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第1章

9 侯爵令嬢は誘惑される

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「リリアスお前、よくそんなものが食えるな…」

ピレーヌの街の酒場でライ麦パンを頬張りながら鹿肉のシチューや分厚くカットされたベーコンやソーセージをむしゃむしゃと食べる私を見て、アルミラはそう言った。

「…ふぇ?ふぁんふぇ?」

私の横でローザが目をしかめる。

「リリアス様、口に食べ物を入れたままお話にならないでくださいまし…もう、それでも本当に侯爵令嬢なんですの?」

私は口いっぱいに詰まった食べ物をごっくんと飲み込む。喉が詰まりそうになって葡萄酒で一気に流し込む。確かにこの居酒屋の料理は普段おうちで出されていた凝った料理とは違うけれど、なんだか食材の味がそのまま感じられるようでとっても美味しくて、ついつい食べすぎてしまっている。

「…ちょっとローザ、イザベラみたいな、あ、うちの侍女長みたいなこと言わないでよ。もう別に王太子妃候補でも何でもないんだから別にいいでしょ」

ローザが頭を抱える。

「そうは言いましても、女性としてのマナーというものがありますわ…」
「…わかってるけど、本当はずっとこういうふうに食べたかったんだもん。それにおなかペコペコなんだから、ちょっとくらい大目に見てよね」

私はそれだけ言うと、再び食べ物を次々と口の中に放り込む。
せっかく処刑も生き延びて、いや、今の私は生きてると言っていいのかよくわからないけど、とりあえずこうして自由の身になったのだ。私は食べたいものを食べたいように食べたい。

しかしローザはあまり食事に手を付けていないようだし、アルミラにいたっては優雅に葡萄酒を飲むばかりで食べ物は一切口にしていなかった。

「二人とも、食べないの?」

私がそう聞くと、ローザとアルミラはほとんど同時にため息をついた。

「ちゃんといただいていますわ。リリアス様の召し上がるのが速すぎるだけですわ」
「アタシは酒だけでいい。というか本来、吸血鬼ヴァンパイアは普通の食事は受け付けん」

私はアルミラの発言に目を見開く。

「え?そうなの?」
「ああ、灰のような味しかしない。普通はな」

そう…なんだ。
私はその話を聞いて、料理を口に運ぶ手が止まる。

「私はちゃんと美味しいけど…でも、食べても食べても、ちっともおなかいっぱいにならないわ…」
「だろうな。血液しか糧にはならんはずだ」

ローザが私を悲しそうな目で見つめる。

でも私は人間の食事が無意味になって悲しいという気持ちよりも、《じゃあお菓子も食べ放題で太らないってこと?でも食べたものはどうやって出ていくのかしら?》なんて、はしたなく下品な考えが頭の半分以上を占めてしまっていたことは内緒。

アルミラが続ける。

「おそらく貴様は、人間と吸血鬼ヴァンパイアの間のような存在らしいな。今はまだそうなだけか、今後もずっとそうなのかは知らんが」

人間と吸血鬼ヴァンパイアの間。
それなら私は人間に戻りたい。(一度この体でお菓子の食べ放題を経験してから)
しかしアルミラの思惑は違うようだ。

「貴様には、イチから吸血鬼ヴァンパイアとしての教育が必要なようだな」

私は頬をふくらませる。これもイザベラからはよく叱られた仕草だけど。

「そんなのいらないわ。私、人間に戻りたいんだから」

アルミラはダン!とテーブルを叩いて言う。

「ふざけたことを言うな。『あの方』の血をいただくなど、千年生きても辿り着けない光栄なのだぞ」
「そんなの私に関係ないじゃない。そもそも『あの方』って誰なのよ」

アルミラは困ったように言葉を詰まらせる。

「…『あの方』は『あの方』だ。貴様に教えてやるにはまだ早い」
「何よそれ」
「いずれわかる。とにかく貴様には吸血鬼ヴァンパイアとしての基本を教えてやる。そのままでは『あの方』の前にお出しすることもできん。礼儀作法にしても人間の貴族としてだけでなく誇り高き吸血鬼ヴァンパイアとしても失格だ。それにな…」

アルミラが身を乗り出す。

「そのまま血を飲まなければ、貴様、死ぬぞ?」

吸血鬼ヴァンパイアになんかなりたくない。
でも死にたくもない。

もし、どちらかしか選べないとしたら、私、どうするの?


******


アルミラの『教育』とやらは、私たちの食事が一段落してから始まった。

「それにしても、この店には客がずいぶん少ないな」

確かに、まだ一日の終わりを告げる教会の鐘も鳴っていないはずなのに、しかももうすぐ聖マリエス様の降誕祭でどこの街も賑わっているはずなのに、ピレーヌの街を歩いている人は少なくて閉まっている店も多かったし、かろうじて開いていたこの居酒屋にいる客も私たちと数名くらいでほとんどの席が空いていた。

「まあ、そのほうが好都合ではあるがな」

アルミラがニヤリと微笑うと、鋭い犬歯が見えた。
そこに給仕の女性がやってくる。

「葡萄酒のおかわりはいかがですか?」

アルミラはそれを制するように片手を挙げた。

「いや、いいんだ。勘定を頼む」

給仕の女性が伝票を確認して料金を告げると、アルミラは懐の革袋から数枚の銅貨を取り出す。給仕の女性に手渡すと、そのままアルミラは彼女の手を握った。

「少し、酔いすぎてしまったかな。美しいあなたに」

そう言ってアルミラは給仕の女性の目を見つめた。
その光景を見て、私も思わず顔が熱くなる。ローザも両手で顔を覆っている。

「え…いえ……そんな………」

しどろもどろになる給仕の女性の手を引き寄せて、アルミラはその手の甲にキスをする。

「このあと、あなたの家にお伺いしても?」

給仕の女性は耳まで顔を真っ赤にして、呆然とした表情を浮かべている。

「はい…ぜひ………」

それを聞くと、アルミラは素早く立ち上がり店の出口へとツカツカと歩いていく。
私とローザも遅れてそれについていく。
給仕の女性はその場から一歩も動けずにただ立ち尽くしていた。


******


「今のが、誘惑魅了チャームだ」

店を出て夜の街を歩きながら、アルミラは言った。

「チャーム?」

私は聞いたことのない言葉に首をかしげたが、ローザが解説した。

誘惑魅了チャームは対象を誘惑し心を奪う魔術ですわ。サキュバスやラミアなど一部の魔物が使用し、人間でも使えるそうですが禁術扱いになっていますわ。濫用されれば社会が混乱してしまいますものね」

アルミラが振り返って目を見張る。

「ほう、よく知っているな」
「このくらいは基礎知識ですわ。第6学年で習いますもの。リリアス様も履修されているはずですわ」

ちらり、とローザが私を見て、私は思わず「う…」とたじろぐ。

「ででででも、あんなのただ甘い言葉でたぶらかしただけじゃない!」

私がそう言うとアルミラはバッと振り返り、近付いて私の目を覗き込む。

真っ白な肌に銀色の髪の中でそこだけ赤いアルミラの瞳。長い睫毛に縁取られた切れ長の目の中で、吸い込まれそうに透明で澄んだ瞳。鼻筋がスッと通っていて肌もすべすべで、唇は薄いけどツヤっとしていて滑らかで、よくよく見ればアルミラはとんでもない美人のお姉様だ。口調はぶっきらぼうだけどクールでかっこよくて強くてキレイなお姉様が私の瞳を見つめている。このままその瞳に吸い込まれてしまったら、きっと何もかも包まれて何も抵抗できないまま全部奪われて理性も常識も全部なくなって裸の本能だけになって快楽の中で私は………

誘惑魅了解除アンチチャーム

ハッ!と目を覚ますと私の頭にローザが手をかざしている。
ローザは唇を尖らせてなんだかちょっと不機嫌そうな顔をしている。

「…まったく、わたくしが誘惑魅了解除アンチチャームを使えなかったらどうするつもりだったのですか」

アルミラは「ふ」と鼻で笑ってから指先で私の顎をクイッと持ち上げた。

「その時は、アタシがたっぷり可愛がってやるつもりだったさ」

私は鼻先が触れるほどアルミラの顔が近いのに離れることができずにいた。
うう…!女の人なのに…!
きっと、誘惑魅了チャームの後遺症だと思う…きっと!

「アルミラ様!わたくしのリリアス様ですわ!」

ローザが割って入り、アルミラは少し離れて私を見据えた。

「今のが誘惑魅了チャームだ。わかったか」
「う、うん…わかったわ………」

そう言って胸に手を当てる私に気付いて、アルミラが言った。

「どうした?」

私は胸に当てた手をぎゅっと握って答える。

「なんだか、私の胸が高鳴ったような気がして…」

アルミラは背を向けて再び夜道を歩き出して言った。

「気のせいだ。吸血鬼ヴァンパイアに心臓の鼓動はない」
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