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第1話 事件の始まり

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 高らかな鐘の音に誘われた光景は、華々しさすら感じさせるものだった。
 磨き上げられた石の床に横たわる、装飾の多い騎士服を着た巨躯。
 その身体に突き立てられた、色とりどりの貴石を施した黄金の剣。
 唯一足りない色は、石ではなく液体として周囲を彩っている。
 床を染めるものは、遠目でも確実に命が失われていることを表していた。
 頂上に君臨していたはずの人間が地に伏しているのを見て、目撃者の心情は様々だった。
 あぁ、なんということだ。
 あぁ、どうすればいい。
 あぁ、……よかった。
 表情に出すことなく抱かれる心情の中、視界を埋める赤色は日常の終わりを突きつけた。


 この振動は永遠に続くのだろうか。
 真っ赤な馬車に乗り込んでから数時間。
 さすがに臀部の痺れが限界を迎えそうだ。
 硬い座面にローブの裾を押し込んでいると、前から小さな笑いが聞こえてきた。

「大丈夫かい、フィオナ」

「ひゃいっ、兄様っ!」

 思わず声が裏返ってしまったけれど、相手が気にしている様子はなかった。
 私の名前はフィオナ。
 先日ようやく十六歳になったレディだ。
 肩で切りそろえた銀髪や真っ白なローブは年相応の格好だろう。
 なのに、肉付きの薄い身体と顔のせいで子ども扱いされがちだ。
 右目は眼帯で覆っているけれど、残る青色の左目がまん丸で愛らしいと言われてしまうのだ。
 まったくもって遺憾である。
 内心で苛々を思い出していると、兄様は細い息を吐いた。

「お前にとって、初めての事件だね」

「はい、兄様のお役に立てるよう頑張ります!」

 低く掠れた声が柔らかく耳に届き、歓喜で身体が震えそうになる。
 兄の名はクリシュナ。
 黒いローブに包まれた身体は長身にして痩身。
 立てば私より頭二つ分は背が高いけれど、折れないのが不思議なほど痩せ細っている。
 濃い灰色の髪は潤いがなく、長く伸びた前髪は目元を完全に隠していた。
 年齢はおおよそ三十。
 しかし、乾ききった容姿から年齢を当てられる者はいないだろう。
 そういう意味で、私と兄様は似ている。
 親子ほども歳の離れた私たちの関係は、異母兄妹というものだった。
 幼いころに少しだけ一緒に過ごした兄様が、私は本当に大好きなのだ。

「今向かっているのは、騎士団本部なのですよね?」

「ああ。皇帝や教会と同等の力を持つ、大きな組織だよ」

 少しでも話したいという気持ちからの質問に、兄様は穏やかに答えてくれた。
 私たちが暮らしている国は、エリュテイア帝国という。
 広大な国は軍事国家として知られ、今も周辺諸国との摩擦が絶えない。
 そんな中でも国内で争っていられるのは強大さ故なのだろう。
 領土を治める皇帝。
 人心を集める教会。
 そして、武力を極める騎士団は、水面下での軋轢を抱えている。

「そんな場所に、私たちが行ってもいいのでしょうか……?」

 途端に不安になってしまうと、兄様は口元を僅かに緩めた。

「フィオナは、自分の役目を聞いてきたかい?」

「もちろんです!」

 慌てて頷くと、兄様は答えを促すように笑みを浮かべる。
 初めての事件であっても、兄様に頼りないと思われたくない。
 私は自分の成長を主張するために、何度も聞かされた話を口にした。

「私たちは、皇帝陛下より派遣された調査団です。
 兄様は調査官、私は監視官として、二人で難事件を解決するのが役目です!」

 この国には特別な機関がある。
 一般的な事故や事件を扱う警備隊とは別の、特殊な事態に対応する部門だ。
 政治的な事件や内密に処理すべき事件、警備隊には手に負えない事件など。
 所属する者は組織の支配を受けず、ただ一人、皇帝の支配だけを受ける。
 調査官一人に監視官一人。
 常に二人で行動する立場は、世間には秘匿されつつも有力者には公然の秘密だ。

「本当に……監視官になるのかい?」

 車輪の音に紛れて聞こえた言葉に、思わず首を傾げてしまった。
 監視官になるためには、相応の身分と過剰な知識を必要とする。
 数年前、調査官になった兄様の監視官が欠員していると聞き、その日から私はこの立場を求めていた。
 
「もちろんです! 私は兄様のお側にいるために、監視官になったのですから!」

 ようやくたどり着いた立場に喜びが抑えきれない。
 満面の笑みを浮かべて頷くと、兄様はそっと頭を撫でてくれた。

「辛くなったら、言いなさい」

「兄様と一緒なら、辛いことなどありません!」

 私の意気込みに納得したのか、兄様は椅子の背もたれに寄りかかって質問に答えてくれた。

「調査団は過去の実績で中立の立場を築いているから、柵に関しては気にしなくていいよ
 そして、僕が調査し、僕を監視するのが監視官の役割。その証がこれだ」

 そう言って、兄様は胸元のブローチを指した。
 大きな紅玉のついた、嫌味なほどに豪華なものだ。
 先に言った三つの組織は、それぞれ象徴となる色を持っている。
 皇帝は赤色を所持し、この紅玉が皇帝陛下直轄の調査団である証拠なのだ。
 紅玉の大きさは権力と比例しているらしく、今の私たちは皇帝に次ぐ権力を持つことになる。
 とはいえ、私は権力なんかに興味はない。
 趣味の悪い意匠でも兄様と同じもの。
 それだけで私の気持ちは浮足立ってしまうのだった。

「監視だなんて。
 でも、離れてはいけないと言われているので、ずっと兄様の隣に居ますから!」

「フィオナはもう立派なレディだというのに、すまないね」

 困ったような微笑に、私は目一杯の笑顔を返した。
 兄様と最後に会ったのは六年前。私が十歳の時だった。
 監視官だった兄様が調査官就任を理由に去った時、私は心底悲しかった。
 けれど努力の甲斐あって、こうして監視官として一緒にいられることになったのだ。
 この時間が長く続くように祈っていると、馬車は唐突に止まった。
 窓がないから外を窺うことはできない。
 動いては止まり、それが何度も繰り返されたあと。
 固く閉じられた扉が外から重々しく開いた。

「ああ、ようやく窮屈な馬車からは逃れられる」

 兄様は小さく縮めていた手足を伸ばすと、外へ足を向けた。
 真っ赤な服を着ている御者は、私たちと目を合わそうとしない。
 慣れた足取りで気にせず降りる兄様に続くと、冷たく乾いた風に身を竦めてしまった。
 帝都より遥か北にあるこの地域は、いつも乾燥しているのだという。
 風に散らされた髪を押さえて顔を上げると、見上げることすら困難な石造りの建物がそびえ立っていた。
 エリュテイア帝国騎士団本部。
 帝都の城の次に広大な敷地を擁すると言われ、軍事国家である帝国を名実ともに知らしめる場所だ。

「ほら、おいで」

 そう言うと、兄様は馬車を降りかけていた私の脇に手を入れようとする。
 当然ながら飛び退くと、兄様は戸惑ってしまったようだ。
 理由が浮かんでいなさそうな兄様に向かって、私は腰に手を当て胸を張った。

「兄様、私はもうレディなんですよ?」

 抱き上げて下ろしてもらうなんて子どもを相手にすることだ。
 兄様の中で、私は十歳のままなのだろうか。
 つい唇を尖らしてしまうと、合点がいった言う風に唇を緩めた。

「そうだったね。なら、こうかな?」

 恭しく差し出された手は、がさがさして硬い。
 けれど記憶の中と同じ大きさが懐かしくて、綻びかけた口元をぎゅっと締めた。
 とん、とんと段を降り、固い地面に足を下ろす。

「さて……じゃあ、行こうか」

 兄様の沈鬱な声のあと、私たちを運んだ真紅の馬車は土煙を上げて去っていった。
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