クロワッサン物語

コダーマ

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【1664年8月 ザンクト・ゴットハルト2】

1664年8月 ザンクト・ゴットハルト ~ あの日のことば

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 これは、今から十九年前に起こった戦闘の記録である。

 びしっ。
 不意に、異質な音が響いた。
 同時に地面が盛りあがる。
 立ち竦む子供らの前に白い腕が、土を撒き散らす勢いで地から生えてきた。
 大地から突き出た、それは花のよう。
 粗末な布をまとった茎と、固く開かぬ蕾の指。


 戦場となった村は悲惨だ。
 家は荒らされ、食糧は奪われる。
 兵士の死体に混ざって村人の遺体が転がることも珍しくない。
 火が出る場合もあり、村の半分が灰燼に帰すことだって少なからず起こりえたのだ。

 わざわざ村を舞台に戦闘を行ったわけではない。
 だが戦場の近くに位置する集落は戦闘地域の移動や拡大、あるいは逃げる兵の通り道となることがある。
 村人たちに非などあろうはずがない。
 ただ、そこに居合わせたということが不運な死を招くのだ。

 本日の戦闘で神聖ローマ帝国軍は、オスマン帝国軍を敗走に追い込んだ。
 輝かしい勝利──の結果が、これだ。

 ひとつの村が壊滅した。
 あちこちで火がくすぶり、略奪と惨殺の名残が窺い知れる。
 シュターレンベルクは馬を降りた。
 哀れでならない。その場にうずくまったまま固まる子供らの元へ近付く。

 彼らの眼前に咲く地面から生えた人間の腕──こいつのからくりは死後硬直という現象である。
 周囲の温度の変化で筋肉が縮み、骨の鳴る音と共に、まるで踊るように死体が動くのだ。
 よくある現象で、墓から突き出た手や足は怪談の種にもなっている。

 とは言え、戦いのとばっちりを受けて死体となり、土埃に埋もれてしまった村人の無念はいかばかりか。
 そしてその復活を目の当たりにした子供に、そんな道理を説明してやったところで恐怖から解放されるわけでもあるまい。

 姉弟であろう。
 幼い少女と、さらに小さな少年。
 弟が姉にしがみつくようにして、その場に座り込んでいる。
 近付くと二人が死体の腕に衝撃を受けているわけではないということが分かった。

 二人の瞳は虚ろで、視線は宙をさ迷っているだけだ。
 凍り付いたように動かない表情。
 泣くことすらできない。
 村が──あるいは二人の家族が──晒されたむごたらしい運命を、ただただ呆然と眺めているだけなのだろう。

「これを……」

 シュターレンベルクが上着のポケットから取り出したのは糧食のパンの塊であった。
 保存がきくという理由だけで行軍に携帯する、岩のように硬いパンがちょうど二つ残っていたのだ。
 戦いが長丁場になった場合に備えて、とりあえずポケットに突っ込んでいたものである。
 二人の手に握らせてやろうとする。
 弟は奪うように受け取ったが、姉の方は戸惑いと反発からか手を引っ込めてしまった。

「い、いりませんわっ!」

 予想外に澄んだ声。
 施しを拒否することで精いっぱい怒りを表しているのかもしれない。
 やせ細って泥にまみれているが、よく見ると金色の髪と緑の瞳が美しい姉弟であった。

「誇り高いんだな」

 どうか自尊心を失わずに育ってくれ──呻くようにそう告げて、もう一度女の子の冷たい手にパンを握らせる。
 今度は少女は拒まなかった。
 シュターレンベルクを見上げる瞳に、僅かな光が瞬いた気がする。

「ああ、そうだ」

 一昨日、補給で立ち寄った村で焼き立てのパンをもらったのを忘れていた。
 勿論もう焼き立てという状態ではないが、先のパンに比べればはるかに柔らかい筈。
 鞍に括り付けたマスケット銃の弾丸の小袋に突っ込んだことを思い出した。

「これだ……うわ」

 紙に包んで入れたものの、パンには火薬の匂いがしみついている。
 そのうえ、生地には油脂が練り込んであるらしくベトベトだ。
 こんなものを子供にやるわけにはいかないと、袋にしまいかけた時だ。

 腰のベルトをぐいと引っ張られた。
 見ると弟の方が精一杯こちらに手をのばしてくる。
 驚いたことに最初にやった固いパンはもう食べてしまったようだった。

「く、食うか? 大丈夫か?」

 半分に割って一つを少女に、もう一つを少年の手に握らせる。
 瞬間、少年がパカッと口を開けた。
 笑顔だ。

「ありがとぉ」

 早速、口の中いっぱいに頬張って、何を言っているか分からない。
 だが、僅かに触れた手の何とあたたかいこと。

「……ごめんな」

 犠牲者、という言葉が脳裏に浮かんだ。
 帝国の戦争のために全てを失ったであろう彼らに、自分は手持ちのパンをやるしかできないなんて。
 シュターレンベルクはその後すぐに村を引き上げた。
 オスマン帝国軍の追撃を行わなくてはならない。



 戦場は常に地獄を孕むものだが、かの国を舞台に行われた戦いは何年たっても脳裏に刃物を突き立てられたような鋭さで残った。
 弱者から順に傷付き、飢えて、死ぬ。
 それが戦争の真実。

 軍人であることを恥じずに生きていたいなら、せめて彼らを見捨てるようなことだけはすまい──そう誓ったのは、十九年前のあの日のことであった。
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