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私が彼に惹かれたのは、たった一言でした――
チャリン。
小銭の落ちる音に思わず目を向ける。
そんな自分を少しばかり情けなく思いながら、しかし目は転がる百円玉を目で追っていた。
百円玉は今風の若い男の人の足先から五センチくらい離れたところで、歪な螺旋を描きながら、けれど止まる前に一つの手がその動きを遮った。
と、次の瞬間、私の目は百円玉を離れ手の持ち主を見ていた。
「すみません」
たった、一言。
けれど、その言葉は何かの呪文のように私を惹きつけた。
百円玉は若者の足に当たらなかったし、若者は無反応で、避けてくれたわけでも拾おうとしてくれた訳でもなかった。
それでも、その人は当たり前のように言ったのだ、「すみません」と。
当たり前かもしれなかった。自分だってきっと同じことを言えると思った。
それでも、そういう「当たり前」がそうでなくなっている現代で、彼の一言は私の心によく響いた。
あるいは、私がその日、ひどく沈んでいたせいかもしれなかった。
毎週二回、可燃ゴミの日、自転車で三十分くらいのところまでアルバイトに行っていた。 中学三年生の女の子の家へ、家庭教師として。もう随分長くて、一年と半分くらいになるだろうか。
実花ちゃん、というその子は、とても素直で頑張り屋さんなのに、どうしても数学の成績だけが上がらなかった。いや、確実に上がってはいたのだが、どうしても図形の証明問題だけは解けなくて、証明問題が出るとその設問一つ分、まるまる点を落としてしまうのだ。
図形問題には、閃きとか視点の転換とか、数学的センスとか、どうしてもそういう要素が必要になってくる。補助線が一本引けないだけで、問題は解けない。殊に証明問題は定理や定石だけで解けるものではない。
けれど、総合成績は志望校のボーダーを優に越えていたため、私はあまり気に留めていなかった。
それが悪かったのだ、たぶん。
高校入試まで一週間となった今日、いつもの通り七時に家を訪ね、模擬試験をさせていたら、突然実花ちゃんが泣き出してしまった。いや、きっと実花ちゃんにとっては突然でもなんでもなく、入試のプレッシャーと相まって大きな不安材料になっていたのだろう。
それに気付けなかった自分が情けなくて、こんなことでお金なんて貰っている自分がひどい詐欺師みたいな気がして、それ以上に点数ばかりを気にしていた自分が酷く醜く思えて、私はその日、ものすごく沈んでいた。
そんな時に聞いたのだ、百円玉の転がる音と、暖かい「すみません」を。
それからその人はなんでもない顔をして立ち上がり、レジを後にして出て行った。
それに促されるように好物のするめと夜食の大根サラダを手にレジへ向い、そして私もコンビニを後にした。
残り一回のアルバイトの為に、自分ができることを考えながら。
三日後、私は同じコンビニにいて、実花ちゃんの笑顔を思い出していた。
今日は勉強はしなかった。ただ、今までにないくらいたくさんの話をした。
これまでどれだけ実花ちゃんが頑張ってきて、実花ちゃんの成績がどれだけ上がったのか。 私が実花ちゃんくらいの時にどのくらい頭が悪くて、どのくらい根拠の無い自信を持って受験に臨んだのか。
そして、実花ちゃんの笑顔が、どれだけ素敵で、どれだけ強いものなのか。
実花ちゃんの笑顔を思い出しながら、「すみません」の彼を思い出した。
なんとなく、今日は彼に会いたかった。 会ったからって、話し掛ける言葉もないけれど、ただ、彼にもう一度会ってみたかった。
会える保障なんて無い。
それでも、なぜか会えるような気がして、漫画を立ち読みしながらそこに居た。
けれど、月刊誌を一冊丸々読み終えても彼は現れてくれなくて、私はアップルティーとやっぱり夜食のサラダを手にレジへと向った。
「お会計283円になります。わりばしはお付けしましょうか?」
いいです、と一言断って財布を取り出す。財布の口がきちんと閉まっていなかったらしく、(あっ)と思った瞬間、大きな音を立てて小銭をばら撒いてしまった。真っ赤になりながらしゃがみこんで拾っていると視界に綺麗な、しかし男の人のそれと判る手が映った。
とっさに顔をあげて「すみません」と言う、つもりだったが、しかし、発せられた言葉は最後の一字が足りず、代わりに出た言葉は「あ」だった。
「これで全部かな」
彼はひとり言とも確認ともつかない言葉を発し、私に拾った小銭を渡してくれた。見覚えのある彼に動揺しながら、小銭を受け取り、財布を覗く。「ありがとうございます」と言おうとして出た言葉は、また違っていた。
「カメ……」
「へ?」
「あ、すみません。 1センチくらいの金の亀を一緒に入れていたんですけど、一緒に落としてしまったみたいで」
「あのぅ……大丈夫ですか? お会計283円になりますが……」
レジのバイトらしき男の子が困った顔をしているのを見て、立ち上がってお金を払う。 いつもの習慣でにっこり笑って「ありがとうございました」と店員に声を掛けて商品の袋とおつりを受け取る。後に並ぶ人の邪魔にならないようにレジから2,3歩離れようと視線を他所へ移すと、さっき拾うのを手伝ってくれた彼が、3日前の「すみません」の彼が、まだしゃがみこんで探していた。
恐らく、私の亀を。
「あの、もういいですから」
そう言おうとして、もう何度目かで、最後まで発することはできなかった。
「あ、これですか?」
何かを見つけた子どものように無邪気な笑みを浮かべてそういうと、彼は酒のつまみの並ぶ棚の下に手を差し入れた。知らず、私も身体を斜めにして覗き込む。
彼は、黒く汚れてしまった手を気にも留めない様子で私に亀を差し出した。 よく見ると、しっかりとアイロンのかかったスーツも所々汚れてしまっている。
「あのっ、ありがとうございました! すみません、洋服まで汚させてしまって……」
言われて初めて気が付いたのか、軽く手で払いながら「よかったですね、見つかって」と爽やかに笑い、「じゃ」と私がいくらか前まで立ち読みをしていた場所へと歩いていった。
(こんな偶然って……)
信じられない思いで亀を手に外へ出た私に、しかし偶然は終わらなかった。
(あれ? 鍵……)
自転車の鍵が見つからない。焦ってポケットや鞄を探ってみるが、どうしてもない。仕方なくもう一度コンビニに入り探すことを決めた。
「本当にありがとうございました」
「いや、気にしないで。これも何かの縁だからさ」
「あの、気を付けて帰ってくださいね」
そう言って車のドアを閉める。
結局、自転車の鍵が見つからなくて、タクシーでも呼ぼうかと思っていたら彼―― 井上勤さんが車で送ってくれたのだった。
話をしてみると意外に同い年で、「ようやく社会人1年生が終わりなんだ」と言っていた。 高校の頃に弓道をしていたというから、ひょっとしたら試合で会っていたのかもしれなかったが、私はあんまり強くなかったのでよくわからなかった。
「ただいま」
楽しかった時間を思い出して顔がふにゃっとなってくるのをどうにか戻しながら玄関のドアを開ける。 私は自宅生なのだ。 おかげで大学までの通学距離が長くて苦労している。
「おかえり。さっき外で車の音しなかった?」
「うん、自転車の鍵なくしちゃって、親切な男の人に送ってもらったの」
「はぁ? それで、自転車は? ちゃんと連絡先は聞いたの?」
「あ。」
「お礼できないでしょう、それじゃ……」
「でも、会社の名刺は……」
小言を言われながら、しかしよくよく考えてみると母親の発言としてはちょっと間違っている気がして、
「ねぇ、心配とかそういうのは無いの?」
と聞いてみたが、どうもその辺りは彼女の念頭にはないらしかった。
チャリン。
小銭の落ちる音に思わず目を向ける。
そんな自分を少しばかり情けなく思いながら、しかし目は転がる百円玉を目で追っていた。
百円玉は今風の若い男の人の足先から五センチくらい離れたところで、歪な螺旋を描きながら、けれど止まる前に一つの手がその動きを遮った。
と、次の瞬間、私の目は百円玉を離れ手の持ち主を見ていた。
「すみません」
たった、一言。
けれど、その言葉は何かの呪文のように私を惹きつけた。
百円玉は若者の足に当たらなかったし、若者は無反応で、避けてくれたわけでも拾おうとしてくれた訳でもなかった。
それでも、その人は当たり前のように言ったのだ、「すみません」と。
当たり前かもしれなかった。自分だってきっと同じことを言えると思った。
それでも、そういう「当たり前」がそうでなくなっている現代で、彼の一言は私の心によく響いた。
あるいは、私がその日、ひどく沈んでいたせいかもしれなかった。
毎週二回、可燃ゴミの日、自転車で三十分くらいのところまでアルバイトに行っていた。 中学三年生の女の子の家へ、家庭教師として。もう随分長くて、一年と半分くらいになるだろうか。
実花ちゃん、というその子は、とても素直で頑張り屋さんなのに、どうしても数学の成績だけが上がらなかった。いや、確実に上がってはいたのだが、どうしても図形の証明問題だけは解けなくて、証明問題が出るとその設問一つ分、まるまる点を落としてしまうのだ。
図形問題には、閃きとか視点の転換とか、数学的センスとか、どうしてもそういう要素が必要になってくる。補助線が一本引けないだけで、問題は解けない。殊に証明問題は定理や定石だけで解けるものではない。
けれど、総合成績は志望校のボーダーを優に越えていたため、私はあまり気に留めていなかった。
それが悪かったのだ、たぶん。
高校入試まで一週間となった今日、いつもの通り七時に家を訪ね、模擬試験をさせていたら、突然実花ちゃんが泣き出してしまった。いや、きっと実花ちゃんにとっては突然でもなんでもなく、入試のプレッシャーと相まって大きな不安材料になっていたのだろう。
それに気付けなかった自分が情けなくて、こんなことでお金なんて貰っている自分がひどい詐欺師みたいな気がして、それ以上に点数ばかりを気にしていた自分が酷く醜く思えて、私はその日、ものすごく沈んでいた。
そんな時に聞いたのだ、百円玉の転がる音と、暖かい「すみません」を。
それからその人はなんでもない顔をして立ち上がり、レジを後にして出て行った。
それに促されるように好物のするめと夜食の大根サラダを手にレジへ向い、そして私もコンビニを後にした。
残り一回のアルバイトの為に、自分ができることを考えながら。
三日後、私は同じコンビニにいて、実花ちゃんの笑顔を思い出していた。
今日は勉強はしなかった。ただ、今までにないくらいたくさんの話をした。
これまでどれだけ実花ちゃんが頑張ってきて、実花ちゃんの成績がどれだけ上がったのか。 私が実花ちゃんくらいの時にどのくらい頭が悪くて、どのくらい根拠の無い自信を持って受験に臨んだのか。
そして、実花ちゃんの笑顔が、どれだけ素敵で、どれだけ強いものなのか。
実花ちゃんの笑顔を思い出しながら、「すみません」の彼を思い出した。
なんとなく、今日は彼に会いたかった。 会ったからって、話し掛ける言葉もないけれど、ただ、彼にもう一度会ってみたかった。
会える保障なんて無い。
それでも、なぜか会えるような気がして、漫画を立ち読みしながらそこに居た。
けれど、月刊誌を一冊丸々読み終えても彼は現れてくれなくて、私はアップルティーとやっぱり夜食のサラダを手にレジへと向った。
「お会計283円になります。わりばしはお付けしましょうか?」
いいです、と一言断って財布を取り出す。財布の口がきちんと閉まっていなかったらしく、(あっ)と思った瞬間、大きな音を立てて小銭をばら撒いてしまった。真っ赤になりながらしゃがみこんで拾っていると視界に綺麗な、しかし男の人のそれと判る手が映った。
とっさに顔をあげて「すみません」と言う、つもりだったが、しかし、発せられた言葉は最後の一字が足りず、代わりに出た言葉は「あ」だった。
「これで全部かな」
彼はひとり言とも確認ともつかない言葉を発し、私に拾った小銭を渡してくれた。見覚えのある彼に動揺しながら、小銭を受け取り、財布を覗く。「ありがとうございます」と言おうとして出た言葉は、また違っていた。
「カメ……」
「へ?」
「あ、すみません。 1センチくらいの金の亀を一緒に入れていたんですけど、一緒に落としてしまったみたいで」
「あのぅ……大丈夫ですか? お会計283円になりますが……」
レジのバイトらしき男の子が困った顔をしているのを見て、立ち上がってお金を払う。 いつもの習慣でにっこり笑って「ありがとうございました」と店員に声を掛けて商品の袋とおつりを受け取る。後に並ぶ人の邪魔にならないようにレジから2,3歩離れようと視線を他所へ移すと、さっき拾うのを手伝ってくれた彼が、3日前の「すみません」の彼が、まだしゃがみこんで探していた。
恐らく、私の亀を。
「あの、もういいですから」
そう言おうとして、もう何度目かで、最後まで発することはできなかった。
「あ、これですか?」
何かを見つけた子どものように無邪気な笑みを浮かべてそういうと、彼は酒のつまみの並ぶ棚の下に手を差し入れた。知らず、私も身体を斜めにして覗き込む。
彼は、黒く汚れてしまった手を気にも留めない様子で私に亀を差し出した。 よく見ると、しっかりとアイロンのかかったスーツも所々汚れてしまっている。
「あのっ、ありがとうございました! すみません、洋服まで汚させてしまって……」
言われて初めて気が付いたのか、軽く手で払いながら「よかったですね、見つかって」と爽やかに笑い、「じゃ」と私がいくらか前まで立ち読みをしていた場所へと歩いていった。
(こんな偶然って……)
信じられない思いで亀を手に外へ出た私に、しかし偶然は終わらなかった。
(あれ? 鍵……)
自転車の鍵が見つからない。焦ってポケットや鞄を探ってみるが、どうしてもない。仕方なくもう一度コンビニに入り探すことを決めた。
「本当にありがとうございました」
「いや、気にしないで。これも何かの縁だからさ」
「あの、気を付けて帰ってくださいね」
そう言って車のドアを閉める。
結局、自転車の鍵が見つからなくて、タクシーでも呼ぼうかと思っていたら彼―― 井上勤さんが車で送ってくれたのだった。
話をしてみると意外に同い年で、「ようやく社会人1年生が終わりなんだ」と言っていた。 高校の頃に弓道をしていたというから、ひょっとしたら試合で会っていたのかもしれなかったが、私はあんまり強くなかったのでよくわからなかった。
「ただいま」
楽しかった時間を思い出して顔がふにゃっとなってくるのをどうにか戻しながら玄関のドアを開ける。 私は自宅生なのだ。 おかげで大学までの通学距離が長くて苦労している。
「おかえり。さっき外で車の音しなかった?」
「うん、自転車の鍵なくしちゃって、親切な男の人に送ってもらったの」
「はぁ? それで、自転車は? ちゃんと連絡先は聞いたの?」
「あ。」
「お礼できないでしょう、それじゃ……」
「でも、会社の名刺は……」
小言を言われながら、しかしよくよく考えてみると母親の発言としてはちょっと間違っている気がして、
「ねぇ、心配とかそういうのは無いの?」
と聞いてみたが、どうもその辺りは彼女の念頭にはないらしかった。
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