クロワッサン物語

コダーマ

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カーレンベルクの戦い

カーレンベルクの戦い(10)

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 ゴウ。
 目の前の空気が振動した。
 湾曲した刃が頭上に迫る。
 視線を逸らす暇などないはずだ。
 自分の周りの敵兵とその殺気に、今は全神経を集中させろ。

 上体を捻って辛うじて刃を避けると、シュターレンベルクは左手を捻るように剣を振る。
 ヤタガンの柄を握り締めた敵兵の手首を、シュターレンベルクの切っ先が僅かに掠めた。
 咄嗟のことに獲物を取り落とした相手に背を向け、落馬した味方の元へにじり寄る。
 斬撃は待ってはくれない。
 今度は逆方向から繰り出されるそれを受け止める。

「何やって……閣下っ!」

 バーデン伯の叫び声。

「陣形は崩すな。それより俺の馬を!」

 返事の代わりにシュターレンベルクは怒鳴った。
 突撃を止めるてしまえば敵方の思うつぼ。
 動きを止めた者から料理される。
 味方が馬から引きずり降ろされては、雪崩をうつように攻勢は一気に崩れよう。
 自分だって馬にさえ戻ることができれば状況は打破できる。

 背中に重み。
 張り付くようにぴたりと味方の背が合わせられる。
 互いに背後からの攻撃を防ぎつつ、敵の戦闘力を削ぐために小さな攻撃を矢継ぎ早に繰り出す。
 僅かな傷を与えただけで相手は引くが、代わりがすぐに押し寄せる。

 グイード隊とバーデン隊があちらで敵を大いに引きつけているのと、マスケット部隊がじりじりと間を詰めながらこちらに近付いて来るのが、敵の兵力を削ぐのに役に立っている。
 だが、長くは持つまい。
 腕に頬に首に、刃が掠めた皮膚が熱く引きつるのが分かる。

「閣下、馬を!」

 一点に集中した攻撃で辛うじて道を開けて、マスケット隊の兵士がようやくこちらへ近付いてきた。
 主人を失って足を止めた馬の手綱をとって。
 助かったと僅かな安堵。
 その瞬間だ。

「死ねっ!」

 その声はやけに近くに聞こえた。
 馬に視線が逸れたせいだ。
 反応が一瞬遅れた。
 眼前にヤタガンのきらめきが迫り、髭面の男と視線が絡み合う。
 黒髪と、生やしっぱなしの黒い髭に幼げな容姿を隠した兵士は目を見開き、必死の形相で向かってくる。

 ああ、とシュターレンベルクの口からため息が漏れた。
 俺はこの男に殺されるのか。
 余所の国の若造にやられるのか。
 つまらない。
 それだったらパン屋に殺られてやりゃ良かったな、
 いやあいつに人殺しは無理かなんて呑気な考えが浮かんでは消える。
 自分が出て行った後も、あいつは王宮のあの部屋でめそめそしているのだろうと思った──その時だ。

「これをっ!」

 左側から叫び声。
 何かが飛んでくる。
 咄嗟に剣を右手に持ち替え、前腕の激痛にそれを手放してしまう。
 しかし、左手には飛んできたそれがするりと収まった。
 マスケット銃だ。
 装填も既に済んでいるのは、手に持った重さで分かる。
 先程失った愛用のものではないものの、充分頼もしい。
 剣より余程手に馴染んだそれは、思考より先に持ち主の指を動かした。

 戦場にもよく響く発砲音と、手首にかかる慣れた反動。
 硝煙の匂いと灰色の煙。
 同時に、目の前の黒髪はその場に崩れ落ちた。
 その隙をつくように部下が馬をつれて駆け寄ってきて、指揮官は鞍に飛び乗る。

「悪いな、フラン、ツ……」

 無意識に口をついて出た名を、そんな筈はない。
 あいつがここにいる筈がないだろうと慌てて呑み込む。
 いつものように銃の装填をして甲高い声で「ハイッ」と手渡してくれる様が脳裏に蘇る──馬鹿な。
 いつものようにだと? 小僧を相棒に戦闘に参加したのはたったの二回ではないか。

 浮足立つなと己に言い聞かせるように呟いて、感情を沈める。
 今は隊列を整え直すことが最重要ではないか。
 左側に顔を向けたのはごく自然な動きだった。
 そしてぎこちない動作で馬を寄せてくる息子の姿をそこに見付ける。

「リヒャルト、お前か……」

 銃を放ってくれたのはリヒャルトであったのか。

「父上、早く!」

 落馬した部下の腕をつかんで立ち上がらせてから、急いでグイードとバーデン伯の動きを確認する。

「早く! 父上、早くください」

「あ? ああ」

 早くと急かされたのは、さっさと隊列に戻れという意味ではなくて、装填するから銃を寄越せということか。
 その証拠にリヒャルトは市長が作った包みの端を歯で噛み切って待っている。
 早く早くと泣き出しそうに顔を歪めているのは、慣れぬ戦場で極度の緊張に襲われているからだと分かった。

「リヒャルト、頼む」

 だが銃を受け取る手は震えることなく、頼もしい。
 息子に装填を任せて、シュターレンベルクは戦場を見回した。
 グイード隊とバーデン隊がこの周囲の敵兵を蹴散らしている。
 おかげで素早くマスケット隊を立て直すことができた。
 シュターレンベルクらが銃で援護する中、さらに何度かグイード、バーデンが包囲網を鋭く破る。

「一旦退くぞ」

 その命令に、両名は明らかに不服そうな表情を返した。
 もう十分だ。
 敵の陣形を崩す。この行為を包囲の鎖の何か所かで数度繰り返せば、救援軍とも合流できよう。



 守備隊と救援軍がウィーン周辺で戦闘を繰り広げること半日。
 ポーランド軍の前進によりカラ・ムスタファ・パシャ本隊がじわりと後退を始めた。

 その機を逃さず、ウィーンの森からポーランド王ヤン三世旗下三千の騎兵がオスマン帝国軍中央突破を敢行、これを分断することに成功。
 カラ・ムスタファ・パシャのいる本営まで突撃を行った。
 たまらず敗走に転じたオスマン軍の背に救援軍は銃弾を浴びせる。

 その日の日没前に、オスマン兵はウィーンの包囲を解いて退却を開始した。



「父上! 父上、敵軍が退いてゆきます」

「兄上、あれを見よ。救援がそこまで!」

「閣下、どういうことだ。信じらんねぇ」

 矢継ぎ早に繰り出される、これは声の槍か。
 キンと高い音を立てる耳を指で押さえながら、シュターレンベルクは雑然と散らかった戦場を眺めた。
 兵士の死体や装備品、携行品の類から、遠くの方には天幕まで見える。
 オスマン帝国軍の、それは切羽詰まった撤退であったことが窺えよう。

「戦いは我々の勝利だ。ウィーンに戻って門を開けるぞ。陛下と解放軍を迎えよう」

 兵士らが歓声で応える。
 馬上揺られながら、グラシを抜けケルントナー門に向かっているところである。

 不意にシュターレンベルクは眠気に襲われた。
 部下の前で馬に乗りながらの居眠り姿など見せられまい。
 ぶるぶると首を振ってそれを振り払うと、今度はグゥと派手に腹が鳴る。
 傍らで何故かリヒャルトが顔を赤らめた。
 腹も減るか。無理もない。
 この半日、飲まず食わずでいたのだから。

「パンが食いたいな」

 呟いた声が風に乗って空に吸い込まれた瞬間、シュターレンベルクの眼前にあの日の光景が蘇った。
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