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カーレンベルクの戦い
カーレンベルクの戦い(3)
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※ ※ ※
カトリック教会は、したり顔で免罪符なるものを販売していた。
偽誓に対する罪は金貨六枚、文書偽装は金貨七枚、殺人も七枚だったか──いや、被害者が聖職者でないならば五枚だったはず。
それを購入すれば罪は贖われるという。
定価表が作られていることからも、旧教教会の金儲けの手法の一つであることが明らかであった。
つまりシュターレンベルクが金貨五枚を教会に支払えば最後の審判の際、エルミアの死に対しての罪はなかったことにしてもらえるらしい。
「人を殺して金貨五枚か。安っすい命だな……」
声は渇いていた。
もうどうでも良い──シュターレンベルクの意識はさっきから同じところをグルグルと回り続けていた。
エルミアが本当に死んだのか、それとも生きてウィーンのどこかに潜んで今も何かを企んでいるのか。
そんなこともどうでも良かった。
腹に、ひりつくような不快感が走る。
彼女に刺された傷はとうにかさぶたになって、今は痕が白く浮いているだけだ。
なのに、どうしようもなく痛む。
エルミアの裏切り。
ルイ・ジュリアスの死。
娘の狂気。
さらに市長の死まで耳に届くことになるなんて。
他にも何人の兵士が、そして市民が砲撃の巻き添えになったことか。
すべて自分のせいだと思う。
もし免罪符を買う気になったら、一体幾らかかることやら。
市内には絶望感が漂っている。
市民らの軽口や強気は消え、食べ物も残り少ない。
兵らは疲れ切って、しかも間諜が入り込んでいるという噂は相当な信憑性をもって彼らの間を駆け巡っていた。
敵がどうとかではない。
もう内から崩れ始めている。
これ以上、ウィーンは持ちこたえられまい。
「閣下、もうすぐ助けが来るって聞きましたよ。もうちょっとの辛抱ですね!」
足を引きずりながら通りを進む指揮官に、こんな状況でさえも市民が声をかけてくれた。
だがシュターレンベルクは取りつかれたように虚ろな眼を動かさず、歩調を緩めることもなく無言で彼らの前を通り過ぎる。
声は耳に届いてはいた。
だが、思考を働かせることができない。
頭の奥がじんわり痺れたようで、死んだ人間のことしか考えられなかった。
ドナウ艦隊を使った作戦。
籠城戦に徹するという防衛の方針。
市門は頑丈で、内側から開けない限り破られることはないと安心しているということ。
シュテッフルの塔からなら偵察しやすいこと。
市長にはカプツィナー教会で市民らの様子に気を配っていてもらう算段になっていること──エルミアが間諜であったならば、それらの情報を漏らしたのは自分だ。
マリア・カタリーナより誰よりも、ウィーンの内情を敵に晒していたのは指揮官たる自分なのだ。
何故、エルミアを怪しむことをしなかったのだろうか。
もしも彼女が間諜であると気付いたならば、大事になる前に何とかしてその立場から救ってやることもできたろうに。
いや、それも傲慢な考えであろうか。
エルミアが本当にハンガリーの諜報を担っていたのだとしたら、かの小国を戦場にし、焼いたのは神聖ローマ帝国であり、自分だ。
恨まれて当然のことをしたのだろう。
自分一人が復讐の刃に貫かれるなら仕方のないことだと思う。
でもこんな非常時に、ウィーンという都市を巻き込んで復讐を敢行しようなどと。
王宮に足を踏み入れたところで、ふとシュターレンベルクの足が止まった。
足下の絨毯の柔らかさに一瞬怯むかのように。
数秒してから、再び歩き出す。
エルミアに対して恨みは沸かなかった。
それどころか美しかった女の姿は、シュターレンベルクの脳の中で掠れかかっていてぼんやりとしか記憶としてしか蘇ってこない。
たしか金色の綺麗な髪をしていたな。
白い肌と細い首、赤い唇、それから緑の瞳が印象的で……。
たった二か月でこの様とは。
自分の心の中から消え去ることも、彼女にとっては復讐なのだろう。
そう考えながら、シュターレンベルクは扉の前で足を止めた。
王宮に与えられたシュターレンベルクの自室である。
鍵を取り出すと、慣れた様子でそれを鍵穴に差し込む。
カチャリと小気味良い音と共に、扉はゆっくりと開いた。
「大人しくしていたか──……」
何か言いながら部屋に入ったとは思う。
しかし言葉は途中から完全に飛んでいた。
カトリック教会は、したり顔で免罪符なるものを販売していた。
偽誓に対する罪は金貨六枚、文書偽装は金貨七枚、殺人も七枚だったか──いや、被害者が聖職者でないならば五枚だったはず。
それを購入すれば罪は贖われるという。
定価表が作られていることからも、旧教教会の金儲けの手法の一つであることが明らかであった。
つまりシュターレンベルクが金貨五枚を教会に支払えば最後の審判の際、エルミアの死に対しての罪はなかったことにしてもらえるらしい。
「人を殺して金貨五枚か。安っすい命だな……」
声は渇いていた。
もうどうでも良い──シュターレンベルクの意識はさっきから同じところをグルグルと回り続けていた。
エルミアが本当に死んだのか、それとも生きてウィーンのどこかに潜んで今も何かを企んでいるのか。
そんなこともどうでも良かった。
腹に、ひりつくような不快感が走る。
彼女に刺された傷はとうにかさぶたになって、今は痕が白く浮いているだけだ。
なのに、どうしようもなく痛む。
エルミアの裏切り。
ルイ・ジュリアスの死。
娘の狂気。
さらに市長の死まで耳に届くことになるなんて。
他にも何人の兵士が、そして市民が砲撃の巻き添えになったことか。
すべて自分のせいだと思う。
もし免罪符を買う気になったら、一体幾らかかることやら。
市内には絶望感が漂っている。
市民らの軽口や強気は消え、食べ物も残り少ない。
兵らは疲れ切って、しかも間諜が入り込んでいるという噂は相当な信憑性をもって彼らの間を駆け巡っていた。
敵がどうとかではない。
もう内から崩れ始めている。
これ以上、ウィーンは持ちこたえられまい。
「閣下、もうすぐ助けが来るって聞きましたよ。もうちょっとの辛抱ですね!」
足を引きずりながら通りを進む指揮官に、こんな状況でさえも市民が声をかけてくれた。
だがシュターレンベルクは取りつかれたように虚ろな眼を動かさず、歩調を緩めることもなく無言で彼らの前を通り過ぎる。
声は耳に届いてはいた。
だが、思考を働かせることができない。
頭の奥がじんわり痺れたようで、死んだ人間のことしか考えられなかった。
ドナウ艦隊を使った作戦。
籠城戦に徹するという防衛の方針。
市門は頑丈で、内側から開けない限り破られることはないと安心しているということ。
シュテッフルの塔からなら偵察しやすいこと。
市長にはカプツィナー教会で市民らの様子に気を配っていてもらう算段になっていること──エルミアが間諜であったならば、それらの情報を漏らしたのは自分だ。
マリア・カタリーナより誰よりも、ウィーンの内情を敵に晒していたのは指揮官たる自分なのだ。
何故、エルミアを怪しむことをしなかったのだろうか。
もしも彼女が間諜であると気付いたならば、大事になる前に何とかしてその立場から救ってやることもできたろうに。
いや、それも傲慢な考えであろうか。
エルミアが本当にハンガリーの諜報を担っていたのだとしたら、かの小国を戦場にし、焼いたのは神聖ローマ帝国であり、自分だ。
恨まれて当然のことをしたのだろう。
自分一人が復讐の刃に貫かれるなら仕方のないことだと思う。
でもこんな非常時に、ウィーンという都市を巻き込んで復讐を敢行しようなどと。
王宮に足を踏み入れたところで、ふとシュターレンベルクの足が止まった。
足下の絨毯の柔らかさに一瞬怯むかのように。
数秒してから、再び歩き出す。
エルミアに対して恨みは沸かなかった。
それどころか美しかった女の姿は、シュターレンベルクの脳の中で掠れかかっていてぼんやりとしか記憶としてしか蘇ってこない。
たしか金色の綺麗な髪をしていたな。
白い肌と細い首、赤い唇、それから緑の瞳が印象的で……。
たった二か月でこの様とは。
自分の心の中から消え去ることも、彼女にとっては復讐なのだろう。
そう考えながら、シュターレンベルクは扉の前で足を止めた。
王宮に与えられたシュターレンベルクの自室である。
鍵を取り出すと、慣れた様子でそれを鍵穴に差し込む。
カチャリと小気味良い音と共に、扉はゆっくりと開いた。
「大人しくしていたか──……」
何か言いながら部屋に入ったとは思う。
しかし言葉は途中から完全に飛んでいた。
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