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第1章

7 侯爵令嬢は喉が渇いて仕方ない

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王都の中心街を出て半日くらいが経っただろうか。
血に染まるような夕焼けの中、馬車は王都の外れの農村へと差し掛かった。

ローザは『食料』と呼ばれて身を固くしている。

私は、そのローザから目を離すことができずにいた。

朝から何も食べていないし何も飲んでいないせいで、おなかも減っているし喉も乾いている。もっと正確に言えば、喉が焼け付くようにカラカラで、おなかは減っているのかそうでないのかよくわからない。とにかく、喉が渇いて喉が渇いて仕方がない。

きっと、そういうことなのだ。

吸血鬼ヴァンパイアになってしまった私は、きっとローザの血を飲みたくて仕方がないのだ。

目を伏せるローザの長い睫毛、柔らかそうな頬、ぷるんとして艷やかな唇、形の良い顎、その下の細くて透き通るように白い首筋、青く浮き出る血管、サラサラの長い金髪がかかる鎖骨、豊かな胸、細いけどもっちりしている二の腕、折れそうな腰、肉感たっぷりの腰回り、タイトなドレスに包まれたふともも。

私にそんな趣味はないはずなのにローザの女性らしい身体が気になって気になって仕方ない。
意味がわからないし自分で自分が気持ち悪すぎるけどきっとこれは吸血鬼ヴァンパイアとしての本能なのだ。

ダメ、絶対ダメ、そんなの。

よだれが出てしまいそうになるのを必死でこらえて飲み込む。
私の喉がゴクリと鳴るのが聞こえてしまいそうで、私は焦って取り繕う。

「ろ、ローザ!」

ローザはビクッとしてから「…は、はい」と答える。顔は正面を向いたままで私に目は合わせようとしない。そうして欲しい。きっと今の私は酷い顔をしている。

「あの、ローザは、どうして私についてこようと思ったの…?」

私はなるべく平静を保ちながらそう聞いたけれど、握り締めた拳はブルブルと震え、聞き終えてからはギリギリと歯を食いしばっている。ローザは前を向いたまま恐る恐る答えた。

「それは、リリアス様が吸血鬼ヴァンパイアから人間に戻る方法を一緒にお探ししようと…」
「で、でも私、来なくていいって言ったじゃない」
「…ええ、ですが、やはりわたくしもご一緒のほうが何かと良いかと」

私は一度ギュッと目をつぶってから思い切って言う。

「でも私、吸血鬼ヴァンパイアなのよ?」

ローザも私と同じように一度ギュッと目をつぶる。

「わ、わかっていますわ…」

少し荒れた道なのだろう、馬車がガタゴトと揺れる。その揺れで私は、私の身体がローザにぶつかったりしないように必死で耐えている。

「それなら、どうして…?だって、そもそもローザは私にいなくなって欲しかったんでしょう?」

ローザは沈黙し、馬車のガタゴトと揺れる音だけが響く。
少しの間を置いて、ローザは絞り出すように言った。

「わたくしたち、学園にいた頃、ほとんどお話したこと、ありませんでしたわよね…」

………?

私は、ローザの発言の意図がよくわからず首をかしげた。
ローザは私の返答を待たずに続ける。

「わたくしの家、お伝えした通り伯爵家とはいえ貧しくて、領地を担保に多額の借り入れをしていたのですが、その返済期限も迫っていて、あとは娼館に送られるか、どうにか王太子妃候補になるかしかなかったのですわ」

ローザが話したのは大体、私の予想通りの事情だった。

「それでなりふり構っていられず、王太子殿下に近付いて、そうしましたら殿下が仰ったのです。実はリリアス様との婚約は、王国の中で妙に力を持つエスパーダ家の落ち度をどうにか見つけて取り潰しに繋げるためのものだと。だから、わたくしがリリアス様の罪をでっち上げることができるなら、王太子妃候補にしてやってもいいと」

ああ、つまり、私とジェラルドの婚約は最初から仕組まれていたもので、ローザはそれに上手く利用された、ということだったのね。
ただ、一度処刑までされている私は多少は疑り深くなっていて《もしローザの言うことが本当ならばね》という注釈を心の中でつけている。

「お話したこともなかったリリアス様でしたので、正直に申し上げて、わたくし、何の罪悪感もなかったのです…。でも、今日、初めてちゃんとお話して、わたくし、なんと酷いことをしてしまったのだろうと………」

ローザの頬を涙が伝った。

「それに、先ほどリリアス様に注いでいただいた魔力が、悲しくて、切なくて、でも優しくて心地よくて、頭の中が真っ白になって………なぜか身も心も捧げようと、本当に心の底からそう思いましたの」

…それは、きっと吸血鬼ヴァンパイアの力による洗脳のようなものなのだろうと思う。けど、やっぱり私はまだ甘ったれたお嬢様なのかもしれない。ローザの言うことを信じ始めてしまっている。

ここでようやく、ローザが私のほうを向いた。

「ですので、わたくし、リリアス様になら殺されても、血を吸われても、何をされても構いません。本当に、わたくしはリリアス様の肉奴隷なのですわ」

そう言ってローザは私の右手を両手で掴んで、豊かな胸に沈めた。柔らかくて暖かい肉の感触の下にドクンドクンと、心臓の鼓動が響いている。

私は、脳が痺れたようになって、ローザの手を振り払うことができずにいた。

そればかりか、吐息を漏らすローザの艷やかな唇から目を離せず、ああ、この柔らかそうな唇と私の唇が重なってひとつになったら、一体どんな気持ちになるのだろう、なんて考え始めてしまっている。女の子同士だというのに。絶対にそんなことはいけないことで、神様の教えに反することだとわかっている。でもローザの唇は柔らかそうで溶けてしまいそうで、私がそれを舐めて噛んで一緒に溶け合ったらきっと何もかも忘れられて………

ガタンッ!

馬車が大きく揺れて、私とローザの身体が一瞬、宙に浮いた。

私は座席の中でどうにかバランスをとったが、気付けばローザの頭が私の胸の中で抱き締められている。ローザが顔を上げて唇を近付ける。

「…ダメッ!!!」

私は必死にローザを押しのけた。

「ダメよ!女の子同士でそんなこと!!」

ローザが目を潤わせて言う。

「では、せめてわたくしの血を飲んでくださいまし…」

私は、思わず身を乗り出しそうになるのを懸命にこらえる。

「それも、ダメ…!そんなことしたらもう、人間に戻れなくなっちゃう…!」

悲しそうな顔をするローザに、私は自分に言い聞かせるように言う。

「ねえローザ、あなた聖女でしょう?聖書にだって書いてあるわ。『人のいのちとは血である。ゆえに、誰もそれを飲んではならない。それを飲む者は必ず焼き払われなければならない』って。人間の血なんて飲むのも飲ませるのも、いけないことなのよ…!」

ローザも冷静さを取り戻したように答える。

「メタム記、第2章13節ですわね…。そう、ですわよね。いけませんわよね…」

車窓から見える田園風景は、夕暮れから夕闇に変わりつつあった。
夜が、やってこようとしていた。
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