明日の「具」足

社 光

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5話

5話「淡々、担々麺」【3/3】

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 ──ザルッズルルゾ──

 誰だってラーメンは気持ちよく啜りたいと思うはず、私も例に漏れずだ。ただ食べるのが担々麺の場合は話が変わってくる、言ってしまえばカレーうどんと属性としてはほぼ同じなのだコイツは。縮れた中華麺によく絡む胡麻のペーストとラー油の深紅。どちらも麺をすすり上げた瞬間に勢いよく宙を舞う可能性が高く、着ている服によっては十分に致命傷を与えるポテンシャルを持っている。だからいつもの私は担々麺だけは静かに食べる。面の1本1本を唇で感じながら先端から末端までをしっかりと吸いきってなお音を立てない程、まるでうどんチェーンのテレビCMの如し。でも今日今この瞬間だけはそんな食べ方なんて私の頭には残っていない。あの人、榊 奈央の姿を1週間ぶりに目の当たりにしてしまった私の口は大いに荒ぶって辛味に絡んだ麺とスープを壊れた機械のように吸い込み続けていた。

「お客様、ご注文は?」
「まだいい。それより水を」

 慌ただしさを増しつつあった店内でうっすらと聞こえる、というか私が聞き取ろうと必死になっていた彼女の声。感情という物を取りこぼしてしまった帰還兵かと思うような返事。彼女はそんな無愛想な態度で店員さんに注文をせずに注文を付ける。店員さん側も良い気がしないのか彼女からの要求に対して碌に反応を返すことなく対応し始めていた。そんな彼女の座るテーブル席の様子を私はこの5分くらいの間、自分の座るカウンターから店の真ん中の厨房を通して凝視してしまっている。意識が8対2の割合でそっちに向いているもんだから、担々麺を半分くらい食べ進めた時点で私の手元や口周りからは胡麻の豊かな風味が常に香ってくる始末だった。

「ちょっと!」

 昭和のトレンディードラマのヒロインかと思うばかりな高圧的な態度と声でまた店員を呼びつけた榊さん。彼女はメニューを指さしながら店員の男性に対して何かを指摘しているような様子だ。その内容は流石に凍えすぎて聞き取れなかったけど、冷淡な面持ちでひたすらメニューを凝視しながら彼女が話し終えると店員さんは何やら申し訳なさそうな様子でその場に固まってしまっていた。

「た、大変申し訳ございません。迅速に修正させていただきますので──」
「そうして頂けると嬉しいです。それから……塩ラーメンとトッピングのメンマをお願いします」
「かしこまりました……」
「今貴方にできる仕事をなさってください。それが一番の誠意ですから」

 今度はさっきとは違う。数メートル離れた私にもはっきりと聞き取れる明瞭さで彼女は目の前の店員さんにそう伝えた。やがてテーブルに1人になり注文が出てくるまでの間も彼女はひたすらメニューを開いてページを1枚ずつゆっくりとめくる、それはまるで何かを吟味している職人のような面持ちだ。

「ん……ごちそうさまでした」

 そんな様子を厨房を挟んで観察しつつ、並列思考側、自分の食欲を慰める側の私は自分の獲物を完食する。担々麺は麺と一緒に肉味噌も魅力の1つではあるけどなかなかレンゲだけじゃ掬い取るのが難しい。スープと一緒に食べ進めようとすれば気付いたころにはどんぶり一杯分の塩分と油脂も取り込んでしまいかねないからだ。良いお店だと穴の開いた金属のレンゲを一緒に付けてくれてそれでお肉だけを救うことが出来たりするんだけどここには無いみたい。でも美味しかった!胡麻の風味に頼り切らない堅実な所謂「中華味」に花椒の痺れが良いアクセントになっていてとても満足できる味、また来たいと思えるそんな味だった!

「美味しかった、か」

 そんなことを思える位には回復したらしい。まぁあんなことがあった後でラーメン食べて帰ろうなんて思える時点でほとほと図太いんだろうけど……。彼女、榊さんにまた会った時まともに直視できるかも不安だった身からすればこのコンデションは予想以上だ。だけど今はじっとしていよう。今回ばかりは彼女も私を追いかけて来た訳じゃなさそうだし、この場は何事も無く分かれて彼女との交渉の本番に備えて───

「お待たせしました」
「?───あの、ちょっといいですか?」

 立ち上る湯気に覆われて見えた向かい側の熱気が何やら高まってきている。テーブルに置かれた器の中以上に榊さんの表情には静かながらに熱がこもっているようで、注文の品を持ってきた店員の人に対して少しの間無言で視線を投げ続けていた。

「お客様、どうかなされましたか?」
「いえ、確かに私は塩を注文させていただいたと思うんですけど」
「……ですが、伝票の記載には味噌とありまして」
「そちら側の都合だけで物事を断定しないでください。先程の店員の方をお願いします」
「お客様、大変申し訳ないのですが彼は先程体調不良により早退してしまい……私でよろしければ何なりとお伺いいたしますので」
「……もう結構です」

 そう聞こえると椅子を引いて榊さんは立ち上がった。何でか分からないけど、一緒に私も立っていた。向こうと違ってガタンと行儀悪く慌ただしく、立ち上がった勢いのまま早足でカウンターをぐるっと回る。心はマズいと叫び続けていた。あんな散々な別れ方をしての再開でこんなシチュエーション、注文の取り違えの証言をする為だけに彼女に近づく間、先週の光景が一瞬の内に何度もフラッシュバックする。それでも足を強引にヌルッとする床に食い込ませて前に進み、面食らった様子で私を見つめる店員さんと会計に向かって真っすぐ進もうとする榊さんの背中に追いついた。

「あ、あのお客様……どうかなさいましたか?」
「塩!」
「は?」

 店中に響く程の声量でただ一言叫んだ。ディナー前とはいえそれなりの人数とそれに見合った話声が行きかう店内は私の「塩!」で一斉に静まり返り、店中の視線が一斉に私たちの周りに浴びせかけられる。

「し、塩でしょ。そこのっ……彼女が頼んだヤツ」
「お客様───」
「だから塩ラーメン頼んでたの!私聞いてました向かいのカウンターで!なのに貴方は味噌だと言い張って、何でそんなこと……!」
「お客様どうか落ち着いてください。他のお客様のご迷惑になりますので──」
「そこの貴方!」

 前のめりな肩を手で押さえられながらも体を前に乗り出し、私は榊さんの背中に叫んだ。

「なんでハッキリ言わないんです!?自分が正しい事、ちゃんと自信持って言ってくださいよ!」
「お客様!」

 叫んだ拍子に胃袋が口からズリ出そう。テンションと怒りに身を任せて叫ぶ私の姿は傍から見れば狂人そのものだ。肩を掴まれて制止されても上半身から身を乗り出す私の前で、レジの店員さんでさえ怯えた様子の中、榊さんは全く動じずに会計を済ませていた。そして振り返ることなく外に出て行ってしまったのだ。

「ちょっとっ、待って!」

 辺りが静まる。現実ではなく私の耳に雑音が届かなくなっただけ。狭まる視野と意識の先で自分から避けていた人物に向かって呼び掛けているのに無視されるという事実を受け入れることができなかったから。もうじき本当の意味で店の中は静かになるだろう。そしてまた、席の中でヒソヒソと、「頭のおかしい女」について皆が話題を膨らませるのだ。

「榊さん!」





※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※





「今後は入店はお断りさせていただくことになりますので、どうかご了承ください」
「はいそれは、分かってます。それよりお代を──」
「それも結構ですのでどうかお引き取りを。あまり長引くと他のお客様から通報されかねませんので」
「……本当、すいませんでした」

 上着とリュックを両手に抱えて業務用の勝手口から外に出た。12月、クリスマス前の冷たい風の中「ありがとうございました」という言葉も無く満腹で店を出る。これが今日初めて来た店から出禁を喰らった26歳独身女の年末の姿だ。今日も日本は人の良心で溢れている。営業妨害、騒音、奇声、異常行動のオンパレードをかました私を警察に突き出すことも無く、結果的に無銭飲食も追加される形となっても放免にした。してしまった。ダメだよ、こんな危ないやつは牢屋に入れて少しでも反省させないと……。

「……さっぶ」

 そんなことを思う心に応えるように風は吹き付けてくる。身を切る程の冷たさ、「かまいたち」っていうのはこういうモノの事を言うのかな?これでも本場の雪国と比べればこの辺りは暖かい方のハズ、そんな生半可なものにすら打たれて響いている私が何かを訴えたところで、何の説得力もあるはずがない。いや、それ以前に私は……

「あ」

 腕の中で丸めていた上着を広げようと視線を上げたら、そう。

「久、……お久しぶり」

 初めましてだったのはその下がった眉。スキージャンプも出来そうな程に急角度にまで落ち込んで顔にも気迫が無く、初めて会った時の壮烈さも精悍さも、そして最後に見た時のような純真さも無く、ただただ落ち込んだ表情にトッピングされた下がり眉で、榊さんは裏口から出て来た私の前に立っていた。もしかして、私が来るまでずっとここで?自分が店を出てからの1時間の間……ここで待ってたの?

「……どうも」

 日頃はやったりしないせかせかとした仕草で上着を羽織り、口元に襟の布地を寄せてくぐもったふてぶてしい返事を返す。いや返してしまった。こんな子供でも怒られるだろう幼稚な態度、目線を外し口元を隠し、発見した時の距離を保ったまま私は……話した。辛うじて。

「……あっ、だ、大丈夫だった……?」
「何がですか?」
「あの、その……お店の方。結構長い時間いたから……警察でも呼ばれてないかって──」
「やっぱそういう人に見えましたよね」
「あっ!いや見てないわ!見てないけど……、すごく怒ってたから」
「貴方が怒らないからでしょ」

 風切り音が鼓膜を打ち付ける中でもお互いの声は相手にまでしっかりと届いている。私の消え入りそうな程に小さな返事も、彼女の不安そうな擦れた問いも、一度の滞りも無く相手に伝わって、それでもなお私には理解できない。自分の意志が曲げられておいてそれを許した彼女の事が。たとえそれが1日の中のたった1食の事だったとしても。

「……どうして許したんですか?」
「え……?」
「ラーメン……の、塩。頼みましたよね?注文を曲げられたのに何で許したんですか?」
「……それはつまり、貴方は偶然あの店で見かけた私が注文を取り違えられたことに対して怒ってるの?」
「あれは取違いじゃない!奴らっ……あの店員さん達は、わざと注文を捻じ曲げた。貴方に仕返しするために」
「仕返し?」
「メニューについて、何か……怒ってたじゃないですか!?」

 くぐもった陰気な会話のラリーが私の質問で一旦止まり、風の寒さで思わず少しだけ身を震わせた。一方で榊さんは身動き一つせずに顔を伏せて何か思い返すように眉間に皺を寄せる。ほんの10秒にも満たないその動作の後、彼女はどうにも合点がいかない様子で私に聞き返した。

「もしかして、注文の前の時の話?」
「そこ以外にありますか?」

 再び打ち合いが始まるかと思ったその時だった。

「ッぷ、ッカッハはっはははは!!!」
「!?」

 裏路地を飛び越え表にまで届きそうな笑い声。不安げだったさっきまでの様子からは想像もできない程にあっけらかんとした気持ちのいい笑い声に私もさっきまでの態度ではいられない。

「ちょ!?ちょっと何がそんなにおかしいんです!?」
「くはっはは……あぁごめん、ごめんなさい。そう、そうかそうだよね……普通はそうだ……」

 目元に溢れる雫を指ですくいながら彼女は独り言のようにそう呟いた。分からない、だから腹が立つ。自分の心配が当事者にとっては杞憂だっていうことはよくある事だけど、それにしたってここまで大笑いされるのは、嫌だ。さっきまでの彼女であれば多少の同情心はあったけど、ここまでコケにされたのならもう事情なんか──

「──どうでもいい」
「へ?」
「もう終わりにさせて頂けますか?これ以上貴方に関わっていたら私の、私の頭がどうにかなりそうなんです」

 そう言った私に榊さんは何も言い返さない。自らの意志で彼女を拒絶しておいて、そんな彼女の反応が一番私の心に影を落としていく。身勝手に、自分勝手に……分かってるんだそんなこと。

「何処か落ち着ける場所で話をさせてください。事故に付いて、私の取るべき対応についてきっちり決めさせてください。そしてそれが終わったら、もう私の前に現れないで貰えますか?」

 言いたいことをただ言い放って気持ち良くなるような人間にだけはなりたくなかったけど、気にしないように心の隅に置きっぱなしにしていた言葉を吐き出して、私は多分スッキリした顔になってしまっていたと思う。この5年くらいの間で最も波乱だった10日間。その起こりとこの胸のモヤモヤももう終わり。そして私の言葉を聞いた榊さんも、やっぱりどこか寂しそうな顔をしてしまっていた。
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