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3話
3話「肉野菜炒めみたいな、」【1/3】
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「哀留寝てる?」
「起きてふ」
お昼時を過ぎ次のお客のピークを待つ午後2時半、喫茶「エビデンス」の中ではこの世に転がる怠惰の全てを搔き集めて来たかのような暇な時間を迎えていた。寝過ごすことなく始業時間5分前に職場に到着した時点で、私の頭は先日から続く一連の出来事で溜まりに溜まったキャッシュをクリアにする事に追われっぱなしだった。半開きの視覚と何かが詰まったようなくぐもった聴覚を通して外界と接する私に、これから起こる日常的なピークを前に同僚の芽衣子が心配して声をかけてくれたみたい。
「!っ、起きてる!大丈夫、大丈夫だよ」
「もうしっかりしてよ~。ただでさえ今日三ツ矢しかいない日なんだからさ」
「あぁ、そうだったっけ」
「考えただけで嫌になるわ~、あの能面と同じシフトなんてさ」
「もう、声に出して言わないでよそういうの」
カウンターの内側、お客の少ない時間帯と言っても席には何人かが座っている。ただでさえ彼女のひそひそ声が「ひそひそ」になっていないことも考えると質の悪いクレームでは済まなくなってくる可能性だってある。
「あ~はいはい、外野は余計なこと言わない方が良いよね。お客が増える前に話して来たら?」
「……そういう関係じゃないって前に言ったでしょ?」
「ホールでする話じゃないでしょそれこそ。それに私、後の方が良いから先に休憩入っちゃってくれない?横で眠そうな顔されると集中できないしさ」
「───分かった、行ってくる」
「ありがと、持つべきものは話の分かる同僚だよね~」
よく言う。悪い奴ではないけど価値観が古臭いというか、一度思い込んだことはテコでも忘れないところが困る。私がよく店長に仕事を頼まれるっていう光景をそんな風に思い込めるなんて、もしかして私より物書きの才能があるんじゃないか?
「あ───とさん」
はち切れそうなくらいにパンパンになった頭の中ではそんな愚痴めいたことを考える位が精いっぱいだった。休憩室に向かう足取りが揺れていることが自分でも分かる。これは本格的に何か栄養取らないとだめだな、少なくとも身体の方は正直なもんだぜ姉さんよグヘヘ……。
「源さん?」
「ふぁい!」
アホな寸劇が脳内で上演されかかったところに後ろからの呼び声に驚いて間抜けな返事を吐き出す。振り向くとそこにいたのは噂の三ツ矢店長。がっちりとした肩幅に張り出したえら、そして頭1つ半くらい高い位置から見下ろしてくる鋭い眼光は他のバイトや初めてのお客さんからは結構怖がられるけど料理の腕はピカイチだし仕事は丁寧、常連のお客さんほど彼目当てにお店に足を運ぶ割合が高いし私もよく気遣って貰っている。
「大丈夫ですか?一昨日の事と言い、無理そうなら早退しても───」
「だっ、大丈夫ですよ!ここ最近は安定しててこれは何というか……事故みたいなものですから。それにお金ももっと欲しいですし」
「分かりました。でもその調子だとホールでの接客はキツいかもしれませんね。今日は近くの運動場でゲートボール大会をやっているのでこの後かなり混むと思いますから」
ソレはマズイ。平均年齢75歳の土石流にこのコンディションで巻き込まれに行くのは自殺と同じだ。彼らの大半はコーヒーとおしゃべりが目的、オーダーの繰り返しで行ったり来たりのシャトルランになることは無いだろうけど、こんな締まりのない顔をした従業員を見られるというのは責任者としても回避したいんだろう。ともなれば利害は一致した。
「裏だったら何やります?」
「パソコンでの発注をお願いします。ほら、先月入った新人の方。彼に教えてもらうためにも覚えて欲しいんですよ」
「あっはい。でもあの人って芽衣子が教えてるんじゃなかったんですか?」
「実は昨日の終わり際に担当から降ろしてくれと言われまして。続けさせるつもりなら辞めるって言いだすもんですから止むを得なく。彼女が抜けると他の人がきつくなりそうですから」
こういう部分まで考えてくれるのは素直にうれしい。まぁそういう話題を振るのが私にだけだからあらぬ誤解も生むんだけど。
「分かりました。やり方とか、簡単に教えてもらえていただけますか?」
「もちろん。ですけど今から休憩ですよね?」
「『やることが後に待ってる』って思ってたんじゃ気が休まりませんから」
店長は珍しく軽めの笑いを溢すと休憩室の中にある業務用のパソコンを起動させて一通りの発注手順を教えてくれた。ここから業者用の卸問屋のHPに直接アクセスできるらしい。最初から最後まで自分の手で流れを説明すると画面を最初に戻して席を空けてくれた。
「ラストに明日の分の買い出しもお願いしたいので、適当なところで休憩してください」
「心配しているようで、普通に使うんじゃないですか」
「帰らないのであれば動いていただく方が助かりますから。可能ならお願いします」
そう言って店長はパソコンで休憩終了の操作をしてホールに出ていく。扉の向こうからはハキハキシしつつも嫌悪感丸出しの芽衣子の挨拶が聞こえてきて勝手に申し訳なく思いながら、私は目の前の新鮮な仕事に真剣に取り組むために頬を叩いてしゃっきりと画面に向かっていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
作業を初めて1時間くらい経っただろうか?慣れない画面の中の小さい数字を追いかけ続けた目がシバシバしてきたから、一度顔を上げて体を伸ばす。バンザイをした瞬間に体の奥から這い上がってきた疲れが口から溢れ出て自分が出せる最大級のだみ声が休憩室にこだました。
「うぉぬふぉああああ”あ”あ”ー」
これぞワンオペの特権。しばらくの間休憩室に入ってくる人がいないのでホールの方は今まさに佳境を迎えているはずだ。今ばかりは芽衣子も常連のおばさまの世間話相手として愛想笑いに必死になっているに違いない。
「あとは、これだけか」
小麦粉やパンみたいな多量の食材、清掃に使うスポンジや洗剤などはもう個数の指定まで終わっている。あとはクリスマス近くになったら使う用の飾りつけだけ。それも多くない種類だ。マウスで左クリックをする指先の感覚が眠気でぼやけて来たけどあとちょっとだけ頑張らないと……。
「ふ……っむが!」
一瞬の死。眠気の波によって僅かに途切れた意識の向こうでそのとき惨事は起こった。全部の発注品の指定を終えてソレの配送日の設定をしていた際に起こったソレによって、私に右手は目にも止まらぬ華麗なトリプルクリックを披露したのだ。置かれたカーソルの下にあったのは「個数の変更」の文字列、更に普段全くもって勤労意欲を感じさせないうちの店のネット回線がこの時ばかりはフル回転し、クリックの1回目は「飾りつけの個数」を2回目は「10を100に」、そして3回目は「注文を確定する」を正確に射抜いていた。
「あっ……!」
正気に戻ると画面いっぱいに「注文を承りました」という文字が時代遅れのご機嫌な絵文字と一緒に並んでいる。一気に意識が現実に引き戻されて全身に寒気と鳥肌が駆け巡った。
「やっばぁ……!!!」
慌ててメールボックスをチェックする。そこには卸し業者からの返信がしっかりと届いていて、自分のミスの裏をしっかりと取られている形になってしまっていた。「クリスマス用オーナメント:個数105個」の表示に大慌てで私は発注に使った画面の中から注文をキャンセルする方法を探し始める。だけど上から下までスクロールしようが前の画面に戻って更新を連打しようが文字と文字の間の空白をドラッグしようがそういった操作が出来そうな個所は見当たらない。個人で使う通販サイトと業者用の卸売り発注サイトでは根本的な作りが違うっていう事!?
「あぁあ、どうしよ……」
「どうかしました?」
背中に電流が奔る。右手から聞こえた今一番聞きたくない声に対して向き直り、ページが開きっぱなしになっているパソコンの画面を塞ぐ体勢になった私に、さっきに比べてかなりトーンの落ちた声で休憩室に戻った三ツ矢店長が話しかけてきた。
「いえ!なんでも!」
「休憩、まだ取ってないみたいですね」
「あっ、はい……」
「表が予想より早く落ちついたので、できれば芽衣子さんも休憩に入れたいんですけど」
「じゃ!じゃあ今から入ってもいいですか!?」
椅子から飛び上がり目の前で宣誓するかの如く大声で申し出る部下に面食らった様子ではあったけど、店長は特に何かを疑う訳でもなく逆に安心したようにそれを許可してくれた。
「早いですね、もう発注終わったんですか?」
「え?あっ、はいもちろん店長が非常に分かりやすく教えて下さったお陰で非常にスムーズに何のトラブルも無く最後の方まで進められました!……ただ、一応問題なく出来てるか不安なので……確定の前で止めてあって、休憩終わりにチェックして頂いても構いませんか?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
首の皮一枚繋がった。1時間の休憩時間、それだけあれば何らかの対処ができるはず!ミスの報告は自分で打てる手が無くなった時まで取っておけばいい……
「ん?どこか出られるんですか?」
「じぃ、実は駅前に最近美味しい焼きそばの専門店が出来たって聞いて……歩いて食べに行ってこようかって」
昨日の朝のように視線を維持したままじりじりと距離を取って休憩室の出口にまで後退していく。今の私の頭の中では発注サイトの中のお問い合わせフォームの位置を必死に思い出す作業が行われていた。これ以上気の利いた言い訳なんて思い浮かばん!
「分かりました。遠出をされるなら気を付けてください」
「ハイ分かりましたぁー!」
満を持した許可が出され上着をひっつかんで休憩室を飛び出した。ホールの脇を抜けて外に出ていくときに後ろから芽衣子の恨み言が聞こえた様な気もするけど今はそんな場合じゃない!一刻も早くメールか電話でキャンセルの問い合わせをしなければ!大慌てで飛び出したせいで店の前の縁石に躓きそうになりながら、スマホを取り出して従業員用の店舗アクセスページに入り、そこのリンクから発注サイトのページにまで飛ぶと問い合わせ先を確認してすぐさまそこのアドレスにキャンセル希望の旨でメールを送った。
そのまま1分が経ち、3分が経ち、4分15秒が経過しても返信は来ない。ヤバい、このままじゃ時間を浪費するだけ……!電話で早急に対応してもらった方が良い!メールボックスとのにらめっこを止めてダイヤル画面で番号を打ち込み、あとはまた待つ、ただ待つしかないのがもどかしいったらない。
「うぅ~まだぁ?出てよ出てよ出てよぉ……」
コール音が続く……10回、20回……1分余りにしか満たない時間が永遠にも思える程で、回数が増すたびに心臓の鼓動は強くなっていった。そして、電話は繋がる!
「──はいもしもし?───」
……?誰かの家に間違い電話でもしたかと思って慌てて番号を確認した。確かにホームページに載っている卸問屋の番号で間違いない。
「あの……先程、キャンセルの件でメールさせて頂きました。喫茶エビデンスの者なんですが……、卸しの岬屋さんのお電話で間違いないですよね?」
「───まぁ、そうですけど───」
「あ、あのキャンセルのお話を」
「───あ~……申し訳ありませんが担当の者が外しておりますので、失礼いたします───」
「えっ!?あのちょっと!」
───失礼します───
ブツっと無情な切断音が鼓膜に打ち付けられて電話が切られる。終わった……もう素直に報告した方が良い、ミスは生物、鮮度が落ちた頃には取り返しのつかないことになる。店長に謝って今週末にクリスマス前倒し大祝賀祭を開催して貰……
『───まぁ、そうですけど───』
『───まぁ、そうですけど───』
『───まぁ、そうですけど───』
「ふぎぎぃ!」
その時自分の中で何かが燃えた。理不尽に対する純粋な怒り。正当性とかを放棄した自己中心的極まりない感情であっても一度点火すれば自分の意志では消えることの無い心の炎。格がとか立場だとかいったまどろっこしい社会的立場が頭からすっぽりと抜け落ちて、私は怒った。ただ怒った。愚かに怒った。
「あの野郎……!」
こういう時だけは行動は早い。休憩室に戻って店長に早めに明日の買い出しに向かう旨を伝えると返事も待たずに自転車に飛び乗る。岬屋は地元系の問屋、事務所はここから駅2つ。クレーマー精神が臨界にまで高まった私は自分の中で発生しまくっているこの熱を使ってペダルを回しまくり、単身で敵地へと疾走していった。
「起きてふ」
お昼時を過ぎ次のお客のピークを待つ午後2時半、喫茶「エビデンス」の中ではこの世に転がる怠惰の全てを搔き集めて来たかのような暇な時間を迎えていた。寝過ごすことなく始業時間5分前に職場に到着した時点で、私の頭は先日から続く一連の出来事で溜まりに溜まったキャッシュをクリアにする事に追われっぱなしだった。半開きの視覚と何かが詰まったようなくぐもった聴覚を通して外界と接する私に、これから起こる日常的なピークを前に同僚の芽衣子が心配して声をかけてくれたみたい。
「!っ、起きてる!大丈夫、大丈夫だよ」
「もうしっかりしてよ~。ただでさえ今日三ツ矢しかいない日なんだからさ」
「あぁ、そうだったっけ」
「考えただけで嫌になるわ~、あの能面と同じシフトなんてさ」
「もう、声に出して言わないでよそういうの」
カウンターの内側、お客の少ない時間帯と言っても席には何人かが座っている。ただでさえ彼女のひそひそ声が「ひそひそ」になっていないことも考えると質の悪いクレームでは済まなくなってくる可能性だってある。
「あ~はいはい、外野は余計なこと言わない方が良いよね。お客が増える前に話して来たら?」
「……そういう関係じゃないって前に言ったでしょ?」
「ホールでする話じゃないでしょそれこそ。それに私、後の方が良いから先に休憩入っちゃってくれない?横で眠そうな顔されると集中できないしさ」
「───分かった、行ってくる」
「ありがと、持つべきものは話の分かる同僚だよね~」
よく言う。悪い奴ではないけど価値観が古臭いというか、一度思い込んだことはテコでも忘れないところが困る。私がよく店長に仕事を頼まれるっていう光景をそんな風に思い込めるなんて、もしかして私より物書きの才能があるんじゃないか?
「あ───とさん」
はち切れそうなくらいにパンパンになった頭の中ではそんな愚痴めいたことを考える位が精いっぱいだった。休憩室に向かう足取りが揺れていることが自分でも分かる。これは本格的に何か栄養取らないとだめだな、少なくとも身体の方は正直なもんだぜ姉さんよグヘヘ……。
「源さん?」
「ふぁい!」
アホな寸劇が脳内で上演されかかったところに後ろからの呼び声に驚いて間抜けな返事を吐き出す。振り向くとそこにいたのは噂の三ツ矢店長。がっちりとした肩幅に張り出したえら、そして頭1つ半くらい高い位置から見下ろしてくる鋭い眼光は他のバイトや初めてのお客さんからは結構怖がられるけど料理の腕はピカイチだし仕事は丁寧、常連のお客さんほど彼目当てにお店に足を運ぶ割合が高いし私もよく気遣って貰っている。
「大丈夫ですか?一昨日の事と言い、無理そうなら早退しても───」
「だっ、大丈夫ですよ!ここ最近は安定しててこれは何というか……事故みたいなものですから。それにお金ももっと欲しいですし」
「分かりました。でもその調子だとホールでの接客はキツいかもしれませんね。今日は近くの運動場でゲートボール大会をやっているのでこの後かなり混むと思いますから」
ソレはマズイ。平均年齢75歳の土石流にこのコンディションで巻き込まれに行くのは自殺と同じだ。彼らの大半はコーヒーとおしゃべりが目的、オーダーの繰り返しで行ったり来たりのシャトルランになることは無いだろうけど、こんな締まりのない顔をした従業員を見られるというのは責任者としても回避したいんだろう。ともなれば利害は一致した。
「裏だったら何やります?」
「パソコンでの発注をお願いします。ほら、先月入った新人の方。彼に教えてもらうためにも覚えて欲しいんですよ」
「あっはい。でもあの人って芽衣子が教えてるんじゃなかったんですか?」
「実は昨日の終わり際に担当から降ろしてくれと言われまして。続けさせるつもりなら辞めるって言いだすもんですから止むを得なく。彼女が抜けると他の人がきつくなりそうですから」
こういう部分まで考えてくれるのは素直にうれしい。まぁそういう話題を振るのが私にだけだからあらぬ誤解も生むんだけど。
「分かりました。やり方とか、簡単に教えてもらえていただけますか?」
「もちろん。ですけど今から休憩ですよね?」
「『やることが後に待ってる』って思ってたんじゃ気が休まりませんから」
店長は珍しく軽めの笑いを溢すと休憩室の中にある業務用のパソコンを起動させて一通りの発注手順を教えてくれた。ここから業者用の卸問屋のHPに直接アクセスできるらしい。最初から最後まで自分の手で流れを説明すると画面を最初に戻して席を空けてくれた。
「ラストに明日の分の買い出しもお願いしたいので、適当なところで休憩してください」
「心配しているようで、普通に使うんじゃないですか」
「帰らないのであれば動いていただく方が助かりますから。可能ならお願いします」
そう言って店長はパソコンで休憩終了の操作をしてホールに出ていく。扉の向こうからはハキハキシしつつも嫌悪感丸出しの芽衣子の挨拶が聞こえてきて勝手に申し訳なく思いながら、私は目の前の新鮮な仕事に真剣に取り組むために頬を叩いてしゃっきりと画面に向かっていった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
作業を初めて1時間くらい経っただろうか?慣れない画面の中の小さい数字を追いかけ続けた目がシバシバしてきたから、一度顔を上げて体を伸ばす。バンザイをした瞬間に体の奥から這い上がってきた疲れが口から溢れ出て自分が出せる最大級のだみ声が休憩室にこだました。
「うぉぬふぉああああ”あ”あ”ー」
これぞワンオペの特権。しばらくの間休憩室に入ってくる人がいないのでホールの方は今まさに佳境を迎えているはずだ。今ばかりは芽衣子も常連のおばさまの世間話相手として愛想笑いに必死になっているに違いない。
「あとは、これだけか」
小麦粉やパンみたいな多量の食材、清掃に使うスポンジや洗剤などはもう個数の指定まで終わっている。あとはクリスマス近くになったら使う用の飾りつけだけ。それも多くない種類だ。マウスで左クリックをする指先の感覚が眠気でぼやけて来たけどあとちょっとだけ頑張らないと……。
「ふ……っむが!」
一瞬の死。眠気の波によって僅かに途切れた意識の向こうでそのとき惨事は起こった。全部の発注品の指定を終えてソレの配送日の設定をしていた際に起こったソレによって、私に右手は目にも止まらぬ華麗なトリプルクリックを披露したのだ。置かれたカーソルの下にあったのは「個数の変更」の文字列、更に普段全くもって勤労意欲を感じさせないうちの店のネット回線がこの時ばかりはフル回転し、クリックの1回目は「飾りつけの個数」を2回目は「10を100に」、そして3回目は「注文を確定する」を正確に射抜いていた。
「あっ……!」
正気に戻ると画面いっぱいに「注文を承りました」という文字が時代遅れのご機嫌な絵文字と一緒に並んでいる。一気に意識が現実に引き戻されて全身に寒気と鳥肌が駆け巡った。
「やっばぁ……!!!」
慌ててメールボックスをチェックする。そこには卸し業者からの返信がしっかりと届いていて、自分のミスの裏をしっかりと取られている形になってしまっていた。「クリスマス用オーナメント:個数105個」の表示に大慌てで私は発注に使った画面の中から注文をキャンセルする方法を探し始める。だけど上から下までスクロールしようが前の画面に戻って更新を連打しようが文字と文字の間の空白をドラッグしようがそういった操作が出来そうな個所は見当たらない。個人で使う通販サイトと業者用の卸売り発注サイトでは根本的な作りが違うっていう事!?
「あぁあ、どうしよ……」
「どうかしました?」
背中に電流が奔る。右手から聞こえた今一番聞きたくない声に対して向き直り、ページが開きっぱなしになっているパソコンの画面を塞ぐ体勢になった私に、さっきに比べてかなりトーンの落ちた声で休憩室に戻った三ツ矢店長が話しかけてきた。
「いえ!なんでも!」
「休憩、まだ取ってないみたいですね」
「あっ、はい……」
「表が予想より早く落ちついたので、できれば芽衣子さんも休憩に入れたいんですけど」
「じゃ!じゃあ今から入ってもいいですか!?」
椅子から飛び上がり目の前で宣誓するかの如く大声で申し出る部下に面食らった様子ではあったけど、店長は特に何かを疑う訳でもなく逆に安心したようにそれを許可してくれた。
「早いですね、もう発注終わったんですか?」
「え?あっ、はいもちろん店長が非常に分かりやすく教えて下さったお陰で非常にスムーズに何のトラブルも無く最後の方まで進められました!……ただ、一応問題なく出来てるか不安なので……確定の前で止めてあって、休憩終わりにチェックして頂いても構いませんか?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
首の皮一枚繋がった。1時間の休憩時間、それだけあれば何らかの対処ができるはず!ミスの報告は自分で打てる手が無くなった時まで取っておけばいい……
「ん?どこか出られるんですか?」
「じぃ、実は駅前に最近美味しい焼きそばの専門店が出来たって聞いて……歩いて食べに行ってこようかって」
昨日の朝のように視線を維持したままじりじりと距離を取って休憩室の出口にまで後退していく。今の私の頭の中では発注サイトの中のお問い合わせフォームの位置を必死に思い出す作業が行われていた。これ以上気の利いた言い訳なんて思い浮かばん!
「分かりました。遠出をされるなら気を付けてください」
「ハイ分かりましたぁー!」
満を持した許可が出され上着をひっつかんで休憩室を飛び出した。ホールの脇を抜けて外に出ていくときに後ろから芽衣子の恨み言が聞こえた様な気もするけど今はそんな場合じゃない!一刻も早くメールか電話でキャンセルの問い合わせをしなければ!大慌てで飛び出したせいで店の前の縁石に躓きそうになりながら、スマホを取り出して従業員用の店舗アクセスページに入り、そこのリンクから発注サイトのページにまで飛ぶと問い合わせ先を確認してすぐさまそこのアドレスにキャンセル希望の旨でメールを送った。
そのまま1分が経ち、3分が経ち、4分15秒が経過しても返信は来ない。ヤバい、このままじゃ時間を浪費するだけ……!電話で早急に対応してもらった方が良い!メールボックスとのにらめっこを止めてダイヤル画面で番号を打ち込み、あとはまた待つ、ただ待つしかないのがもどかしいったらない。
「うぅ~まだぁ?出てよ出てよ出てよぉ……」
コール音が続く……10回、20回……1分余りにしか満たない時間が永遠にも思える程で、回数が増すたびに心臓の鼓動は強くなっていった。そして、電話は繋がる!
「──はいもしもし?───」
……?誰かの家に間違い電話でもしたかと思って慌てて番号を確認した。確かにホームページに載っている卸問屋の番号で間違いない。
「あの……先程、キャンセルの件でメールさせて頂きました。喫茶エビデンスの者なんですが……、卸しの岬屋さんのお電話で間違いないですよね?」
「───まぁ、そうですけど───」
「あ、あのキャンセルのお話を」
「───あ~……申し訳ありませんが担当の者が外しておりますので、失礼いたします───」
「えっ!?あのちょっと!」
───失礼します───
ブツっと無情な切断音が鼓膜に打ち付けられて電話が切られる。終わった……もう素直に報告した方が良い、ミスは生物、鮮度が落ちた頃には取り返しのつかないことになる。店長に謝って今週末にクリスマス前倒し大祝賀祭を開催して貰……
『───まぁ、そうですけど───』
『───まぁ、そうですけど───』
『───まぁ、そうですけど───』
「ふぎぎぃ!」
その時自分の中で何かが燃えた。理不尽に対する純粋な怒り。正当性とかを放棄した自己中心的極まりない感情であっても一度点火すれば自分の意志では消えることの無い心の炎。格がとか立場だとかいったまどろっこしい社会的立場が頭からすっぽりと抜け落ちて、私は怒った。ただ怒った。愚かに怒った。
「あの野郎……!」
こういう時だけは行動は早い。休憩室に戻って店長に早めに明日の買い出しに向かう旨を伝えると返事も待たずに自転車に飛び乗る。岬屋は地元系の問屋、事務所はここから駅2つ。クレーマー精神が臨界にまで高まった私は自分の中で発生しまくっているこの熱を使ってペダルを回しまくり、単身で敵地へと疾走していった。
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