クロワッサン物語

コダーマ

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カーレンベルクの戦い

カーレンベルクの戦い(7)

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     ※ ※ ※

「シュターレンベルク伯はどこへ消えた! こんな時に……クソッ!」

 喚いているのはバーデン伯である。

 兵の士気に関わるようなことは大声で言うべきではないというのが軍隊の鉄則だ。
 指揮官の不在が知られては兵士は無論、この場合市民らに聞かれてもまずいことになるのにと、隣りでリヒャルトは気をもんだ。

 だが今日ばかりは兵士も、そして市内にいる大勢の者たちも、一将校の愚痴など気にも留めない。
 負の部分を補って余りある希望が、今の彼らには見えているのだ。

 まず陵堡に詰める兵士、そして堡塁を巡回する歩哨らが歓声をあげた。
 グラシの向こうに広がる平野には、相変わらずオスマン帝国の大軍が厚く布陣している。
 しかしその奥の丘陵地帯には、初めて見る赤と金の旗が幾つも靡いているではないか。
 リヒャルトがシュテッフルの塔から見た光景だ。

 それは壮観の一語につきた。
 地平線を埋め尽くす人馬の群れ。
 今までとは違う。
 それらは敵ではなく、味方の軍勢なのだ。

 その数六万五千。
 はやる心を押さえなければならない。
 今すぐ門を開けて敵軍を蹴散らし、救援軍を迎え入れたい。

 だが、今は駄目だ。
 時を待て。
 市門を開くに最も効果的な瞬間を計るのだ──思考ではなく、嗅覚で。
 リヒャルトもグイードも、バーデン伯でさえもそれは承知していた。

「出来れば壁の近くで戦いたいところであるな。陵堡からの援護を受けられるように」

「ですが壁の近くで戦闘となると、市に危険が及んでしまうのではないでしょうか」

 グイードとリヒャルトの会話も、息を詰めたように小声になってしまう。

 出撃準備は整っていた。
 兵らは隊列を組み、装備も点検済だ。
 あとは市門を開ける合図を待つばかり。

「父上……」

 無意識のうちに、リヒャルトはそう呟いていた。



     ※ ※ ※

 一六八三年九月十一日。

 救援軍前衛部隊とオスマン帝国軍一部の間で小競り合いが勃発する。
 本格的な戦闘行為が開始されたのは、翌十二日早朝のことであった。
 カーレンベルクの戦いである。

 午前四時。
 ドナウ河岸の丘陵に軍幕を張るオスマン軍右翼に、救援軍が戦いを仕掛けたのだ。
 オスマン帝国軍は大軍であったが、拠点はウィーンを取り巻く各所に散らばっており、イェニチェリなどを除く一部の精鋭を除けば奇襲への対処能力は低い。

 六時にはオスマン軍右翼の一部を河の分岐点まで後退させることに成功した。
 オスマン帝国大宰相カラ・ムスタファ・パシャの命でイェニチェリ軍副団長が救援に向かうも、救援を待つことなく右翼は後退を繰り返す。

 別の地点では救援軍主力がカーレンベルク丘陵に到達する。
 すかさず、オスマン帝国軍前衛部隊がそちらに向けて砲撃を開始した。
 さらに騎兵が丘陵に攻め込む。

 突撃と後退を何度か繰り返した後、救援軍は前衛に歩兵、後衛に騎兵を配し一気に傾斜面を下って平地に突き進んだ。
 一時間の戦闘の後、救援軍は左右に展開してオスマン前衛部隊を包囲。

 そのころ、カーレンベルクの丘では教皇特使であるカプツィン会司祭マルコ・ダヴィアノ神父により、救援軍総司令官ヤン三世と彼の家臣たちはミサに与っていた。
 この後、総攻撃が開始されるのはこの場にいる誰の目にも明らかである。
 戦闘に巻き込まれた一部のオスマン帝国軍は、外から来る救援軍に対して後退するようにウィーンに背を向ける。

 じりじりと後ずさり、グラシに足を踏み入れた時のことだ。
 ゆっくりと市門が開かれたのは。

     ※ ※ ※
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