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向けられた好意
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「あれ? 今日はお弁当じゃないんですか?」
雪史にそう声を掛けたのは、先週ずっと一緒に昼食をとっていた赤理さんだ。息子のお下がりなのか、戦隊モノのお弁当袋を下げている。
「ああ、うん。今日は外食」
雪史は、事務室兼休憩室の奥にあるロッカーに、脱いだ制服のベストをしまって財布を手にしたところだった。
制服のままで図書館内にいると、目立つし利用者に声を掛けられることも多いので、休憩中はベストを脱ぐことにしていた。
もっとも、先週は休憩も休憩室内だったので、この手順も一週間ぶりだったが。
「お嫁さんに逃げられちゃったんですか?」
「黒嵜君はいつから僕の嫁になったのかな」
ははは、と笑いながら手を振って部屋を出たものの、雪史はどうにも居心地の悪いものを感じていた。
冗談というものは、事実無根でなければ到底笑えるものではない。
つい四日前の話だ。
いつもどおりだったはずの金曜日、なんとなく様子のおかしい一鷹に、雪史はふと自分のことが好きなのかと尋ねてしまった。そうすると、一鷹はいつもの無表情からは想像できない反応を見せた。
飲んでも赤くならない顔が真っ赤になって、突然立ち上がったかと思うと、自分のノートパソコンを抱えて走り去ってしまった。
まあ、走り去るといっても、すぐに扉の音が聞こえてきたから、隣の自分の部屋に戻っただけなのだろうけれど。
あまりの出来事に、雪史は声を掛ける余裕もなく、ただただ一鷹が去っていく様子を目で追い、そしてその後、残された自室で呆然とし、さらにその後、冷静に考えようとして……挫折した。
寝不足のまま翌日の土曜日に出勤して、特に業務以外を話すことはなく、ただ、いつもなら一緒に帰るところを、一鷹は「じゃ、おつかれさまでした」と去っていって、今日火曜日に職場で顔を合わせるまでまったく会わなかった。
(あの反応はやっぱり、そうだよねぇ……?)
学食で食券を買いながら、幾度となく思い出した一鷹の赤面ぶりを頭に浮かべた。
普段ほとんど表情が変わらないような人間が、あんなに真っ赤になるなんて。
時刻は昼の一時をまわったところで、学食はわりと空いていた。午後の講義が始まっている時間だし、その次の講義までは二時間近くあるのだから当然といえば当然だ。
雪史はトレイを持ったまま食堂内を見回して、普段はあまり座らない明るい窓際の席へと向かった。
なんとなく、少しでも明るい場所に居るほうがいいような気がしたからだ。
とはいえ、その程度で気分が晴れたり落ち着いたりするのならば苦労はない。
精神科医もカウンセラーも不要だろう。
雪史の気持ちもまた、晴れ渡った明るい空とはほど遠いところにあった。
(だいたい、キスだの色々しておいて、急にあんなに赤くなるとかどういうことよ……)
この思考も、ここ数日で何度も繰り返したことだ。
当然のことながら、答えなんてものは浮かんでこない。
最初に押し倒された時も、キスされた時も、その後キスされた時も、さらに身体を弄られた時も、あの直前の口を舐められた時だって、特別な感情は見て取れなかった。少なくとも、雪史にはわからないくらいのポーカーフェイスっぷりだった。
だというのに、好きなのかと尋ねただけで、あんなに動揺するだなんてどういうことなのだろうか。
(図星っていうか……無自覚だったのを自覚した、ってとこなんだろうけどさ……)
しかも、雪史がこれだけ頭を悩ませているというのに、職場での一鷹は驚くほどに普通だ。
いつもの無表情全開で、でも話しかけられれば丁寧に対応するし、雪史を無視するでも避けるでもなく、必要な話は普通にする。
そもそも勤務中に雑談をするようなタイプではなかったし、一緒に帰宅する時間には他の司書さんは退勤した後だしで、周囲にはまったく気付かれていないだろう。
(この状況をどうしろと……?)
「あれ? 真白さん?」
と、声が聞こえた。
声の方を向くと、千石さんがトレイを持って立っていた。
千石さんは、三階の文系専門書フロアの司書さんだ。九人いる女性司書さんの中で、もっとも若い。一鷹が入ってきたので、最年少ではなくなってしまったが。
「ああ、千石さんも休憩?」
「はい。学食で会うの久しぶりですよね」
「ここいいですか?」と同じテーブルにつく辺りは、雪史の人望といえるだろうか。単に上司らしくない可能性もあるが、職員同士の距離が近いというのは良い職場環境だといえるのだろう。
「最近忙しかったみたいですね、一階」
「ん? ああ、まあ、新規の利用者さんが増えたからね」
「あれ? 最近会えなかったのって、忙しかったからじゃないんですか?」
どうやら、千石さんは昼休憩時間がずれていたから会わなかったと思っていたらしい。
(そりゃそうか、一鷹君がお弁当を作ってくれてたなんて知らないもんな)
雪史は、一鷹が弁当を作っていたことを明かすかどうか一瞬悩んだ。
先週赤理さんと話した時には何の躊躇もなかったのに、同じ事実がちょっと背景が変わるだけでまったく違う重さになってしまった。
とはいえ、『空気を読む』能力が友人関係構築に必須だった世代の千石さんは、ほんの少し雪史が言い淀んだだけで「新規利用者対応で昼休憩時間がずれた」のではないことに気付いている。ここで事実を伏せたところで、逆に勘ぐられるのがオチだと雪史は思う。
「先週は弁当だったんですよ」
「えっ、彼女ですか?」
赤理さんの返しと重なって、思わず苦笑する。
「なんでみんな、僕が弁当を持っていたら彼女ができたと思うのかな」
そんなに生活力がなさそうに見えるのだろうか。
たしかに、自炊はそんなに得意ではないかもしれないが、それでも夕飯まで外食に頼る日は多くないというのに。
「あはは。お弁当ってことは、赤理さんに言われたんですか?」
「うん。今日は外食だって言ったら、嫁に逃げられたのかって言われました」
「ヨメ!」
あははは、と楽しそうに笑っている。
「で? 真実はどうなんですか?」
千石さんは楽しそうな顔のまま、直球で真実を聞いてくる。
こういうカラッとした雰囲気を作るのが、千石さんはとても上手い。司書なんて地味な仕事をしていないで、もっと接客業とか営業とかにつけばいいんじゃないかと雪史はたまに思う。
「彼女でも嫁でもなく、単なる隣人です」
「ああ、黒嵜さんですね」
「黒嵜君が隣に越してきたって言ったっけ?」
「聞いてませんけど、ただの隣の人に弁当を作ってもらうことはないでしょうし、タイミング的に黒嵜さんしかいないじゃないですか」
なるほど。どうやら千石さんは接客業でも営業でも、探偵でも生きていけそうだ。
そんなどうでもいいことを考えていると、少しずつ気分も晴れてくる。
雪史は、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
「というわけで、彼女でも嫁でもありません。ついでに後藤さんへの報告は禁止です」
「あははは。そうですね、後藤さんに伝えると胎教に悪そうですね」
ちゃんと黙ってます、と人差し指を口元にあててみせる。
もう二十代も後半だが、千石さんは可愛らしい雰囲気を持った女性だ。甘ったるい可愛さではなくて、さっぱりとした、同性にも好かれるような可愛さ。
急に「寿退社します」なんて言われるんじゃないかと、雪史は時々怖くなる。千石さんに辞められるのはちょっとつらい。
「でもそっかぁ、黒嵜さんって料理男子なんですねぇ」
「料理男子ってほどではないけど、まあ、手際はいいよ」
「あの顔で料理できるってなると、ちょっとハードル高いなぁ」
「ハードル?」
「料理できる男性って、かっこよく見えるんですけど、こっちの女子力の無さを強調してくるというか」
「黒嵜君のことが好きってこと?」
千石さんは一瞬きょとんとして、あははは、と笑った。
「私じゃないですよぉ。黒嵜さん狙ってる子多いけど、大変だなぁって」
たしかに、一鷹狙いで図書館に通っている女性利用客は相変わらず多い。
絵本の読み聞かせ告知もしたが、ひょっとすると子連れ優先で整理券を配布したほうがいいかもしれないと思案しているほどだ。
「なんだ、千石さんが狙ってるわけじゃないのか」
「黒嵜さんだったら、真白さんの方がいいなぁ」
「え?」
「私、真白さんのことわりと好きですよ?」
「ええと……ありがとう?」
「ふふ。ガード固いなぁ」
「ガードって……」
雪史が話の流れに戸惑っていると、千石さんはにこりと笑って言った。
「お弁当くらいなら、私も黒嵜さんに対抗できると思いますよ」
雪史にそう声を掛けたのは、先週ずっと一緒に昼食をとっていた赤理さんだ。息子のお下がりなのか、戦隊モノのお弁当袋を下げている。
「ああ、うん。今日は外食」
雪史は、事務室兼休憩室の奥にあるロッカーに、脱いだ制服のベストをしまって財布を手にしたところだった。
制服のままで図書館内にいると、目立つし利用者に声を掛けられることも多いので、休憩中はベストを脱ぐことにしていた。
もっとも、先週は休憩も休憩室内だったので、この手順も一週間ぶりだったが。
「お嫁さんに逃げられちゃったんですか?」
「黒嵜君はいつから僕の嫁になったのかな」
ははは、と笑いながら手を振って部屋を出たものの、雪史はどうにも居心地の悪いものを感じていた。
冗談というものは、事実無根でなければ到底笑えるものではない。
つい四日前の話だ。
いつもどおりだったはずの金曜日、なんとなく様子のおかしい一鷹に、雪史はふと自分のことが好きなのかと尋ねてしまった。そうすると、一鷹はいつもの無表情からは想像できない反応を見せた。
飲んでも赤くならない顔が真っ赤になって、突然立ち上がったかと思うと、自分のノートパソコンを抱えて走り去ってしまった。
まあ、走り去るといっても、すぐに扉の音が聞こえてきたから、隣の自分の部屋に戻っただけなのだろうけれど。
あまりの出来事に、雪史は声を掛ける余裕もなく、ただただ一鷹が去っていく様子を目で追い、そしてその後、残された自室で呆然とし、さらにその後、冷静に考えようとして……挫折した。
寝不足のまま翌日の土曜日に出勤して、特に業務以外を話すことはなく、ただ、いつもなら一緒に帰るところを、一鷹は「じゃ、おつかれさまでした」と去っていって、今日火曜日に職場で顔を合わせるまでまったく会わなかった。
(あの反応はやっぱり、そうだよねぇ……?)
学食で食券を買いながら、幾度となく思い出した一鷹の赤面ぶりを頭に浮かべた。
普段ほとんど表情が変わらないような人間が、あんなに真っ赤になるなんて。
時刻は昼の一時をまわったところで、学食はわりと空いていた。午後の講義が始まっている時間だし、その次の講義までは二時間近くあるのだから当然といえば当然だ。
雪史はトレイを持ったまま食堂内を見回して、普段はあまり座らない明るい窓際の席へと向かった。
なんとなく、少しでも明るい場所に居るほうがいいような気がしたからだ。
とはいえ、その程度で気分が晴れたり落ち着いたりするのならば苦労はない。
精神科医もカウンセラーも不要だろう。
雪史の気持ちもまた、晴れ渡った明るい空とはほど遠いところにあった。
(だいたい、キスだの色々しておいて、急にあんなに赤くなるとかどういうことよ……)
この思考も、ここ数日で何度も繰り返したことだ。
当然のことながら、答えなんてものは浮かんでこない。
最初に押し倒された時も、キスされた時も、その後キスされた時も、さらに身体を弄られた時も、あの直前の口を舐められた時だって、特別な感情は見て取れなかった。少なくとも、雪史にはわからないくらいのポーカーフェイスっぷりだった。
だというのに、好きなのかと尋ねただけで、あんなに動揺するだなんてどういうことなのだろうか。
(図星っていうか……無自覚だったのを自覚した、ってとこなんだろうけどさ……)
しかも、雪史がこれだけ頭を悩ませているというのに、職場での一鷹は驚くほどに普通だ。
いつもの無表情全開で、でも話しかけられれば丁寧に対応するし、雪史を無視するでも避けるでもなく、必要な話は普通にする。
そもそも勤務中に雑談をするようなタイプではなかったし、一緒に帰宅する時間には他の司書さんは退勤した後だしで、周囲にはまったく気付かれていないだろう。
(この状況をどうしろと……?)
「あれ? 真白さん?」
と、声が聞こえた。
声の方を向くと、千石さんがトレイを持って立っていた。
千石さんは、三階の文系専門書フロアの司書さんだ。九人いる女性司書さんの中で、もっとも若い。一鷹が入ってきたので、最年少ではなくなってしまったが。
「ああ、千石さんも休憩?」
「はい。学食で会うの久しぶりですよね」
「ここいいですか?」と同じテーブルにつく辺りは、雪史の人望といえるだろうか。単に上司らしくない可能性もあるが、職員同士の距離が近いというのは良い職場環境だといえるのだろう。
「最近忙しかったみたいですね、一階」
「ん? ああ、まあ、新規の利用者さんが増えたからね」
「あれ? 最近会えなかったのって、忙しかったからじゃないんですか?」
どうやら、千石さんは昼休憩時間がずれていたから会わなかったと思っていたらしい。
(そりゃそうか、一鷹君がお弁当を作ってくれてたなんて知らないもんな)
雪史は、一鷹が弁当を作っていたことを明かすかどうか一瞬悩んだ。
先週赤理さんと話した時には何の躊躇もなかったのに、同じ事実がちょっと背景が変わるだけでまったく違う重さになってしまった。
とはいえ、『空気を読む』能力が友人関係構築に必須だった世代の千石さんは、ほんの少し雪史が言い淀んだだけで「新規利用者対応で昼休憩時間がずれた」のではないことに気付いている。ここで事実を伏せたところで、逆に勘ぐられるのがオチだと雪史は思う。
「先週は弁当だったんですよ」
「えっ、彼女ですか?」
赤理さんの返しと重なって、思わず苦笑する。
「なんでみんな、僕が弁当を持っていたら彼女ができたと思うのかな」
そんなに生活力がなさそうに見えるのだろうか。
たしかに、自炊はそんなに得意ではないかもしれないが、それでも夕飯まで外食に頼る日は多くないというのに。
「あはは。お弁当ってことは、赤理さんに言われたんですか?」
「うん。今日は外食だって言ったら、嫁に逃げられたのかって言われました」
「ヨメ!」
あははは、と楽しそうに笑っている。
「で? 真実はどうなんですか?」
千石さんは楽しそうな顔のまま、直球で真実を聞いてくる。
こういうカラッとした雰囲気を作るのが、千石さんはとても上手い。司書なんて地味な仕事をしていないで、もっと接客業とか営業とかにつけばいいんじゃないかと雪史はたまに思う。
「彼女でも嫁でもなく、単なる隣人です」
「ああ、黒嵜さんですね」
「黒嵜君が隣に越してきたって言ったっけ?」
「聞いてませんけど、ただの隣の人に弁当を作ってもらうことはないでしょうし、タイミング的に黒嵜さんしかいないじゃないですか」
なるほど。どうやら千石さんは接客業でも営業でも、探偵でも生きていけそうだ。
そんなどうでもいいことを考えていると、少しずつ気分も晴れてくる。
雪史は、ようやく肩の力が抜けていくのを感じた。
「というわけで、彼女でも嫁でもありません。ついでに後藤さんへの報告は禁止です」
「あははは。そうですね、後藤さんに伝えると胎教に悪そうですね」
ちゃんと黙ってます、と人差し指を口元にあててみせる。
もう二十代も後半だが、千石さんは可愛らしい雰囲気を持った女性だ。甘ったるい可愛さではなくて、さっぱりとした、同性にも好かれるような可愛さ。
急に「寿退社します」なんて言われるんじゃないかと、雪史は時々怖くなる。千石さんに辞められるのはちょっとつらい。
「でもそっかぁ、黒嵜さんって料理男子なんですねぇ」
「料理男子ってほどではないけど、まあ、手際はいいよ」
「あの顔で料理できるってなると、ちょっとハードル高いなぁ」
「ハードル?」
「料理できる男性って、かっこよく見えるんですけど、こっちの女子力の無さを強調してくるというか」
「黒嵜君のことが好きってこと?」
千石さんは一瞬きょとんとして、あははは、と笑った。
「私じゃないですよぉ。黒嵜さん狙ってる子多いけど、大変だなぁって」
たしかに、一鷹狙いで図書館に通っている女性利用客は相変わらず多い。
絵本の読み聞かせ告知もしたが、ひょっとすると子連れ優先で整理券を配布したほうがいいかもしれないと思案しているほどだ。
「なんだ、千石さんが狙ってるわけじゃないのか」
「黒嵜さんだったら、真白さんの方がいいなぁ」
「え?」
「私、真白さんのことわりと好きですよ?」
「ええと……ありがとう?」
「ふふ。ガード固いなぁ」
「ガードって……」
雪史が話の流れに戸惑っていると、千石さんはにこりと笑って言った。
「お弁当くらいなら、私も黒嵜さんに対抗できると思いますよ」
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