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第1章

37 人間か吸血鬼か

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欲望を無視すれば歪んでしまう。

今までそんなこと、考えたこともなかった。

傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、色欲、暴食、怠惰。

7つの大罪に代表されるように、むしろ欲望など考えてはいけないこと、触れてはいけないことだと思っていた。

…私はそのひとつ、憤怒の名がつく固有能力の持ち主だと言われてしまったし、確かに最近なんだか怒りっぽいし怒ると自分でもわけがわからなくなってしまうし、そもそも実はもともとかなり食欲旺盛でお菓子を食べすぎては『侯爵令嬢らしくない』とイザベラに何度も怒られていたし、そして色欲についても…本当にこの心の中だけで正直に告白すると朝起きた時とか夜寝る前とかになぜか濡れてきてなんだかムズムズして身悶えてしまうということは実は何度もあったのだけど、これまでずっとそういう気持ちからは目を背け続けていた。

それこそ、そんなこと神様がお許しにならないと思って。
純潔を守らなきゃと思って。

だけどアルミラの血を吸ってしまった時、私を支配していたのは紛れもなく色欲だった。
認めたくない。認めたくはないけれど。
でも、目を背け続けていると歪んでしまう、という言葉には確かにそうなのかもしれないと思わされる説得力があった。

しかしそれを言ったのは神様と人類の敵、最大の悪、悪魔王サタンその人だ。自称だけれど。
でも万が一本当に本物だったとしたら、人の良さそうなお年寄りに見えたけどそれこそが巧妙な罠で、『欲望を無視するな』という一見筋の通った言葉こそ私を悪の道に誘う甘言なのだと考えるべき、というのがマリエス教徒としての正しい姿勢だろう。

でも、それでも私はアルミラの血を吸ったことで快感と興奮の渦に飲み込まれ、さっき吸ったばかりなのにまたアルミラの首筋に噛みついてジュウジュウ音を立てて血を吸いたくなっているし、今度は私の血を吸わせてあげたくもなっている。

この気持ちを放っておくと、確かにおかしくなってしまいそうだ。

うう…。

こんな時、一体どうすればいいんだろう。

神父様にご相談できたらいいのに…!
吸血鬼ヴァンパイアの話なんか聞いてくださらないと思うけど…。

「何をしている。さっさと行くぞ」

前を行くアルミラが振り返って私はギクリとなって立ち止まる。

「…どうした?」

アルミラが心配そうに私の顔を覗き込む。
目を合わせたくなくて私は黙って下を向く。

「おかしな奴だな…ほら、早くここを出てローザに会いに行くのだろう?」

そう。
そうなのだ。

私たちは悪魔王サタンを名乗る老人から迷宮での試練は合格だと告げられ、気が付くと迷宮に入る直前にいた穴蔵の中に移動していて、今度は長い通路が迷宮とは反対の方向に伸びていた。

私たちはその通路を歩いているところだった。

過去に試練を合格したというアルミラも通った道だそうで、この通路の先は薔薇の不死城ロサカステルムの地下なのだという。

早くここを出て茨の街の魔具屋で待つローザを迎えに行かなければいけない。
アンデッドの世界に一人きりできっと不安を感じているはずだ。

だけど…。

「私、ローザに会ってもいいのかな…」

つい本音が漏れてしまった。

「アタシの血を吸ったからか?」

アルミラの問いかけに私は無言で頷く。
次の瞬間、突然、私はアルミラにふわりと包み込まれる。

「…すまない、アタシのせいで」

私はアルミラの腕の中で首を振る。

「でもアタシの死ぬ直前の願いだったんだ。リリアス、お前は何も悪くない」

私は頷くことも首を振ることも何か答えることもできずにいた。

「それにな」

アルミラが私を優しく抱き締めた。

「ローザに言わなければ何の問題もないじゃないか…」

私の胸がズキン!と痛む。
心臓なんか動いてないのに。

それは単純にローザへの罪悪感の痛みでもあるけど、同時にアルミラの私の抱き締め方と言い方から『ローザの目を盗んでまた血を吸わせようとしているんだ』とわかってしまって、それなのに私は拒否するどころか、おなかの下から湧き上がる興奮を感じてアルミラの腰に手を回して抱きついてしまっている自分に対しての戸惑いと驚きと情けなさが多くを占めている胸の痛みだった。

アルミラの甘い血の匂いに鼻をくすぐられ、私は小さく震えた。


******


私たちが辿り着いたのは、たくさんの棺が整然と並ぶ広い部屋だった。

部屋の中央にはまっすぐな通路。
その奥には上階への階段が覗いている。
通路の両側にはたくさんの白い薔薇の花に埋もれるように、いくつもの棺がどこまでも数え切れないほどに並んでいた。

「ねえアルミラ、この城の人たちはみんなここにある棺で寝てるの?」

私の質問にアルミラは首を振り「そうではない」と答えた。

私が棺のひとつに近付くと、埃まみれで気付かなかったがよく見れば棺には小窓が設けられていた。埃を払うとその向こうに美しい少女の顔が見えた。

「この棺にいるのは眠り姫たちだ」
「眠り姫?」
「そうだ。『あの方』に血を吸われて吸血鬼ヴァンパイアになるはずが、目覚めることなく眠り続けている姫たちのことだ」

100個以上はありそうな棺の群れを、私は改めて見渡す。

「このひとつひとつ、全部が…?みんな、どうして目覚めないのかしら」

アルミラは「それは…」と呟いて口をつぐんだ。
私は「何か知っているの?」とアルミラに向き直る。

「…あくまでも噂だが、眠り姫たちは『あの方』が片想いをした姫なのだそうだ」
「片想い?あのハルバラムが?」
「…そうだ。真偽のほどは定かではないが、吸血鬼ヴァンパイアが想いを寄せる相手に吸血した時、それが両想いなら問題ないが、もし吸血鬼ヴァンパイアの片想いの場合、血を吸われた者は吸血鬼ヴァンパイアとして目覚めることなく、さりとて人間として朽ち果てることもなく、ただ永遠に眠り続けてしまうのだそうだ」

私はもう一度、棺の小窓から覗く美しい少女の寝顔を見つめる。

「片想い……」
「…ああ、そう言われている」
「血を吸う前に誘惑魅了チャームをかけてもダメだったのかしら」
「らしいな、言うことは聞かせられても他に想い人がいたりすればその恋心そのものを消すようなことはできないようだ」
「要するにこれ全部、あのハルバラムの過去の失恋の証ってことよね」
「………まあ、そうなるな」

私は呆れ返ってため息をついた。

「いくら長生きだからって振られすぎでしょ」
「…そういうことを言うな、リリアス」

アルミラは戸惑う様子を見せたが私は構わず尋ねる。

「ところでこの眠り姫たちはどうしたら目が覚めるのかしら」

アルミラは何も答えず、しばらくうつむいて沈黙した。
私はアルミラが答えるのをじっと待った。

「……これも噂や伝説に過ぎないが、『眠り姫』に相思相愛の人間の血を飲ませれば人間として目覚め、相思相愛の吸血鬼ヴァンパイアの血を飲ませれば吸血鬼ヴァンパイアとして目覚めるのだそうだ」

相思相愛。
血を吸う者と吸われる者、お互いの気持ちが目覚めに関与するのか。

「だったらさっさとその相手を探し出して血を飲ませればいいじゃない」
「…もうほとんどが何百年も前で、この眠り姫たちの想い人はとっくにこの世にいないのだろう」
「ふうん、なるほどね」
「それに…」
「ん?」
「………いや、なんでもない」

アルミラは何か言いかけてやめたが、私はアルミラが言おうとしたことを何となくわかってしまった。自分が想いを寄せる姫を目覚めさせるために必要なものは少なくとも自分ではないのだ。きっとそのことが許せなくて姫の想い人を探さずにいるうちに時間が過ぎて打つ手はなくなり、とはいえ想いを寄せた姫を処分することもできずにいるのがこの結果ということなのだろう。

「…本当に女々しい男ね、ハルバラムは」

アルミラは何も答えなかった。

ところで、この棺の中で眠り続けている『眠り姫』たちは今、吸血鬼ヴァンパイアなのだろうか?
それとも人間?

この『眠り姫』たちは、相思相愛の人間の血を飲ませることさえできれば、人間として目覚めるのだという。

じゃあ、私は?

私は一体どうしたら人間に戻れる?

もしも私がここにいるような『眠り姫』だったら、愛し合う誰かの血を飲ませてもらうことで人間に戻れたということなのだろう。
でも私は、認めたくはないけれど、少なくとも身体は吸血鬼ヴァンパイアとしてこうして目覚めて活動している。

ということは私が両想いの誰かの血を吸ったとしても、二人仲良く吸血鬼ヴァンパイアとして永遠に愛し合えるというだけで、人間に戻れるということではないはずだ。

…永遠に愛し合える、か。悪くない、いや、けっこう素敵かもしれない。

でも、それでも私はもう、人間として誰かと一緒に普通にごはんを食べて普通に眠って、赤ちゃんをつくって一緒に育てて一緒に年老いていくということはできない…のかな。

「…リリアス、『あの方』を女々しいと言うくせに、なぜお前が泣いているんだ?」

アルミラにそう言われるまで、自分の頬に血の涙が流れていると、私は気が付かなかった。

「だって、私が人間に戻れる方法は…」

私が涙を拭いながらそう言いかけた時だった。

「安心なさ~い、リリアスちゃん。その方法、オネエサンが教えてあげるわ」

棺の群れの向こう、白い薔薇が生い茂る部屋の隅から、野太い男の声がした。
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