75 / 87
カーレンベルクの戦い
カーレンベルクの戦い(5)
しおりを挟む
こんなに近く居たのかという思い。
それから──。
「なんでこんな地面の下に……?」
疑問が、悔恨の念と共に押し寄せる。
「僕の姉さんだよ」
「フランツ、すまない」
シュターレンベルクの呟きに、パン屋は静かにうなだれた。
マルギトという名字を、彼女ははじめに名乗ってくれたに違いない。
だが、シュターレンベルクの記憶には残らなかった。
後ろ暗い罪の意識がじわりと滲む。
「僕はパリのパン屋に修行に出たから。だから姉さんとは十年も会ってない。でも、いつも思ってた。姉さんのことを」
誇り高く生きましょうねって、姉さんはいつも言ってた──フランツの呟きが、地面に染みこむ。
「フランツ、すまない……」
愛する女によく似た顔を、シュターレンベルクは直視することができなかった。
記憶をたどるような調子の震え声は、ゆっくりと言を紡ぎ続ける。
「この部屋に入ったとき……窓の向こうに緑色が見えたんだ。優しい色で、僕が大好きな色。最初は宝石が落ちてるのかと思った」
──でも違った。
そこにあったのは懐かしい姉の、無残な亡骸。
「……フランツ、すまない」
よく似ているなんて話じゃない。
双子というわけではないようだが、二人の顔は瓜二つであった。
だが、雰囲気はまったく違った。
エルミアがいつも思いつめたように目元に力を入れていたのとは対照的に、パン屋は底抜けにお人よしの笑顔を浮かべている。
だから、今の今までシュターレンベルクも気付かなかったのだ。
しかし表情を失った死体であれば?
フランツは土の下から現れた自分の顔に肝を潰したのだろう。
「時々だけど手紙のやりとりはしてたんだよ。だから姉さんがウィーンに向かったのは知ってた……」
優しく誇り高い姉からの便りが年々過激になっていくことに、パン職人見習いのフランツは訝しんでいたという。
しかも昨今エルミアは、神聖ローマ帝国によるハンガリー支配についての不満を熱くしたためた長い手紙を寄越すようになっていた。
戦争が始まる直前のウィーンで、彼女は一体何をするつもりなのか。
嫌な予感しかしない。
心配になって訪ねてきたのだと言う。
だが、こっそり探すしかなかった。
工作活動をしているかもしれない姉の名を、まさか大声で呼んで歩くわけにもいかなかったから。
でも従来の奇行が災いして、フランツはウィーンへの入場を拒否されてしまったのだ。
近くの集落に駆け込み、持ち前の人懐っこさで周囲に溶け込んだ。
オスマン軍による包囲に先駆けて田舎に避難したパン職人の代わりとして重宝されたのかもしれない。
水車小屋に住みつき、パンを焼くまでになったのだ。
オスマン帝国軍が近付き、いよいよ村人もウィーン市壁内へ避難した後も、こんなの理不尽だと喚いて立て籠もっていたのはシュターレンベルクも知るところである。
「どういうことなの。教えてよ、シュターレンベルク。何で姉さんは死んでるの? お墓も建てられてなかった。あんなの……土の下に隠したみたい。病気? 事故? そんなわけないよね」
こ、殺された……?
口にするのも憚られるというように、その言葉を囁く。
シュターレンベルクの背がビクリと震えた。
「……すまない」
「シュターレンベルクが謝ることじゃ」
人の好いフランツは反射的に首を振る。
「何で謝るの? シュターレンベルクのせいじゃないでしょ?」
「………………」
長い沈黙。
フランツの額から頬にかけて、肌が色を失っていくのが分かる。
「シュターレンベルクのせいなのかッ!」
「うっ!」
背中に凄まじい衝撃。
疾走する馬にはねられたように、シュターレンベルクは土に叩きつけられる。
フランツが背後から体当たりしたのだ。
そのまま馬乗りになって両手を振り上げる。
勢いつけて手の平を振り落とした。
「グッ……ガッ!」
重い掌底が、シュターレンベルクの胸に打ち込まれる。
肺から空気が逆流し、喉のあたりでゴボッという音を立てた。
さすがパンをこねる手だなんて、この場にそぐわない下らないことを考えてしまう。
それから──。
「なんでこんな地面の下に……?」
疑問が、悔恨の念と共に押し寄せる。
「僕の姉さんだよ」
「フランツ、すまない」
シュターレンベルクの呟きに、パン屋は静かにうなだれた。
マルギトという名字を、彼女ははじめに名乗ってくれたに違いない。
だが、シュターレンベルクの記憶には残らなかった。
後ろ暗い罪の意識がじわりと滲む。
「僕はパリのパン屋に修行に出たから。だから姉さんとは十年も会ってない。でも、いつも思ってた。姉さんのことを」
誇り高く生きましょうねって、姉さんはいつも言ってた──フランツの呟きが、地面に染みこむ。
「フランツ、すまない……」
愛する女によく似た顔を、シュターレンベルクは直視することができなかった。
記憶をたどるような調子の震え声は、ゆっくりと言を紡ぎ続ける。
「この部屋に入ったとき……窓の向こうに緑色が見えたんだ。優しい色で、僕が大好きな色。最初は宝石が落ちてるのかと思った」
──でも違った。
そこにあったのは懐かしい姉の、無残な亡骸。
「……フランツ、すまない」
よく似ているなんて話じゃない。
双子というわけではないようだが、二人の顔は瓜二つであった。
だが、雰囲気はまったく違った。
エルミアがいつも思いつめたように目元に力を入れていたのとは対照的に、パン屋は底抜けにお人よしの笑顔を浮かべている。
だから、今の今までシュターレンベルクも気付かなかったのだ。
しかし表情を失った死体であれば?
フランツは土の下から現れた自分の顔に肝を潰したのだろう。
「時々だけど手紙のやりとりはしてたんだよ。だから姉さんがウィーンに向かったのは知ってた……」
優しく誇り高い姉からの便りが年々過激になっていくことに、パン職人見習いのフランツは訝しんでいたという。
しかも昨今エルミアは、神聖ローマ帝国によるハンガリー支配についての不満を熱くしたためた長い手紙を寄越すようになっていた。
戦争が始まる直前のウィーンで、彼女は一体何をするつもりなのか。
嫌な予感しかしない。
心配になって訪ねてきたのだと言う。
だが、こっそり探すしかなかった。
工作活動をしているかもしれない姉の名を、まさか大声で呼んで歩くわけにもいかなかったから。
でも従来の奇行が災いして、フランツはウィーンへの入場を拒否されてしまったのだ。
近くの集落に駆け込み、持ち前の人懐っこさで周囲に溶け込んだ。
オスマン軍による包囲に先駆けて田舎に避難したパン職人の代わりとして重宝されたのかもしれない。
水車小屋に住みつき、パンを焼くまでになったのだ。
オスマン帝国軍が近付き、いよいよ村人もウィーン市壁内へ避難した後も、こんなの理不尽だと喚いて立て籠もっていたのはシュターレンベルクも知るところである。
「どういうことなの。教えてよ、シュターレンベルク。何で姉さんは死んでるの? お墓も建てられてなかった。あんなの……土の下に隠したみたい。病気? 事故? そんなわけないよね」
こ、殺された……?
口にするのも憚られるというように、その言葉を囁く。
シュターレンベルクの背がビクリと震えた。
「……すまない」
「シュターレンベルクが謝ることじゃ」
人の好いフランツは反射的に首を振る。
「何で謝るの? シュターレンベルクのせいじゃないでしょ?」
「………………」
長い沈黙。
フランツの額から頬にかけて、肌が色を失っていくのが分かる。
「シュターレンベルクのせいなのかッ!」
「うっ!」
背中に凄まじい衝撃。
疾走する馬にはねられたように、シュターレンベルクは土に叩きつけられる。
フランツが背後から体当たりしたのだ。
そのまま馬乗りになって両手を振り上げる。
勢いつけて手の平を振り落とした。
「グッ……ガッ!」
重い掌底が、シュターレンベルクの胸に打ち込まれる。
肺から空気が逆流し、喉のあたりでゴボッという音を立てた。
さすがパンをこねる手だなんて、この場にそぐわない下らないことを考えてしまう。
10
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
でんじゃらすでございます
打ち出の小槌
歴史・時代
あらすじ
ときは、天正十年、の六月。
たまたま堺にきていた、出雲の阿国とその一座。それがまきこまれてゆく、冒険の物語。
ことのおこりは、二年に一度、泉州の沖にある島の山寺で、厄祓いにみたてた、風変わりな荒行(ひとは、それをぶちりと呼んでいる)がおこなわれる。
それが、こたび島の荒行では、ほとんどのひとが戻らなかった。やがて、うわさがささやかれた。
この荒行は、なにかある。
呪われておる。もののけがおる。闇から死人が、おいでおいでする。
人々は怖れた。
寺は、これを鎮め、まさに島の厄祓いをするために、ひと集めをはじめた。
かつて、阿国一座にいた鈴々という、唐の娘が、そのひと集めにいってしまったことから、事件に阿国と、その仲間達が巻き込まれてゆく。
はたして、島では、景色を自在に操るもののけ、唐のキョンシーらしきもの、さらに、心をのぞける、さとりや、なんでも出来るという、天邪鬼らが現れ、その戦いとなります。
時代劇ではお馴染みの、霧隠才蔵や、猿飛も登場します。
どういう、展開となるか、お楽しみください。
紅風の舞(べにかぜのまい)
鈴木 了馬
歴史・時代
かつて、「紅花大尽」とその名を知られた豪商がいた。
鈴木清風。
彼の生涯は謎に包まれたままだ。
限られた資料の断片から見えてくること。
それと、故郷を愛する人々が織りなす人間模様を描く、江戸時代小説。
凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
神速艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
「我々海軍は一度創成期の考えに立ち返るべきである」
八八艦隊計画が構想されていた大正3年に時の内閣総理大臣であった山本権兵衛のこの発言は海軍全体に激震を走らせた。これは八八艦隊を実質的に否定するものだったからだ。だが山本は海軍の重鎮でもあり八八艦隊計画はあえなく立ち消えとなった。そして山本の言葉通り海軍創成期に立ち返り改めて海軍が構想したのは高速性、速射性を兼ねそろえる高速戦艦並びに大型巡洋艦を1年にそれぞれ1隻づつ建造するという物だった。こうして日本海軍は高速艦隊への道をたどることになる…
いつも通りこうなったらいいなという妄想を書き綴ったものです!楽しんで頂ければ幸いです!
妖賀
伊達マキ
歴史・時代
応仁の乱が勃発し、焼け野原となった京で、銕三郎という青年に拾われた童の仁。
銕三郎は、妖賀者という妖怪でもない、正体不明の化け物を殺す誅伐隊の隊士であった。
2人は,仲睦まじく暮らしていたが,突如悲劇が襲う。
お松という名の女と任務を共にした銕三郎は、天壌無窮という呪いを受け、死んだ。
天壌無窮は、呪いを受けた者が死に至った直後、その人物が愛した者へと呪いがうつるものであった。
銕三郎が受けた呪いは,仁へとふりかかった。
それから仁は、銕三郎の師匠、九郎に引き取られる。
しばらくして、仁と九郎は、天壌無窮と妖賀者の関係を知る事となった。
九郎の事を親として愛し始めていた仁は、呪いが九郎にうつることを阻止するため、自分の人生のためにも、誅伐隊に入隊する事を決めた。
ここから妖賀者と仁の壮絶な戦いが始まっていく。
【第一章完】からくり始末記~零号と拾参号からの聞書~
阿弥陀乃トンマージ
歴史・時代
江戸の世に入って、しばらくが経った頃、とある老中のもとに、若い女子が呼び寄せられた。訝しげに見つめる老中だったが、その女子は高い実力を示す。それを目の当たりにした老中は女子に、日本各地に点在している、忌まわしきものの破壊工作を命じる。『藤花』という女子はそれを了承した。
出発の日の早朝、藤花の前に不思議な雰囲気の長身の男が立っていた。杖と盾しか持っていない男の名は『楽土』。自らが役目をこなせるかどうかの監視役かなにかであろうと思った藤花は、あえて楽土が同行することを許す。
藤花と楽土は互いの挨拶もそこそこに、江戸の町を出立する。
博学英才の【太子】と、【日御子】の超常能力を受け継いだ【刀自古姫御子】
古代雅之
歴史・時代
3世紀に崩御した倭国女王・日御子(卑弥呼)の直系子女である【蘇我刀自古郎女】と不世出の博学英才の【厩戸王太子】の波乱万丈の恋を主軸に、飛鳥時代を生き生きと描いた作品である。
先ず、蘇我本宗家の人々は、王権を簒奪しようとして暗殺された蘇我入鹿(日本書紀)に代表される世紀の大悪人ではなく、新進気鋭の革新的改革者であった、との【説】に基づいての物語でもある。
また、随所に、正史とされる「日本書紀」の記述とは異なる見解になっている事もご理解願いたい。
【馬子】は【馬子にも衣装】の馬子ではなく、【騎馬一騎は歩兵十数人を蹴散らす】の馬であり、現代の【自家用垂直離着陸機】に匹敵する尊称だと云われている。
同様に、【厩戸】は江戸時代の【馬小屋】ではなく、飛鳥時代の【自家用垂直離着陸機格納庫】のイメージとお考えいただきたい。
それに、敢えて、この飛鳥時代を撰んだのは、あまりにも謎が多いからである。
最も顕著な謎は、643年の【斑鳩宮襲撃事件】であろう!
『日本書紀』によると、何故か、【斑鳩宮】に【故太子】の夫人達、子供達、その孫達(総計100人以上!?)が集結し、僅か百人余の兵に攻められ、一族全員が、荒唐無稽な自害に追い込まれた・・・とある。
仮に、一つの【説】として、「【法隆寺】に太子とその一族が祀られているのではないか!?」と云われるのなら、【山背大兄王】とは単なる【その一族の一人】に過ぎない小物なのだろうか?否!模した仏像の一体位はあって然るべきなのではないだろうか!?
いずれにせよ、【山背大兄王】のみならず、【蘇我入鹿】、【皇極大王】、【高向王】や【漢御子】までもが謎だらけなのである。
この作品の前半は【太子】と【刀自古妃】が中心となり、後半は【刀自古妃(尊光上人)】と孫の【大海人王子】が中心となり、【天武天皇即位】までが描かれている。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる