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お酒のせい(前編)

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「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
 一般用のメインカウンターには、いつになく多くの利用者が並んでいた。
 そのほとんどが女性で、『乙女棚』に並べられていた本を手にしている。

 あの歓送迎会の土曜日から、ちょうど一週間が経った。
 黒嵜はあまり愛想は良くないが、日々の仕事は思った以上に有能だった。
 といっても、まだ配架と書架整理が主で、カウンター業務や選書まではしていないのだが、利用者から何かを訊ねられても、ほとんど自分で対応できているようだった。

 その仕事ぶりは、真白も感心したし、他の職員も褒めていたが、それ以上に利用者の評判を集めた。
 そりゃまあ、あんなかっこいい男が女性向け書籍の棚で働いているのだから、噂にもなるというものだろう。
 最初は料金の発生しない学生さんが多かったが、この数日の間に月額利用料の発生する一般利用客も増えていて、真白はカウンターから離れられないほど忙しかった。

 閉館の十分前になると、黒嵜は上手に利用者らを帰らせ、「上から確認してきます」と告げて階段を上っていった。
 この図書館は四階建てで、一般用の図書が一階、カフェ併設の学習スペースが二階、大学生用の専門書籍が三階と四階にある。
 二階は別の部署が担当しているので、四階を施錠し、三階を施錠し、最後に一階の施錠をする。
 二階は外階段から行き来できるので、図書館は上から順に、全て施錠していくのだ。


 カウンター業務を終えると、もう午後一時半を回っていた。
 新規手続きの利用者が多くて、三十分も超過してしまった。
 子育てママも多い女性陣は定時で帰したので、今は館内に黒嵜と真白の二人きりだ。

 だが、特別な空気はまったくない。
 一週間前の土曜日、なぜだかキスをした黒嵜だが、日曜日と月曜日の休館日を挟んで出勤すると何事もなかったかのように普通だった。
 火曜日から金曜日まで、夜の閉館作業は毎日二人きりだったが、驚くほど普通でしかなかった。
(やっぱり酔ってたんだろうなぁ)
 南側の窓にロールカーテンを下ろしている黒嵜の後ろ姿を見ながら、真白は思う。
 真白自身は少し飲むだけで顔が真っ赤になる体質だが、かといって記憶がなくなったりすることはない。
 そして反対に、顔にはまったく出ないのに、実はひどく酔っ払っているという人がいることは知っている。
(黒嵜君はそういうタイプなんだね)
 真白は、うんうんと一人で納得した。

 「終わりました」と言う黒嵜と一緒に外へ出ると、もう外は夏の気配だった。
 五月も終盤に差し掛かっていて、そろそろ雨が増えるのだろう。
 例年ならば雨が増えると学生利用が増えて一般客は減るのだが、今年はどうだろうか。
「黒嵜君は、お昼どうする?」
「抜きます」
「え?」
「あんまり金がないんで、昼は食べなくてもいいかなと」
「いや、食べなきゃダメでしょう」
「給料日までまだだいぶあるんで……」
「……わかった。じゃあ、うちで一緒に食べよう」
「いや、そんな、悪いです」
「いいよ、そのくらい。今日は鍋にしようと思ってたし」
「……この暑いのに鍋ですか?」
「うん。冬に食べそこねた鍋の素の賞味期限が近くて」
「ああ、なるほど」
「ついでに冷凍室に突っ込んだままの食材を消費して、アイスを買おうと思ってるんだ」
「それはいいですね」

 スーパに寄って帰宅すると、すでに汗だくになっていた。
 エアコンをパワフルモードに設定して涼む。
 男二人が並んでエアコンの下にいるというのもなんだか妙な光景だが、暑いのだから仕方がない。
 真白が黒嵜を見遣ると、黒嵜はTシャツの胸元をパタパタさせて涼んでいた。
 首元には大粒の汗が伝っていて、真白よりよほど代謝が良さそうに見えた。
(ああ、でもたくさん汗をかくからって必ずしも代謝がいいとは限らないんだっけ)
 そんなどうでもいいどこかで読んだ雑学を思い出しながら、ぼんやりと黒嵜の汗を見つめていた。

「さあ、じゃあやりますか!」
 先にエアコンの下から動いたのは、黒嵜の方だった。
 居るのは真白の部屋なので、あわてて真白も動く。
 賞味期限の近い鍋の素を出し、卓上コンロを出し、鍋を出し、冷凍室の中から使えそうな食材を適当に取り出す。
 その間に、黒嵜は買ってきた新しい食材を手際よくカットしていた。
「料理得意なの?」
「焼肉屋でバイトしてただけです」
 「だから味付けなんかはできませんよ」と言うが、少しやればすぐに料理上手になれそうな雰囲気だ。
 かっこいい上に料理男子だなんて、どれだけハイスペックなんだと思う。
「よし、じゃあ任せた」
 しばらく眺めていた真白は、早々にキッチンを離れて、相変わらず本だらけの机の上を片付けた。
 片付けといっても、実際にはその辺の床に積み上げただけだが。
 取皿やお玉なんかを並べると、ちゃっかり座って本を読み始める。
 上司だからというわけでなく、単に本が目に入ってしまっただけだ。
 つまり無意識だ。

「真白さーん?」
 気がつくと、黒嵜が真白の顔を覗き込むようにして手を振っていた。
 目の前では、ぐつぐつと音を立てて鍋が出来上がっている。
「あれ? ごめん、いつの間に?」
「真白さんって、本当に本が好きですよね」
「あはは。ごめん、食べよう」
 言って立ち上がり、「ビールでいい?」と訊ねる。
「はい、ありがとうございます」
 冷えた缶ビールを開けて、何にだかわからない乾杯をする。
 一口流し込むと、二人で「ぷはぁ」と息を吐いた。
 外は夏の陽射しなのに、エアコンの効いた部屋でビールと鍋。
 なんとも贅沢な感じだった。

「真白さんって、下の名前なんて読むんですか?」
 取り留めのない話の中で、黒嵜が訊ねた。
「ああ、読めないよね。『ゆきひと』って読むんだ」
「『ふみ』じゃないんですね」
 真白の名前は『雪史』と書く。
 初対面の人はだいたい『ゆきふみ』とか『ゆきし』とか読む。
「黒嵜君は、『いちたか』だっけ」
「はい。数字の『一』に、鳥の『鷹』で、そのまま『いちたか』です」
「なんか、鷹ってイメージぴったりだよね」
「そうですか?」
「うん、強くてかっこいいし」
「でも、ワシの方が大きいんですよ。鷹って小さくて」
「うん。でも、鷹は鷲みたいにバタバタしながら飛ばないでしょ? すっと羽を広げて静止してるみたいに飛ぶのも、黒嵜君っぽいなって」
「……そんなこと、初めて言われました」
「そう? 僕は名前負けしているから羨ましいなぁ」
「いや、真白さんも『雪』って感じしますよ?」
「色が白いから?」
「たしかに肌も白くて綺麗ですけど、なんていうか、落ち着いた感じが」
 聞いた真白は、ふるふると首を振った。
「『雪』ってね、『穢れを祓って清める』って意味があるんだ。『史』も『神への祈りの祭り』を表した字だと言われてる。どこの聖人だって感じだろ?」
「いえ……むしろぴったりじゃないですか? 一緒にいて癒やされる感じとか、穏やかなのに凛としている雰囲気とか」
「あはは。そんなにおだててもビールと日本酒くらいしか出てこないよ」
「お世辞じゃないですよ」
「あはは」
「……じゃあ、今から雪史ゆきひとさんって呼ぶことにします」
「なら、僕も一鷹君って呼ぼうかな」
「鷹って猛禽類なんですよ」
「『攻め』だって言ってたから合ってるんじゃない?」
「それって……今日も試していいってことですか?」
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