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10話
10話「ぬかるむお粥」【1/3】
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外に出てまず目に入ったのは白い雨。足の親指位の大きさを保ったまま降ってきた雪の粒だ。
「なわっ!」
「だっ、大丈夫!?」
そんな風に驚いて見開いていた瞼の内側に1粒の雪がジャストミート。私が潤いながらもジンジンする目を瞼で押さえつつ苦悶しながら顔を上げると、澄み切った冬の夜空はまばらながらも白く彩られ始めていた。
「おぉ」
「うわぁ、ホワイトクリスマスなんて何年ぶりだろう……」
「ご実家の方では、あまり降らないんですか?」
「えぇ、宮崎じゃあ雪自体珍しいから。まぁ流石にはしゃいで走り回ったりはしないけど」
そう言いながらも少し前を歩きながら榊さんは雪の降る夜空を見上げて肩を浮かせているようだった。お酒とアツアツのお祝い料理で体が熱っているのもあり、身を切るくらいのこの寒さがむしろ心地良くて、私も内心は年甲斐もなく興奮していた。大切な人と初めて過ごすクリスマスの帰り道に雪なんて、控えめに行っても最高のシチュエーションだし。
「哀留は?」
「なんです?」
「実家は何処の方なの?故郷じゃ雪は珍しくなかったとか?」
『早く帰ってアイス食べよ!半分こだからね哀!』
「い、岩手……ですね」
「東北かぁ。それじゃあ雪はあまり好きじゃないよね、雪かき大変でしょ?」
「えぇ、しょっちゅう手伝わされましたから……」
『どこほっつき歩いてたんだ?ほいスコップ!』
『え”ぇ”~お父さんやっといてよぉ~』
『文句言ってる奴は晩飯抜きだぞぉ。ほい哀留、姉ちゃんの分のおでんも食べちゃおうな』
「うっく……」
「ん?どうしたの哀留」
額に染み込んできた圧迫感が両側のこめかみに拡散する。いきなり生まれた耳障りな音が頭の中で響く度にますます強くなる眠気は、頬を刺す寒さも心配してくれる彼女も全部スルーして私の頭を直接揺らしてきて、私は頭をハンマーで打たれたかのようにバランスを崩してよろめいた。
「あっ、哀留!?」
「大丈夫……!だいじょうぶです……」
近くの殆どがボヤけて代わりに聴覚だけは鋭敏になり、榊さんの心配した声が脳内で激しく反響して思わず手を振り乱してしまった。なんてことは無い、原因は分かりきっている。慣れない飲み物の嫌いな種類、それを無理して取り入れた反動だ。首と瞼が鉛を流し込まれたように重く、意識しないとすぐにダランと下がりきってしまいそうになる。それくらいの眠気が瞬く間に体の支配権を求めて全身の神経の中で暴れだした。
「ちょっと……酔っちゃったみたいで……」
「えっ!?」
我ながら初デートで言うには余りにもがっつき過ぎな言葉に聞こえる。でもそれ以外の言い訳なんてもう思いつかない。
「そ、それは……その、つまり……」
「だ、大丈夫。1人で歩けますから……真っ直ぐ、帰りましょう……」
……こればかりは、制御が効かなかった。前に踏み出したつもりの足は真横に引きずられ、舌は熱を持って乾ききり、意識は今見えている視界のずっと手前にまで引きずり降ろされそう。自分の身体が自分のモノではない、そんな体たらくで冬の夜道をまともに歩いていけるはずもなく、数歩歩いたところで歩道につんのめり頭から地面に落ちそうになったところを榊さんに支えられてしまった。
「す、すいません……」
「大丈夫!このまま駅まで行けるから、リラックスして深呼吸しながらゆっくり行こう」
「……はい」
右脇に食い込む彼女の肩の感触、それだけが今の私にとって唯一まともに感じられる。混濁した視界と平衡感覚の中で自信が持てないながらもなんとか左右の足を交互に地面につけ、行きに手を繋いだ時よりもゆっくりとした歩みで雪の降る中を進む。呼吸すらゆったりとしている私に対して榊さんは気を遣わせないようにかにこやかに語り掛け続けた。
「哀留、軽いね。いつもちゃんと食べてるの?」
「……さぃきん、は……べてます……ぅよ」
「お酒、薦めちゃってごめんなさい。次からは……気を付けるから……」
「気……にしな、いでくだ……い」
その時、脳髄が溶け落ちて頭が重力に従って下に落ちた。自分では抑えられない現実からの離脱。ぐるりと回った視界の反対で重力に引っ張られた魂が抜け落ちていくような感覚を味わいながら、私は大事な人の肩に文字通り全てを預ける形になってしまった。
「哀留!?」
『哀留!』
「哀留起きなさい!お父さん帰ってくるわよ」
「フガッ、ふぁい……」
バイト帰りに疲れてこたつで寝るくらい良いじゃないのさ、寝起きで目がシバシバするし口の中はカラッカラ!それでも起きなくちゃいけない。何故なら晩御飯前に寝ているとお父さんにこっぴどく叱られるからだ。
「準備手伝ってよ哀」
「今起きるってぇ~、いいじゃん疲れてんだからさぁ~」
「その言葉、お父さんに言えるの?もうすぐ20にもなる娘がバイト終わりにこたつに潜り込んで寝てるなんて知ったら少なくとも1時間は説教よ」
「あぁーヤダヤダ!ヤだよね人間年取ると他者に寛容じゃなくなってさ!自分だって学校で道徳習ってんのに」
フローリングでワザと聞こえるように足踏み、そして首を回しながら顔を洗おうとしていたら零菜のヤツがグイッと箸の束を私に向かって突き出してくる。
「なに?」
「『なに?』じゃなくて準備!もう晩御飯出来るんだから、お父さん帰る前に準備しなきゃ!」
「お父さんだって子供じゃないんでしょ?自分の分は自分でやんなきゃ~」
「哀留!」
ぴしゃりと雷が一閃。19時始まりのバラエティー番組の音量に負けないお母さんの叱り声は何故だか聞いた途端に体がこわばってしまう。そのたった一言の制止でその先言おうとしている言葉まで想像できちゃって、「その先」を引き出さない為に素直に謝った。
「ごめん……手伝う」
「うん宜しい!働かざるもの食うべからずってね!」
「零に言ったんじゃないんだけど」
「社会に出て普通に働いてる奴が一番偉いのよ、アンタもデカい顔したいんなら就職しな」
言ってろ社畜喪女が。
「ただいまー」
「あっおかえりなさーい!───ちょっと!」
「哀留迎え」
「……はーい」
違う、私は折れたんじゃない。視野の狭い視点しか持たない女2人対してここで露骨に反抗するよりも、仕事から疲れて帰宅した家長の方を労って味方につける方が得策だと分かっているからだ。私は賢い、社会や家庭の歯車には無い明確な自己を持っているだから……。
「おかえりなさい、お疲れ様~」
「おう珍しいな、明日は吹雪か?」
前言撤回、こんなのを味方にするなんて御免。
「素直にありがとうって言えない大人ってダサいよ」
「打算で人に媚びる子供だって可愛くないぞ、ホラ」
冷たい玄関の床に素足の娘を立たせたまま、この男が手渡してきたのは手のひら大の紙袋。見慣れた家電量販店の包装の中に入っていたのは2000円くらいの無線式マウスだった。
「え、まさかこれ……」
「お誕生日おめで」
「ちょまてぇい!」
靴を脱ぎ片言でお祝いを済ませながらスタスタとリビングに強行突破を図ろうとする奴の後ろ襟を引っ掴んで問い詰める!
「これが愛娘の二十歳の誕生日に贈る物か!」
「大人はプレゼントなんて貰わないんだよ、それに作家って言ったらパソコン仕事なんだから使うだろ?」
「スマホで書くんだから要らないってぇ!」
「哀留何騒いでるの!?こっち来て手伝って」
「ぉお呼ばれてるぞぉ、未来の直木賞作家殿ぉ?」
右手で掴んでいたジャケットをそのままパージし、明るい方へ遠ざかる大きな背中。昔はともかく今はただ大きくて邪魔っこいだけだ。私の事なんかついでとしか見てないくせに……。
「その言葉、いつか後悔させるかんね」
「じゃあその”いつか”に、寿司でも奢ってくれ」
「哀留ー!」
『哀留!?』
「哀留!?」
「ふっく!」
まるで呪いが解かれたように夢から現実に瞬時に回帰する。意識を失う前に感じていた重さは全て消え去り、まるで綿のような体を跳ね起こすとそこは私たちの家、そして半身を起こす私を横から心配げな様子で見つめる榊さんがいた。
「ぁ、あぁ……」
「哀留大丈夫!?」
「ぁ……大丈夫、です大丈夫」
つまらない夢を見ていた。そのせいで体の軽さに反して意識、26歳の私の頭は今のこの状況が整理できずボーっとしたまま、だけどそれを聞くのも怖いままに半開きの口から間の抜けた音を吐き出し続ける。
「ホントに!?うなされてたのよ!?」
「だいじょぶです、ごめんなさい。迷惑かけちゃって……えっと、あの後は……」
「あの後って、どこまで覚えてるの?」
「お店の前で、堕ちるまでですかね……」
必死に思い出そうとしてもぷっつりと途切れた記憶の先に進むことはできない。血が巡りだしてジンジンしてきた眼球を抑えながら考えこむ仕草をしてはいるけど、実際のところ何の成果も得られないことは頭を使う前から分かり切っていて、それが榊さんに対して申し訳なかった。あんな素敵な1日の終わりに水を差してしまったのだから。
「気にしないで。あの後電話でタクシー呼んで送ってもらって、ここまで上げるのは御殿さんに手伝ってもらったの」
「……アイツは、なにか?」
「昨日のお店を教えてくれって、妙に真面目な顔で言ってきたから相当好きみたいね、グラタン」
微笑む彼女に癒されつつも増々頭痛の種が増える。時計を見ると時刻は6時をまわって少し。記念の夜をあんな形で終えてしまったことを後悔しながらうつ向いているうちに大事なコトに気付いた。私が寝ていたのはロフトの下のリビングで、掛け布団と敷き布団の両方を纏っているという事だ。つまり榊さんは───
「私は気にしないで、徹夜なら4日くらいまで経験あるし、暖房で寒くは無かったから」
「いやっ、でも───」
「大丈夫!実は貴方が寝てる間に新しい布団をネットで探してたの。さっき速達で注文したから明日には届くと思うから」
いや、それでこれはチャラにはならないって!
「あっいけない、もう行くね!」
「えっ!?まだ早くないですか?」
「年末で役所も立て込んでるの!色々決めなきゃいけないことがあって、でも終わりは早いと思うから。哀留はゆっくりしてて!じゃあ!」
そう言ってスラっと長い後姿はキッチンから玄関までを駆け抜けていき、あっという間に職場に向かって消えてしまった。1人ヌクヌクとした布団の中に取り残された私の頭を長く寝た後特有の頭痛と眩暈が襲い始めても、流石にあんな夢を見た後ではおいそれと二度寝をしようなんて気分にはなれず、布団から這い出して朝ご飯も食べないままに歯を磨き始めた。
「───ふぉぁ……」
そして泡塗れの汚いため息が漏れる。くだらない思い出を引きずり続ける滑稽な自分を嗤うように。
「なわっ!」
「だっ、大丈夫!?」
そんな風に驚いて見開いていた瞼の内側に1粒の雪がジャストミート。私が潤いながらもジンジンする目を瞼で押さえつつ苦悶しながら顔を上げると、澄み切った冬の夜空はまばらながらも白く彩られ始めていた。
「おぉ」
「うわぁ、ホワイトクリスマスなんて何年ぶりだろう……」
「ご実家の方では、あまり降らないんですか?」
「えぇ、宮崎じゃあ雪自体珍しいから。まぁ流石にはしゃいで走り回ったりはしないけど」
そう言いながらも少し前を歩きながら榊さんは雪の降る夜空を見上げて肩を浮かせているようだった。お酒とアツアツのお祝い料理で体が熱っているのもあり、身を切るくらいのこの寒さがむしろ心地良くて、私も内心は年甲斐もなく興奮していた。大切な人と初めて過ごすクリスマスの帰り道に雪なんて、控えめに行っても最高のシチュエーションだし。
「哀留は?」
「なんです?」
「実家は何処の方なの?故郷じゃ雪は珍しくなかったとか?」
『早く帰ってアイス食べよ!半分こだからね哀!』
「い、岩手……ですね」
「東北かぁ。それじゃあ雪はあまり好きじゃないよね、雪かき大変でしょ?」
「えぇ、しょっちゅう手伝わされましたから……」
『どこほっつき歩いてたんだ?ほいスコップ!』
『え”ぇ”~お父さんやっといてよぉ~』
『文句言ってる奴は晩飯抜きだぞぉ。ほい哀留、姉ちゃんの分のおでんも食べちゃおうな』
「うっく……」
「ん?どうしたの哀留」
額に染み込んできた圧迫感が両側のこめかみに拡散する。いきなり生まれた耳障りな音が頭の中で響く度にますます強くなる眠気は、頬を刺す寒さも心配してくれる彼女も全部スルーして私の頭を直接揺らしてきて、私は頭をハンマーで打たれたかのようにバランスを崩してよろめいた。
「あっ、哀留!?」
「大丈夫……!だいじょうぶです……」
近くの殆どがボヤけて代わりに聴覚だけは鋭敏になり、榊さんの心配した声が脳内で激しく反響して思わず手を振り乱してしまった。なんてことは無い、原因は分かりきっている。慣れない飲み物の嫌いな種類、それを無理して取り入れた反動だ。首と瞼が鉛を流し込まれたように重く、意識しないとすぐにダランと下がりきってしまいそうになる。それくらいの眠気が瞬く間に体の支配権を求めて全身の神経の中で暴れだした。
「ちょっと……酔っちゃったみたいで……」
「えっ!?」
我ながら初デートで言うには余りにもがっつき過ぎな言葉に聞こえる。でもそれ以外の言い訳なんてもう思いつかない。
「そ、それは……その、つまり……」
「だ、大丈夫。1人で歩けますから……真っ直ぐ、帰りましょう……」
……こればかりは、制御が効かなかった。前に踏み出したつもりの足は真横に引きずられ、舌は熱を持って乾ききり、意識は今見えている視界のずっと手前にまで引きずり降ろされそう。自分の身体が自分のモノではない、そんな体たらくで冬の夜道をまともに歩いていけるはずもなく、数歩歩いたところで歩道につんのめり頭から地面に落ちそうになったところを榊さんに支えられてしまった。
「す、すいません……」
「大丈夫!このまま駅まで行けるから、リラックスして深呼吸しながらゆっくり行こう」
「……はい」
右脇に食い込む彼女の肩の感触、それだけが今の私にとって唯一まともに感じられる。混濁した視界と平衡感覚の中で自信が持てないながらもなんとか左右の足を交互に地面につけ、行きに手を繋いだ時よりもゆっくりとした歩みで雪の降る中を進む。呼吸すらゆったりとしている私に対して榊さんは気を遣わせないようにかにこやかに語り掛け続けた。
「哀留、軽いね。いつもちゃんと食べてるの?」
「……さぃきん、は……べてます……ぅよ」
「お酒、薦めちゃってごめんなさい。次からは……気を付けるから……」
「気……にしな、いでくだ……い」
その時、脳髄が溶け落ちて頭が重力に従って下に落ちた。自分では抑えられない現実からの離脱。ぐるりと回った視界の反対で重力に引っ張られた魂が抜け落ちていくような感覚を味わいながら、私は大事な人の肩に文字通り全てを預ける形になってしまった。
「哀留!?」
『哀留!』
「哀留起きなさい!お父さん帰ってくるわよ」
「フガッ、ふぁい……」
バイト帰りに疲れてこたつで寝るくらい良いじゃないのさ、寝起きで目がシバシバするし口の中はカラッカラ!それでも起きなくちゃいけない。何故なら晩御飯前に寝ているとお父さんにこっぴどく叱られるからだ。
「準備手伝ってよ哀」
「今起きるってぇ~、いいじゃん疲れてんだからさぁ~」
「その言葉、お父さんに言えるの?もうすぐ20にもなる娘がバイト終わりにこたつに潜り込んで寝てるなんて知ったら少なくとも1時間は説教よ」
「あぁーヤダヤダ!ヤだよね人間年取ると他者に寛容じゃなくなってさ!自分だって学校で道徳習ってんのに」
フローリングでワザと聞こえるように足踏み、そして首を回しながら顔を洗おうとしていたら零菜のヤツがグイッと箸の束を私に向かって突き出してくる。
「なに?」
「『なに?』じゃなくて準備!もう晩御飯出来るんだから、お父さん帰る前に準備しなきゃ!」
「お父さんだって子供じゃないんでしょ?自分の分は自分でやんなきゃ~」
「哀留!」
ぴしゃりと雷が一閃。19時始まりのバラエティー番組の音量に負けないお母さんの叱り声は何故だか聞いた途端に体がこわばってしまう。そのたった一言の制止でその先言おうとしている言葉まで想像できちゃって、「その先」を引き出さない為に素直に謝った。
「ごめん……手伝う」
「うん宜しい!働かざるもの食うべからずってね!」
「零に言ったんじゃないんだけど」
「社会に出て普通に働いてる奴が一番偉いのよ、アンタもデカい顔したいんなら就職しな」
言ってろ社畜喪女が。
「ただいまー」
「あっおかえりなさーい!───ちょっと!」
「哀留迎え」
「……はーい」
違う、私は折れたんじゃない。視野の狭い視点しか持たない女2人対してここで露骨に反抗するよりも、仕事から疲れて帰宅した家長の方を労って味方につける方が得策だと分かっているからだ。私は賢い、社会や家庭の歯車には無い明確な自己を持っているだから……。
「おかえりなさい、お疲れ様~」
「おう珍しいな、明日は吹雪か?」
前言撤回、こんなのを味方にするなんて御免。
「素直にありがとうって言えない大人ってダサいよ」
「打算で人に媚びる子供だって可愛くないぞ、ホラ」
冷たい玄関の床に素足の娘を立たせたまま、この男が手渡してきたのは手のひら大の紙袋。見慣れた家電量販店の包装の中に入っていたのは2000円くらいの無線式マウスだった。
「え、まさかこれ……」
「お誕生日おめで」
「ちょまてぇい!」
靴を脱ぎ片言でお祝いを済ませながらスタスタとリビングに強行突破を図ろうとする奴の後ろ襟を引っ掴んで問い詰める!
「これが愛娘の二十歳の誕生日に贈る物か!」
「大人はプレゼントなんて貰わないんだよ、それに作家って言ったらパソコン仕事なんだから使うだろ?」
「スマホで書くんだから要らないってぇ!」
「哀留何騒いでるの!?こっち来て手伝って」
「ぉお呼ばれてるぞぉ、未来の直木賞作家殿ぉ?」
右手で掴んでいたジャケットをそのままパージし、明るい方へ遠ざかる大きな背中。昔はともかく今はただ大きくて邪魔っこいだけだ。私の事なんかついでとしか見てないくせに……。
「その言葉、いつか後悔させるかんね」
「じゃあその”いつか”に、寿司でも奢ってくれ」
「哀留ー!」
『哀留!?』
「哀留!?」
「ふっく!」
まるで呪いが解かれたように夢から現実に瞬時に回帰する。意識を失う前に感じていた重さは全て消え去り、まるで綿のような体を跳ね起こすとそこは私たちの家、そして半身を起こす私を横から心配げな様子で見つめる榊さんがいた。
「ぁ、あぁ……」
「哀留大丈夫!?」
「ぁ……大丈夫、です大丈夫」
つまらない夢を見ていた。そのせいで体の軽さに反して意識、26歳の私の頭は今のこの状況が整理できずボーっとしたまま、だけどそれを聞くのも怖いままに半開きの口から間の抜けた音を吐き出し続ける。
「ホントに!?うなされてたのよ!?」
「だいじょぶです、ごめんなさい。迷惑かけちゃって……えっと、あの後は……」
「あの後って、どこまで覚えてるの?」
「お店の前で、堕ちるまでですかね……」
必死に思い出そうとしてもぷっつりと途切れた記憶の先に進むことはできない。血が巡りだしてジンジンしてきた眼球を抑えながら考えこむ仕草をしてはいるけど、実際のところ何の成果も得られないことは頭を使う前から分かり切っていて、それが榊さんに対して申し訳なかった。あんな素敵な1日の終わりに水を差してしまったのだから。
「気にしないで。あの後電話でタクシー呼んで送ってもらって、ここまで上げるのは御殿さんに手伝ってもらったの」
「……アイツは、なにか?」
「昨日のお店を教えてくれって、妙に真面目な顔で言ってきたから相当好きみたいね、グラタン」
微笑む彼女に癒されつつも増々頭痛の種が増える。時計を見ると時刻は6時をまわって少し。記念の夜をあんな形で終えてしまったことを後悔しながらうつ向いているうちに大事なコトに気付いた。私が寝ていたのはロフトの下のリビングで、掛け布団と敷き布団の両方を纏っているという事だ。つまり榊さんは───
「私は気にしないで、徹夜なら4日くらいまで経験あるし、暖房で寒くは無かったから」
「いやっ、でも───」
「大丈夫!実は貴方が寝てる間に新しい布団をネットで探してたの。さっき速達で注文したから明日には届くと思うから」
いや、それでこれはチャラにはならないって!
「あっいけない、もう行くね!」
「えっ!?まだ早くないですか?」
「年末で役所も立て込んでるの!色々決めなきゃいけないことがあって、でも終わりは早いと思うから。哀留はゆっくりしてて!じゃあ!」
そう言ってスラっと長い後姿はキッチンから玄関までを駆け抜けていき、あっという間に職場に向かって消えてしまった。1人ヌクヌクとした布団の中に取り残された私の頭を長く寝た後特有の頭痛と眩暈が襲い始めても、流石にあんな夢を見た後ではおいそれと二度寝をしようなんて気分にはなれず、布団から這い出して朝ご飯も食べないままに歯を磨き始めた。
「───ふぉぁ……」
そして泡塗れの汚いため息が漏れる。くだらない思い出を引きずり続ける滑稽な自分を嗤うように。
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