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【第三章 パン屋の正体】願いは儚く
願いは儚く(2)
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※ ※ ※
籠城戦も一か月以上が過ぎ、内包していた様々な問題が明るみに出始めていた。
例えば今朝方、防衛司令官はこんな命令を出した。
──脱走兵と兵役拒否者には、厳格な措置をとる。
前者は処刑を匂わせ、後者には思想的な理由による兵役拒否は今後認めないと触れたのだ。
身体的理由によって戦えない者は、医師の診断を仰ぐ義務を負うこととなった。
人格者である市長が健在であれば、こんな事態にはならなかったであろう。
だがヨハンは砲撃で負った傷により、今や寝台に起き上がるのもやっとという状態。
半壊したカプツィナーの惨状を思い出せば、彼がとにかく生きているだけでも神に感謝すべきか。
カプツィナーが砲撃を受けたあの夜の光景は忘れることができない。
避難していた多くの者が犠牲になった。
重い怪我を負った者も多くいる。
無傷の者に手伝わせて遺体を一か所に集めたのはリヒャルトである。
それこそ、彼ら一人一人のために祈りの言葉を唱える余裕すらなく。
それからもう一つ。
昨夜遅くにアウフミラーが捕えられた。
マリア・カタリーナが父に告白したという。
七月十九日夜──放火をしたのは自分とアウフミラーであると。
さらに七月二十六日──ケルントナー門の突破を許したあの日、こっそり通用口を開けておいたのは自分だと。
アウフミラーは敵と通じていた。
問えばマリア・カタリーナが彫刻家志望の青年と出会ったのは、去年の夏ごろのことであるという。
それはちょうどオスマン帝国がウィーン遠征に向けて行動を開始した時期と重なる。
何故この妹は避難せずに市に残ったのかとずっと疑問に思っていたのだが、つまり指揮官の娘が見事なまでに敵の間諜に利用されていたというわけだ。
二人に何があったか知らない。
おそらく喧嘩でもしたのだろう。
遅きに失したという思いはあるが、それでもマリア・カタリーナが父に罪を告白したのは勇気ある選択だとリヒャルトは思う。
たまたま昨日のマリア・カタリーナによる密告の現場に居合わせたらしいフランツが、夕べはずっと彼女に付いて慰めていたらしい。
自分で密告したくせに、マリア・カタリーナはずっと泣いていたのだろう。
陽気なパン屋とて困り果てた。
彼女を慰めよう思って、アウフミラーの良い所を思いつく限り述べていったらしい。
アウフミラーはパン作りを手伝ってくれたよ。
──ふん、作ったパンをくすねて敵軍に売りに行ったのよ。その時にこちらの情報も漏らしたんでしょうね。
ほ、砲撃の音がしたらマリアさんのこと心配してたよ。
──ふん、そんなの振りだけだわ。
マリアさんのこと、ちゃんと大事に思ってるんだよ。だからそんなこと言わないで。
──ふん、大事に思っていたなら、ウィーンに残れなんて言いやしないわ。
でも、でも……分かるんだよ。アウフミラーはちゃんとマリアさんのことを想って……。
──ふん、そんなのあんたの嘘っぱちだわ。
「本当だよッ!」
売り言葉に買い言葉という気はするが。
意地になったか、フランツは彼女を連れてアウフミラーに会いに行くと言い出した。
会って、話をする。
そうすれば彼の本心が分かる筈だと。
こともあろうに、フランツはその計画を持ってリヒャルトの元へとやって来たのだ。
マリア・カタリーナが心配だから、一緒に来てほしいと。
リヒャルトは呆れ返った。
何故このパン屋はこうも自信満々なのだ。
フランツを無視してマリア・カタリーナを父に引き渡せば、今度こそ妹は安全かつ完全な隔離下に置かれるだろう。
目を閉じるとルイ・ジュリアスが死んだ、あの時の光景がまざまざと蘇る──父の計らいにより彼は火災で死んだことになっていることに、リヒャルトは忸怩たる思いを拭うことができないでいる。
それはすべてアウフミラーと、マリア・カタリーナのせいなのだ。
むしゃくしゃする思いもある。
しかし泣きはらした目をした妹を突き放すことはできなかった。
自分でも甘いと思ったが、夜を待って、リヒャルトは二人と共にここに来た。
アウフミラーは王宮の屋根裏の小部屋に閉じ込められているという。
市中の建物はどこも避難民でいっぱいだ。
第一、彼の監禁のために警備の兵士を割く人的余裕もない。
ある程度出入りを規制された王宮は逆に人が少なく、使用人が使っていた屋根裏は主が避難した今、使われていない。
現状、人を拘束するには最適な場所であった。
そうは言っても王宮には兵も多くいるわけだし、自分たちが──妙な組み合わせなことは自覚している──階段を上へ上へ登っていくのを見られたら怪しまれるに決まっている。
そう言うと、パン屋は自信たっぷりにこう言った。
僕に考えがあるんだ。任せてよ。夜になったら決行だよ。
そして現在に至る。
成程。パン屋の策は見事に当たったわけだ。
フランツを変わり者だ、馬鹿だと思い込んでいたのを訂正する──心の中だけで。
だみ声の音痴として有名なグイードをおだてて歌わせたおかげで、各部屋の窓も扉
も閉められて、三人は咎められることなく屋根裏へと続く細い階段を登り切った。
登った先に一応一人いる見張りの兵士も、頭から毛布をかぶって両耳を押さえている様子。
ワーと叫んでいるのは、聞こえてくる歌を打ち消すためであろう。
そろりと通り過ぎることができた。
籠城戦も一か月以上が過ぎ、内包していた様々な問題が明るみに出始めていた。
例えば今朝方、防衛司令官はこんな命令を出した。
──脱走兵と兵役拒否者には、厳格な措置をとる。
前者は処刑を匂わせ、後者には思想的な理由による兵役拒否は今後認めないと触れたのだ。
身体的理由によって戦えない者は、医師の診断を仰ぐ義務を負うこととなった。
人格者である市長が健在であれば、こんな事態にはならなかったであろう。
だがヨハンは砲撃で負った傷により、今や寝台に起き上がるのもやっとという状態。
半壊したカプツィナーの惨状を思い出せば、彼がとにかく生きているだけでも神に感謝すべきか。
カプツィナーが砲撃を受けたあの夜の光景は忘れることができない。
避難していた多くの者が犠牲になった。
重い怪我を負った者も多くいる。
無傷の者に手伝わせて遺体を一か所に集めたのはリヒャルトである。
それこそ、彼ら一人一人のために祈りの言葉を唱える余裕すらなく。
それからもう一つ。
昨夜遅くにアウフミラーが捕えられた。
マリア・カタリーナが父に告白したという。
七月十九日夜──放火をしたのは自分とアウフミラーであると。
さらに七月二十六日──ケルントナー門の突破を許したあの日、こっそり通用口を開けておいたのは自分だと。
アウフミラーは敵と通じていた。
問えばマリア・カタリーナが彫刻家志望の青年と出会ったのは、去年の夏ごろのことであるという。
それはちょうどオスマン帝国がウィーン遠征に向けて行動を開始した時期と重なる。
何故この妹は避難せずに市に残ったのかとずっと疑問に思っていたのだが、つまり指揮官の娘が見事なまでに敵の間諜に利用されていたというわけだ。
二人に何があったか知らない。
おそらく喧嘩でもしたのだろう。
遅きに失したという思いはあるが、それでもマリア・カタリーナが父に罪を告白したのは勇気ある選択だとリヒャルトは思う。
たまたま昨日のマリア・カタリーナによる密告の現場に居合わせたらしいフランツが、夕べはずっと彼女に付いて慰めていたらしい。
自分で密告したくせに、マリア・カタリーナはずっと泣いていたのだろう。
陽気なパン屋とて困り果てた。
彼女を慰めよう思って、アウフミラーの良い所を思いつく限り述べていったらしい。
アウフミラーはパン作りを手伝ってくれたよ。
──ふん、作ったパンをくすねて敵軍に売りに行ったのよ。その時にこちらの情報も漏らしたんでしょうね。
ほ、砲撃の音がしたらマリアさんのこと心配してたよ。
──ふん、そんなの振りだけだわ。
マリアさんのこと、ちゃんと大事に思ってるんだよ。だからそんなこと言わないで。
──ふん、大事に思っていたなら、ウィーンに残れなんて言いやしないわ。
でも、でも……分かるんだよ。アウフミラーはちゃんとマリアさんのことを想って……。
──ふん、そんなのあんたの嘘っぱちだわ。
「本当だよッ!」
売り言葉に買い言葉という気はするが。
意地になったか、フランツは彼女を連れてアウフミラーに会いに行くと言い出した。
会って、話をする。
そうすれば彼の本心が分かる筈だと。
こともあろうに、フランツはその計画を持ってリヒャルトの元へとやって来たのだ。
マリア・カタリーナが心配だから、一緒に来てほしいと。
リヒャルトは呆れ返った。
何故このパン屋はこうも自信満々なのだ。
フランツを無視してマリア・カタリーナを父に引き渡せば、今度こそ妹は安全かつ完全な隔離下に置かれるだろう。
目を閉じるとルイ・ジュリアスが死んだ、あの時の光景がまざまざと蘇る──父の計らいにより彼は火災で死んだことになっていることに、リヒャルトは忸怩たる思いを拭うことができないでいる。
それはすべてアウフミラーと、マリア・カタリーナのせいなのだ。
むしゃくしゃする思いもある。
しかし泣きはらした目をした妹を突き放すことはできなかった。
自分でも甘いと思ったが、夜を待って、リヒャルトは二人と共にここに来た。
アウフミラーは王宮の屋根裏の小部屋に閉じ込められているという。
市中の建物はどこも避難民でいっぱいだ。
第一、彼の監禁のために警備の兵士を割く人的余裕もない。
ある程度出入りを規制された王宮は逆に人が少なく、使用人が使っていた屋根裏は主が避難した今、使われていない。
現状、人を拘束するには最適な場所であった。
そうは言っても王宮には兵も多くいるわけだし、自分たちが──妙な組み合わせなことは自覚している──階段を上へ上へ登っていくのを見られたら怪しまれるに決まっている。
そう言うと、パン屋は自信たっぷりにこう言った。
僕に考えがあるんだ。任せてよ。夜になったら決行だよ。
そして現在に至る。
成程。パン屋の策は見事に当たったわけだ。
フランツを変わり者だ、馬鹿だと思い込んでいたのを訂正する──心の中だけで。
だみ声の音痴として有名なグイードをおだてて歌わせたおかげで、各部屋の窓も扉
も閉められて、三人は咎められることなく屋根裏へと続く細い階段を登り切った。
登った先に一応一人いる見張りの兵士も、頭から毛布をかぶって両耳を押さえている様子。
ワーと叫んでいるのは、聞こえてくる歌を打ち消すためであろう。
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