七里圭のハイド学園事件簿

れん

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消えた楽譜

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 ペラ、ペラと紙をめくる音が人の少ない職員室に響く。音を立てているのは普遍的な見た目の男性教員、大橋朝日だ。
 大橋はハイド学園琵琶南中学校で英語を教えながら吹奏楽部の顧問をしている。今は部活で使用する楽譜のオリジナル版を整理しているところだ。この部内では部費で購入して部内で保管する楽譜をオリジナル版、それを複製して部員に配る楽譜をコピー版と読んでいる。次の依頼演奏に向けて練習する曲のコピー版を作ろうとオリジナル版を確認していたのだが、大橋は異変に気づいた。
「一枚足りない……?」
 打楽器パートのオリジナル版が一枚足りないのだ。足りない楽譜は鍵盤楽器のもので、三枚あるうちの二枚目がなくなっている。打楽器パートのメンバー達はアレンジが得意なので、差程重要なパートじゃなければ最悪は『アドリブで何とかしてくれ』も通用するかもしれない。しかしよりにもよってなくなったのはソロパート、それも音程やリズムがしっかりと決められている鍵盤だ。絶対になくすことができない。
「どこで無くした……?」
 もしかしたら、オリジナル版を打楽器パートに見せに行った時かもしれない。数日前の練習に印刷が間に合わなかったので、複製版を配る前に一度だけオリジナル版を渡したのだ。
「一度聞きに行くか」
 大橋は席を立ち、打楽器パートが練習しているであろう楽器庫前へと向かった。

 この中学校は少し変わった構造となっており、計五階建てとなっている。二階から四階に教室があり、一階が玄関、五階が礼拝堂となっている(言っていなかったが、ハイド学園はキリスト教系の私立だ)。そして職員室は二階に、楽器庫は五階の礼拝堂前にある。なので単純に楽器庫前まで行くのにも少し息が上がってしまう。もう少し体力を付けたいところだ。
 二階の廊下からも既に楽器の音は聞こえていたが、五階に近付くにつれて音は大きくなっていく。今はアンサンブルコンクールの練習も始まっているので迫力のある演奏を聴くことができる。
 大橋が五階に着くと、予想通り楽器庫前に打楽器がずらりと並べられている。廊下を塞いでしまっているので行き来は少し不便だが、放課後に礼拝堂に行く人はあまりいないので大丈夫だろう。
 大橋に気付いたパートリーダーの今田がドラムを叩く手を止め、こちらを見る。彼は打楽器パートのメンバーの中で一番ドラムが上手い。おまけに頭も良く、リーダーシップもあるため満場一致でパートリーダーに選ばれた。
「大橋先生、何か用ですか?」
「ああ、この前渡したオリジナル版が一枚足りなくてな。見てないか?」
「いや、ちゃんと枚数を確認して返したはずです」
「そうか……練習を止めて悪かったな」
 しっかり者の今田が言うのだからそうなのだろう。別の場所を探すかと大橋は元来た道を引き返した。

 しかしどこを探しても楽譜は見つからない。これがコピー版ならもう一度印刷するだけでよいのだが、なくなったのはオリジナル版。それも一枚だけで、先日部費を使って購入したばかりのまだコピーしていないものだ。なくしたなんて洒落にならない。
 部活が終わってからも諦めずに探し続けたが、楽譜は一向に見つからない。
「家に持って帰ったのか……?」
 家を捜索することにした大橋はバス停へと向かった。

 琵琶南中学校は正式名称を私立ハイド学園琵琶南中学校という。ハイドは学園の創立者であるヘンリー・ハイドの名前から取られている。元は琵琶南学園だったが昔創立五十周年を祝ってそう改名されたらしい。ハイド学園は幼稚園、小学校、中学校、そして高校からなり、そのうち小学校と中学校、高校は同じ敷地内に存在するのだ。
 学園の敷地内は中心の中庭を囲うように小学校の西館、中学校の南館、特別教室のある東館、そして北に位置する高校の本館となっている。他にも体育館やグラウンドなども存在するが、学生達は学校生活のほとんどをこれらのどこかで過ごしている。南館から校門前にあるバス停行くには東館の前を通るのが一番早いというのが生徒達の見解なので、大橋もそれに倣っている。
 東館の一階にはメディア教室と音楽室がある。音楽室はまだ明るい。どうやら中に人がいるようだ。そちらの方を見ていると、その音楽室から歌声が聞こえてきた。窓から覗き込むと、茶髪の男性が歌を歌っている。制服を着ていないのでおそらく教師だろう。しかし大橋が知る限り、あのような教師は中学校にはいない。おそらく高校か小学校の教師だろう。
 男性の歌は二番に差し掛かる。この歌は確か今週の礼拝で歌われる讃美歌だったはずだ。その力強くも優しいテノールボイスから放たれる讃美歌は普段生徒達の歌声で聴くそれとは全く違った歌に聞こえる。そう感じてしまうほどあの男性の歌唱力は高かった。
 二、三分ほどあるはずの賛美歌があっという間に終わりを迎えると、男性は大橋の覗く窓に近づいてきた。そして、窓をガラリと開けて大橋に顔を近づけた。彼の黒く大きい目が大橋を見つめる。
「こんばんは。僕に何か御用ですか?」
「あ、いえ……」
 あなたの歌に聞き惚れていました、とはなんとなく言いづらい。大橋が言葉に困っていると、再び男性が口を開いた。
「もしかして、中学校の先生じゃないですか?吹奏楽部の」
「何でわかったんですか?」
「この前中学校の吹奏楽部さん達が中庭で演奏をしてた時に見かけたんです。あの時、指揮をしていたでしょう?」
「ええ、まあ」
 演奏をする学生達が注目されることはあるが、まさか指揮をする自分を見られているとは思わなかった。経験のないことだったので大橋は少し照れる。
「僕も指揮をするので、参考にさせていただくこともあるんです」
「あなたも?」
「ああ、すみません。まだ名乗っていませんでしたね。僕は七里圭(シチリケイ)。小学校で教諭をしながら高校の合唱部の指導も兼任しているんです」
 琵琶南高校は合唱部の強豪校としても知られ、毎年コンクールに出ては全国大会まで勝ち進んでいる。そんな部活をこのほんわかとした雰囲気の教師が引っ張っているのかと大橋は驚いた。もっと目の細い、厳しそうな老人を想像していたからだ。
「ところで、何か悩み事ですか?」
「え、どうしてわかったんですか?」
 心を見透かされたような感覚に大橋は戸惑う。それがおかしかったのか、七里はくすくすと笑った。
「歌う僕を見る顔に書いてましたよ。僕は今困ってるんだって」
「そんなにわかりやすかったですか……?」
 大橋は顔を触るが、もちろん何もない。
「時間があるなら中に入りますか?よかったら話を聞かせてください」
 ちょうどその瞬間、エンジン音が聞こえてきた。バス停に止まっていたバスが発車したのだ。次のバスが来るまであと三十分はあるだろう。
「なら、お言葉に甘えて」
 寒い外でバスを待つくらいなら、それなりに暖かい音楽室の中で愚痴を聞いてもらう方がいいと判断し、大橋は音楽室の中に入っていった。

「なるほど……たしかに奇妙な話ですね」
 一通り話を聞くと、七里は楽しそうに目を細めた。
「いや、ただ俺が置いた場所を忘れただけだと思うんですけど」
「わからないですよ。何らかの事情があって生徒さん達が隠しているのかもしれない」
「事情って、なんですか?」
「うーん……例えば、大橋先生に見られたくないような状態になったとか?」
「見られたくない……汚してしまった、とかですかね?」
「そうそう」
 七里は首を縦に振る。相変わらず顔は笑みを浮かべている。まるでゲームをしている少年のようだ。
「大橋先生、もしかしたらこれはミステリーかもしれませんよ」
「ミステリーって……大袈裟ですよ」
「わかりませんよ。フーダニット、誰が楽譜を隠したのか。話を聞いている限り、容疑者は吹奏楽部の部員さん達ですかね」
「その容疑者リストの中に俺が入ってることも忘れないでくださいよ」
「ええ、もちろん」
 七里は壁にかかったカレンダーに目をやった。今日は金曜日なので明日は学校が休みだ。
「明日も吹奏楽部は練習があるんですか?」
「ええ。コンクールもありますしね」
「なら、よかったら練習の様子を見学させて頂けませんか?」
「え?」
「無理にとは言いません。ただ、僕も一度現場を見てみたいので」
 そこまで言うと、七里はへらりと表情を崩した。
「……という僕の好奇心もありますが、吹奏楽部の雰囲気を知りたいんです。来年中学校に上がる子達の中に吹奏楽部に興味のある子がいるみたいで、どんな場所なのか知りたがってるんですよ」
 お願いできませんか?と頭を下げる七里の表情はたしかに教師の顔だった。
「……分かりました。少し調整してみますね」
「ありがとうございます!」
 その後も七里と雑談を交わしていた。時計を見ると、既に先程から二十分程経っていた。
「そろそろ行きます」
「わかりました。明日はよろしくお願いします」
 大橋はお辞儀だけして音楽室を出ていった。


 次の日、約束通り七里は吹奏楽部の練習を見学しに南館へとやってきた。
「生徒達の練習を邪魔するようなことはしないでくださいね」
「ええ、もちろん」
 大橋は七里を連れ、部員の練習する様子を見て回った。フルート、トランペット、サックス……どの部員達も楽器を構え、一心不乱に音楽を奏でていた。それを見ていた七里は、音楽に合わせて身体をゆらゆらと揺らしていた。まるでコンサートを楽しんでいる観客のようだった。
「今日は合奏をするので打楽器は音楽室に下ろしています。もう見に行きますか?」
 打楽器パートの練習場所以外を一通り見て回った後、大橋はそう提案した。
「いえ、まずはいつも練習している場所を見に行きたいです」
「分かりました」
 階段を使って五階へと向かう。大橋は軽く息切れを起こしていたが、七里は息を乱すことなく平気な顔をしていた。
「すごいですね……疲れないんですか?」
「いつも元気な子達を相手にしているんで」
「なるほど……」
 たしかに中学校と違って小学生は元気にグラウンドを走り回る。追いかける教師は相当大変だろう。ある程度息を整えた後、二人は楽器庫の中に入った。
 大きな打楽器のほとんどが出払っており、楽器庫の中はいつもよりも広く感じた。
「すごい、ほとんど楽器が残っていない。まさか全て人力で?」
「ええ。エレベーターを使うこともあるけど、ほとんどは中に入りきらないので」
「なるほど……たしかにこれは鍛えられそうですね」
 七里は奥に設置された棚の方へと近づいた。そこには歴代のコンクール結果や集合写真が飾られている。今までの最高記録は数年前の県大会で取った金賞だ。しかし、所謂ダメ金と言われるやつで、地方大会に進むことはできなかった。
 奥の方には過去に演奏した楽譜もここに置いてある。それらは全てOB達が持って帰るのを忘れたものだ。七里はその中の数枚を手に取った。
「吹奏楽部って讃美歌を演奏することもあるんですね」
「クリスマスの点灯式などで演奏する機会があるんです。今年も演奏する予定なんですよ」
「へえ、僕も聞きに行こうかな」
 口を動かしながらも七里は手を動かす。楽譜の束を一枚一枚めくり、中に例の楽譜が紛れていないか探しているのだ。
「うーん……この中にはなさそうですね」
「楽器庫の中は昨日探しました。それでも見つからなかったので、おそらくここにはないのかと」
「なるほど。それならもう打楽器の練習風景を見学しに行こうかな」
「分かりました。行きましょう」
 そう言って大橋はエレベーターの方へ向かおうとした。しかし七里は反対方向にある階段の方へと向かう。
「……七里先生、お帰りも階段で?」
「ええ、もちろん」
 あからさまに嫌そうな顔をする大橋を見て、七里は再びくすくすと笑った。
「ふふ、下りなので行きと比べればマシだと思いますよ」

 大きな打楽器を中に入れるため、音楽室はいつもとは全く違う姿になっていた。机は端の方へと寄せられており、いつも机が並べられている場所には打楽器が設置されていた。担当楽器を話し合っていたのか、黒板には楽器名や部員の名前が書かれている。
 音楽室に二人がついた時には昼休みが始まっており、メンバー達は各自ご飯を食べたり勉強をしていた。
「実は、吹奏楽部に興味を持っている子が一番気になっているのが打楽器らしいんですよ。たしかに迫力があってかっこいいなあ」
 七里の目線の先には鍵盤楽器やドラムセットがある。それらは窓から差し込む日光を反射してキラキラと光っている。
 部屋の端の方では打楽器パートの部員達が昼食をとっている。机を使えばいいのに、彼らは何故かいつも地べたに座って休み時間を過ごしている。
「机は使わないんですか?こんな体勢では飲み物をこぼしてしまうかもしれない」
 一年生の橋本は頬張っていたおにぎりを飲み込んで七里の方を見た。
「だって、出した机をもう一度片付けるの面倒くさいじゃないですか」
 七里のことは始まる前に紹介していたので、驚いた様子はない。橋本以外は気にすることなく各々のやるべきことを行なっている。
 パートリーダーの今田はドラムセットの椅子に座って合奏で演奏する曲の確認をしているし、グロッケンの下の方では、橋本の先輩である村木が背を丸めて数学のテキストを開いていた。その近くには国語や理科のテキストも積まれている。おそらく終わったものか、これから取り組むものなのだろう。
「村木、英語の課題は終わったのか?」
「ええ、なんとか」
 村木は部活には熱心だが勉強に関しては重度のサボり癖があり、よく課題の出し忘れで部活禁止令を食らっている。おまけによく教科書などもなくしてしまうので目も当てられない。英語の課題というのも本来は昨日が提出期限のものだ。
「今持ってるなら預かっておこうか?」
「はい、お願いします」
 村木はカバンから英語のノートを出すと、それを大橋に手渡した。そのノートの表紙には大きな茶色のシミが付いている。数日前授業で見た時にはこんなものはついていなかった。
「どうしたんだ、この汚れ」
「ああ、お茶をこぼしちゃったんです。恥ずかしいんであんまり見ないでください」
「分かった。来週の授業には返すからな」
「お願いします」
 大橋が受け取ったそのノートを、七里は何も言わずにじっと見つめていた。

 お昼休みが終了した後、練習が再開された。各パートのアンサンブルや全員が集合した合奏曲を聴いて七里は大満足したようだ。
「やっぱり吹奏楽ってすごいですね。音量も迫力も全然違う」
「気に入ってもらえたようでよかったです。来年入学してくる子によろしく伝えておいてくださいね」
「ええ、もちろん」
 バス停で二人並び、駅行きのバスを待つ。そこで七里は思い出したようにあっと声を出した。
「大橋先生、さっき村木さんのノートを見せてもらえませんか?」
「え?でもこれは……」
「中身は見ません。表紙だけでいいんです。ダメですかね?」
「まあ、それくらいなら」
 そう言って大橋は村木から受け取ったノートを取り出した。表紙にはやはり茶色いシミが付いている。
「大橋先生、村木さんは何年生ですか?」
「二年生です。俺が担任を持っています」
「なら、村木さん達の今週が期限だった提出物とかって分かりますか?」
「えっと……今週は英語のノートだけだったと思います。ただ来週は結構あるみたいですね。昼休みに村木がやっていた数学のテキストもその一つだったはず」
「分かりました。じゃあ、最後にこのノートを見た授業はいつですか?」
「今週の月曜日の授業です」
「だいぶ日が空きましたね」
「本当は水曜日にも授業があったんですけど、祝日だったんです」
「その日も練習を?」
「ええ。一日練でした」
「ということは、打楽器パートさんは音楽室練習でしたか?」
「そうでしたね」
「なるほど。じゃあ、例の楽譜を部員さんに渡したのは?」
「その水曜日です。金曜日に印刷しようと確認して、ようやく一枚足りないことに気づいたんです」
「なるほど……」
 七里は左手を頬に当て、目を閉じて考え込んだ。
「あの、何か気になることでも?」
「ええ。大橋先生、ノートのシミを見てください。お茶をこぼした時、上に何かが置かれていたような跡があります」
 たしかに七里の言う通り、シミの右上の方だけ不自然にお茶を被っていない部分がある。その部分は斜めにした長方形の左下の角の部分のような形をしている。
「初めは課題中にお茶をこぼしたのかな?なんて考えていたんですけど、おそらく違うと思われます」
「なぜですか?」
「開いた状態ではこぼしたお茶によってここにシミを作ることはできません。かといって閉じた状態でノート作成ができるわけもないですしね」
「たしかに……」
 七里は一度唇を舐め、そして再び話し始める。
「村木さんは自分の課題を積み上げる癖があるみたいなんです。お昼休みの際もたくさんのテキストを積み上げていましたね」
「なら、その跡も課題が上に乗っていただけでは?」
「先程今週の課題は英語だけだったと言いましたよね?なら、他に急いで取り組む必要のある課題はなかったはず。なので積まれていたのは課題関連ではないと思います。どうも見ていると村木さんは締切が先の課題を溜め込んじゃう性格みたいですしね」
「なんで分かるんですか?」
「実は村木さん、大橋先生に見えないようにこっそり数学の答えを写していたんです。ああいうことをするのは本当に数学が嫌いなのか、課題を溜め込みすぎて慌てている生徒くらいですからね」
 おそらく今日やっていた課題の量的に後者かと、と七里は付け加える。そこまで見ていたのかと大橋は思わず感心した。
「つまり、そのノートの上に乗っていたのはテキストやノート関連以外の何か」
 七里は自身のバッグを漁りながら続けた。
「これは僕の予想でしかないですが、村木さんは水曜日の部活中にお茶をこぼしたのではないでしょうか。それも、お昼休み中に」
「と言いますと?」
「先程部員さんの楽譜を見ていると、一枚A4サイズで印刷されているようでした」
「ええ、いつもオリジナル版に合わせてその大きさで印刷しています」
 ようやく探し物が見つかったのか、七里はバッグから手を引き抜いた。その手には普段授業で使っているノートよりも少し大きめのサイズのものがあった。
「ちょうど、ここにA4サイズのノートがあります。これをその跡に重ねてみますね」
 そう言って七里はお茶を被っていない部分にノートを被せた。すると、ノートの左下がピッタリとあてはまった。
「おお……」
「これによって、お茶を被った時にこのノートの上にはA4サイズの何かが置かれていたことが分かりました」
「ということは……」
「仮にこの予想が全て当たっていた場合、例の楽譜はお茶を被ってしまい読めないような状態になっていると思われますね。水曜日のお昼休み、いつものようにその場に座ってお昼ご飯を食べていた打楽器パートさん達は、何らかの強い衝撃を立ててしまった。その衝撃でたまたま開けていた水筒を倒してしまい、ノートの上に乗せていた楽譜にお茶をこぼしてしまった……」
 そこまで言うと、七里は先程のように眉をやや八の字にしてにっこりと笑った。
「もっとも、この予想にはほとんど証拠がありません。お茶は今日こぼしたばかりだったかもしれないし、ノートの上に乗っていたものだって本当に課題のテキストだったかもしれない」
「でも、聞いてみる価値はあります。早速明日聞いてみようと思います」
「お役に立てたなら何よりです」
 ちょうどバスがバス停に止まった。二人はICカードを取り出し、バスへと乗り込んで行った。

 七里の予想は的中しており、やはり打楽器パートの三人がお茶に濡れたオリジナル版を隠し持っていた。
 大橋が三人に三枚のオリジナル版を渡したのはちょうど村木が課題を終わらせた時だった。ドラムの楽譜を今田、小物の楽譜を橋本、そして鍵盤の楽譜を村木が受け取った。用事があるからと村木はその楽譜をノートの上に置き、音楽室の外へと出ていった。残された二人は各々昼休みを自由に過ごしていた。今田は受け取った楽譜を見ながらドラムを叩き、橋本はお茶を飲みながら楽譜を読み込んでいた。事件が起こったのはそのタイミングだ。
 今田が振りかぶったドラムスティックは突然彼の手から抜け出し、橋本の頭にぶつかった。その衝撃で中に入っていたお茶が大きく波打って楽譜にかかってしまったそうだ。
 わざとではないとはいえ、怒られてしまうだろう。そう考えた今田は二人に楽譜を隠そうと言い出したのだった。
 そして他の楽譜をまとめ、まるで楽譜が全て揃っているかのように大橋に提出した。その場で確認しなかった大橋は、その事に気が付けなかったのだ。
 隠蔽こそしたものの事故であったこと、そして正直に白状したことから三人はお咎めなしとなった。なんやかんやお世話になったため、大橋は七里にそのことを報告するため再び音楽室にやってきた。
「……ということで、七里先生の言うとおりあの三人が隠していました」
「案外あっさりした事件でしたね。もっと手強くてもよかったのに」
「ミステリー小説の読み過ぎですよ。現実なんてこんなものだ」
 七里は残念そうな、それでいてどこか安心したような顔をしていた。
「ところで、そのお茶まみれになった楽譜はどうするんですか?」
「とりあえずは他の紙に書き写して使うことにします」
「なるほど」
 七里は納得したように頷いた。
「……まあ、あの三人に処分が下されなくてよかった。あの時は容疑者なんて言っちゃったけど、三人とも大橋先生の大事な生徒さんですもんね」
「ええ、まったく」
 七里は立ち上がり、明日の授業で使うらしい資料をまとめながらこう言った。
「また事件が起こったら教えてください。いつだって手を貸しますよ」
 大橋は苦笑した。
「まったく……もう当分はいいです。事件はフィクションの中だけで十分だ」
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