき秀忠は、喜ぶよりも頭が真っ白になってしまい、うっと声を詰まらせた。
転瞬、脳裏をよぎったのは、江与の鋭い眼光と、耳朶をつんざく甲高い声音だった。つぎに未知の悪寒が全身をこわばらせた。
秀忠は初陣の折、信州上田城攻めに手をこまねいて関ヶ原への進軍がおくれたという黒歴史がある。西上する道中、父に対面したらどう言い訳をしようかと馬に揺られた。そのときに味わった以上の、天地が逆転して身ごと放り出されたような動揺を覚えずにはいられなかった。
自分より十一も若い女に手をつけたと江与が知れば、どんな災いになるともしれない。
十中八九、母子ともども存在を隠滅するにちがいなかった。
きっと父は江与の味方をするであろうか。
子の竹千代は、祖父の家康よりも叔父の信長によく似ていると皆が噂するきりりとしたまなざしで、じっと無言で見つめ返してくる光景がありありと見えた。
何日も苦悩したすえ秀忠は、お静という唯一の癒しを失いたくない一心から、
「……流してくれ」
とやっと告げた。
かたやお静は悲哀をあらわにするでもなく、とり乱すわけでもなく、
「うえさまのお心のままに」
と静かに応じたのだった。
ところが、ほどなくしてお静はふたたび、子を腹に宿したのである。
おなじ苦悩を繰りかえした秀忠は、またしても流産の指図を下した。お静にとって主人の命になるから是非もなく従うしかない。征夷大将軍の上意に反すれば天下の大罪人になる。
が、二度目の結末は、一度目と違った。
突としてお静の身が行方知れずとなってしまい、やがて指図に反して出産したという密書が千代田城まで届いたのである。
産後の経過は母子ともにつつがなく、大乳母殿の配慮によって保護されてきたという。徳川宗家と秀忠には迷惑がかからないように育てるからどうか女のわがままを許してほしいと、紙に落涙をにじませ書き添えてあった。
秀忠はお静という人の心を、よくわかっていなかったのだと気づいた。
「許せ、お静……すべては余の不明が招いた顛末だ。余はまたしても取り返しがつかない過ちを残してしまった」
心配して密かに行方をさぐらせていた秀忠は、やっと安堵して胸奥からこみ上げてくるものを抑えた。
その出生と幼少期には、すこし風変わりな秘話がある。
徳川の治世のあいだは幕府中枢の機密事項であったため、詳らかに明かされたのは明治の世になってからだ。かれこれ四百年も過ぎたというのに、今もなお知っている人はそう多くもない。
正之は、まだ乱世の余韻がただよう慶長十六年(1611)に生まれ、幼名を幸松という。
生母は北条家遺臣の娘で、お静という女。二代将軍徳川秀忠から見そめられ、千代田城で秀忠の養育をした大乳母殿と呼ばれた人に仕えていた。
しかし、秀忠には江与という正室があった。
江与はかの織田信長の妹お市が産んだ浅井三姉妹の末っ子だ。
見目は麗しい。男ならば誰しも眺めていたくなるような、高貴な美しさを備えた女性であるというのは違いなかった。よくいえば真っ直ぐな気性をもつ芯のつよい女性で、武家の女として頼もしいのだが、悪くいえば織田弾正忠家の血筋のなせる業ともいうべきか、先祖ゆずりの激烈な気性をそのまま受け継いでいるのが難といえた。
遠くから見ているぶんにはよいが、妻として近くに置くとなると夫になる者は大変だ。
信長という人は秀忠が三歳のときに亡くなっているから、実際に面会したことはなかったが、江与と対峙していると、どこからともなく侵しがたい気のようなものがたちこめてくる。正体不明の威圧感をうけて返答に困ることがたびたびあったもので、父の家康が太閤秀吉とは敵対しても信長に反目しなかった理由を、あえて尋ねずとも自得できた。
だからといって嫌いではない。はじめは驚きもしたが、しだいに慣れてくるとむしろ尻の下に敷かれているほうが心地よくすら感じられ、ここが己の居場所だと思えてくるのだから不可解だった。でも付き合いが長くなってくると、ふとした瞬間、そんな自分が男として嫌になるのだ。
本能寺における明智光秀の謀反について、どうして確たる見通しもなくあんな馬鹿な真似をしたのか、光秀らしくもない、信長は光秀を寵愛していたし、光秀も信長に心酔していた、二人は周りが羨むほどの蜜月の主従だった、わからないと当時を知る老人たちは今でも首を傾げる。だがなぜだか秀忠には、光秀が言葉にして残さなかったその気持ちが、しみじみと分かるのである。信長に弓矢したのは、邪心や憎悪から出でたものではなかったのだと。
秀忠からみて江与は六歳上、お静は五歳下にあたる。
江与は上から秀忠を組み敷くが、お静は下から秀忠を立ててくれる。
江与は家中について気づいたことをあれやこれやと伝えてくれるが、ほとんど秀忠の話には興味を示してくれない。ところがお静は、いつも黙って秀忠の話を聞いてくれた。
二人は真逆の属性をもっていたのだ。
癒しを求めた秀忠が、江与の目を盗んで足しげく通ううち、ごく自然な成り行きとしてお静が子をやどした。
色白で面長の顔を俯かせたお静からそう告げられたとき秀忠は、喜ぶよりも頭が真っ白になってしまい、うっと声を詰まらせた。
転瞬、脳裏をよぎったのは、江与の鋭い眼光と、耳朶をつんざく甲高い声音だった。つぎに未知の悪寒が全身をこわばらせた。
秀忠は初陣の折、信州上田城攻めに手をこまねいて関ヶ原への進軍がおくれたという黒歴史がある。西上する道中、父に対面したらどう言い訳をしようかと馬に揺られた。そのときに味わった以上の、天地が逆転して身ごと放り出されたような動揺を覚えずにはいられなかった。
自分より十一も若い女に手をつけたと江与が知れば、どんな災いになるともしれない。
十中八九、母子ともども存在を隠滅するにちがいなかった。
きっと父は江与の味方をするであろうか。
子の竹千代は、祖父の家康よりも叔父の信長によく似ていると皆が噂するきりりとしたまなざしで、じっと無言で見つめ返してくる光景がありありと見えた。
何日も苦悩したすえ秀忠は、お静という唯一の癒しを失いたくない一心から、
「……流してくれ」
とやっと告げた。
かたやお静は悲哀をあらわにするでもなく、とり乱すわけでもなく、
「うえさまのお心のままに」
と静かに応じたのだった。
ところが、ほどなくしてお静はふたたび、子を腹に宿したのである。
おなじ苦悩を繰りかえした秀忠は、またしても流産の指図を下した。お静にとって主人の命になるから是非もなく従うしかない。征夷大将軍の上意に反すれば天下の大罪人になる。
が、二度目の結末は、一度目と違った。
突としてお静の身が行方知れずとなってしまい、やがて指図に反して出産したという密書が千代田城まで届いたのである。
産後の経過は母子ともにつつがなく、大乳母殿の配慮によって保護されてきたという。徳川宗家と秀忠には迷惑がかからないように育てるからどうか女のわがままを許してほしいと、紙に落涙をにじませ書き添えてあった。
秀忠はお静という人の心を、よくわかっていなかったのだと気づいた。
「許せ、お静……すべては余の不明が招いた顛末だ。余はまたしても取り返しがつかない過ちを残してしまった」
心配して密かに行方をさぐらせていた秀忠は、やっと安堵して胸奥からこみ上げてくるものを抑えた。
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