62 / 87
【第三章 パン屋の正体】願いは儚く
願いは儚く(8)
しおりを挟む
シュターレンベルクの目配せで、グイードがアウフミラーを抱え上げたのだ。
だらりと落ちた手が力なく揺れ、彼の死を予感させた。
医者を呼ぶ気配もない。
無言で部屋を出て、階段を駆け下りる足音。
「恐らく助からん」
足音が消えたところで、シュターレンベルが首を振る。
「で、でも……間に合うかもしれません。急いで手当をすれば。だって、そうじゃなきゃあまりにも……」
あまりにも妹が不憫ではないか。
ユラリ。リヒャルトが口にした微かな希望を吸い尽くすように、灰色の女がその場に立ち上がった。
先程まで短剣の柄を握り締めていた手に、今度は画帳を抱えている。
踊るような指先が、はらりと頁を繰った。
ちらりと見えた頁には、どれもシュテッフルの塔や教会を彩る装飾の絵が細かく描き込まれている。
「これがペストの慰霊塔の絵なのね。亡くなったお母様の魂を慰めようという……」
とろりと崩れてしまいそうな響きの声。舐めるようにそれらを見ていた灰色の目が、ある一か所にくぎ付けになる。
「……これは何故かしら」
興味に駆られたというわけではない。
だが引き寄せられるように、リヒャルトは妹に近付く。
マリア・カタリーナの危うい口調は、どうにもそこを覗き込まざるを得ないような力を持っていたのだ。
そこに描かれていたのは、塔のような風景を描いた線画であった。
ペストの慰霊塔の作画というのも納得だ。
繊細な装飾で縁取られた絵は、小さな画帳であっても壮麗な静けさを感じさせる。
聖書の内容を絵に起こしたものや、ペストに見立てた悪魔の姿、そしてそれに討ち勝つ天使の姿が繊細な筆致で描き込まれている。
マリア・カタリーナの細い指が示していたのは、その中でもとりわけ視線を惹きつける天使らしき人物の顔であった。
「何でこんなに似てるのよ……」
恨みがましい低い声。
描かれた天使とは似ても似つかぬ女は、帳面を指先でトントン叩いた。
似ている? どういうことだ。
「あっ……」
美貌の天使を見つめるうちに、リヒャルトの胸にもじわりと寄せてくる不信感。
「この天使の絵……包囲が始まった日にアウフミラーが描いていたのを、あたし見たわ。その時、あんたはまだこの町にいなかった」
あの時、マリア・カタリーナは初対面である筈の彼にこう言っていた。
──どこかで会ったことが?
「おかしいと思ったのよ。あんたの顔には見覚えがあったから。でも、どこで会ったかは全然思い出せない。まさか絵の中の人間だったなんて思いもよらなかったわね」
フランツ──名を呼ばれると、その場の全員がパン・コンパニオンを凝視した。
帳面の中の人物は、優美な曲線が表す輪郭、そしてそれを縁取る柔らかな髪を持ち合わせていた。
思慮深く見える大きな瞳、美しく優し気なその容貌。
触れるとぬくもりを感じそうなほど写実的な線画なだけに、それは生々しく迫る。
そう、その顔はフランツと瓜二つであったのだ。
「あんた、父に連れて来られる以前に市内に来たんでしょう。少なくともアウフミラーとは会っていた。でなきゃ、アウフミラーがあんたの顔を絵に描けるわけないもの」
うそだろう……とシュターレンベルクが呻く。
だが、それを否定する材料はここにはない。
ただフランツを見詰めるのみ。
「ち、違うよ。僕、シュターレンベルクに連れられて初めて壁の中に入って……アウフミラーに会ったことなんてそれまで一度もないよ」
では何故、天使とフランツはこうも似ているのだ。
フランツを見ながら描かれたとしか考えられないではないか。
突然、劣勢に立たされたフランツは助けを求めるように指揮官の方へにじり寄る。
だがシュターレンベルクは次の瞬間、パン屋にとって致命的となる一言を放った。
「何故、俺の名を知っていた」
「えっ……?」
「あっ」とリヒャルトも声をあげる。
グイードと顔を見合わせ、戸惑いと驚愕を共有していることを感じ、そして疑惑を確信する。
──シュターレンベルク様。
グラシの集落にたった一人で立ち籠っていたフランツ。
保護し、街に連れてくるあの時、フランツは確かにこう言った。
指揮官に対して。
──僕、シュターレンベルク様の役に立つよ、と。
しかし、思い返せ。
あの時、指揮官は己の身分も名も、この小僧に明かしてはいなかったではないか。
ならば周囲の者の呼びかけを聞いて知ったのでは?
いや、それはありえない。
あの場にいたのはグイードとルイ・ジュリアス、そしてリヒャルトの三人だ。
それぞれ指揮官のことを兄上、閣下、父上と呼ぶ。
たしかにシュターレンベルクは名門貴族の長で、今回はウィーン防衛司令官の任についた実力者として他国にも名が知られていよう。
だが、軍人でもない他国のパン職人がその人物の顔を知る機会はまずあるまい。
ましてやあの状況。
最高司令官が若者二人を供に、グラシの小屋撤去のための説得に現れるなど誰が想像しよう。
つまり、フランツはあらかじめシュターレンベルクの顔と名前を知っていたことになる。
「ぼ、僕は前からシュターレンベルクを知ってたんだ。だって、会ったことがあるから。本当だよ。ねッ、シュターレンベルク!」
「………………」
返事がないことに、フランツは涙ぐんだ。
「本当だよ。覚えてないの?」
いい加減なことを言うなとグイードに怒鳴られ、それでも尚も食い下がろうとするフランツ。
黙り込んだ父が衝撃を受けていることは、リヒャルトには痛いほどよく分かった。
そしてマリア・カタリーナの思いも。
この場で最早忘れ去られたように立ち尽くし、帳面の中の線を震える指先でなぞっている。
彼女の願いはささやかなものであった筈だ。
しかしその願いは、ここに儚く消えたのだ。
だらりと落ちた手が力なく揺れ、彼の死を予感させた。
医者を呼ぶ気配もない。
無言で部屋を出て、階段を駆け下りる足音。
「恐らく助からん」
足音が消えたところで、シュターレンベルが首を振る。
「で、でも……間に合うかもしれません。急いで手当をすれば。だって、そうじゃなきゃあまりにも……」
あまりにも妹が不憫ではないか。
ユラリ。リヒャルトが口にした微かな希望を吸い尽くすように、灰色の女がその場に立ち上がった。
先程まで短剣の柄を握り締めていた手に、今度は画帳を抱えている。
踊るような指先が、はらりと頁を繰った。
ちらりと見えた頁には、どれもシュテッフルの塔や教会を彩る装飾の絵が細かく描き込まれている。
「これがペストの慰霊塔の絵なのね。亡くなったお母様の魂を慰めようという……」
とろりと崩れてしまいそうな響きの声。舐めるようにそれらを見ていた灰色の目が、ある一か所にくぎ付けになる。
「……これは何故かしら」
興味に駆られたというわけではない。
だが引き寄せられるように、リヒャルトは妹に近付く。
マリア・カタリーナの危うい口調は、どうにもそこを覗き込まざるを得ないような力を持っていたのだ。
そこに描かれていたのは、塔のような風景を描いた線画であった。
ペストの慰霊塔の作画というのも納得だ。
繊細な装飾で縁取られた絵は、小さな画帳であっても壮麗な静けさを感じさせる。
聖書の内容を絵に起こしたものや、ペストに見立てた悪魔の姿、そしてそれに討ち勝つ天使の姿が繊細な筆致で描き込まれている。
マリア・カタリーナの細い指が示していたのは、その中でもとりわけ視線を惹きつける天使らしき人物の顔であった。
「何でこんなに似てるのよ……」
恨みがましい低い声。
描かれた天使とは似ても似つかぬ女は、帳面を指先でトントン叩いた。
似ている? どういうことだ。
「あっ……」
美貌の天使を見つめるうちに、リヒャルトの胸にもじわりと寄せてくる不信感。
「この天使の絵……包囲が始まった日にアウフミラーが描いていたのを、あたし見たわ。その時、あんたはまだこの町にいなかった」
あの時、マリア・カタリーナは初対面である筈の彼にこう言っていた。
──どこかで会ったことが?
「おかしいと思ったのよ。あんたの顔には見覚えがあったから。でも、どこで会ったかは全然思い出せない。まさか絵の中の人間だったなんて思いもよらなかったわね」
フランツ──名を呼ばれると、その場の全員がパン・コンパニオンを凝視した。
帳面の中の人物は、優美な曲線が表す輪郭、そしてそれを縁取る柔らかな髪を持ち合わせていた。
思慮深く見える大きな瞳、美しく優し気なその容貌。
触れるとぬくもりを感じそうなほど写実的な線画なだけに、それは生々しく迫る。
そう、その顔はフランツと瓜二つであったのだ。
「あんた、父に連れて来られる以前に市内に来たんでしょう。少なくともアウフミラーとは会っていた。でなきゃ、アウフミラーがあんたの顔を絵に描けるわけないもの」
うそだろう……とシュターレンベルクが呻く。
だが、それを否定する材料はここにはない。
ただフランツを見詰めるのみ。
「ち、違うよ。僕、シュターレンベルクに連れられて初めて壁の中に入って……アウフミラーに会ったことなんてそれまで一度もないよ」
では何故、天使とフランツはこうも似ているのだ。
フランツを見ながら描かれたとしか考えられないではないか。
突然、劣勢に立たされたフランツは助けを求めるように指揮官の方へにじり寄る。
だがシュターレンベルクは次の瞬間、パン屋にとって致命的となる一言を放った。
「何故、俺の名を知っていた」
「えっ……?」
「あっ」とリヒャルトも声をあげる。
グイードと顔を見合わせ、戸惑いと驚愕を共有していることを感じ、そして疑惑を確信する。
──シュターレンベルク様。
グラシの集落にたった一人で立ち籠っていたフランツ。
保護し、街に連れてくるあの時、フランツは確かにこう言った。
指揮官に対して。
──僕、シュターレンベルク様の役に立つよ、と。
しかし、思い返せ。
あの時、指揮官は己の身分も名も、この小僧に明かしてはいなかったではないか。
ならば周囲の者の呼びかけを聞いて知ったのでは?
いや、それはありえない。
あの場にいたのはグイードとルイ・ジュリアス、そしてリヒャルトの三人だ。
それぞれ指揮官のことを兄上、閣下、父上と呼ぶ。
たしかにシュターレンベルクは名門貴族の長で、今回はウィーン防衛司令官の任についた実力者として他国にも名が知られていよう。
だが、軍人でもない他国のパン職人がその人物の顔を知る機会はまずあるまい。
ましてやあの状況。
最高司令官が若者二人を供に、グラシの小屋撤去のための説得に現れるなど誰が想像しよう。
つまり、フランツはあらかじめシュターレンベルクの顔と名前を知っていたことになる。
「ぼ、僕は前からシュターレンベルクを知ってたんだ。だって、会ったことがあるから。本当だよ。ねッ、シュターレンベルク!」
「………………」
返事がないことに、フランツは涙ぐんだ。
「本当だよ。覚えてないの?」
いい加減なことを言うなとグイードに怒鳴られ、それでも尚も食い下がろうとするフランツ。
黙り込んだ父が衝撃を受けていることは、リヒャルトには痛いほどよく分かった。
そしてマリア・カタリーナの思いも。
この場で最早忘れ去られたように立ち尽くし、帳面の中の線を震える指先でなぞっている。
彼女の願いはささやかなものであった筈だ。
しかしその願いは、ここに儚く消えたのだ。
10
あなたにおすすめの小説
熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)
MisakiNonagase
現代文学
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる