クロワッサン物語

コダーマ

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【第二章 黄金の林檎の国】鉄壁

鉄壁(4)

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 上官という立場を何年もやっていると「頼もしい指揮官」を装うことが苦痛ではなくなってくる。
 それが肌にしみつき、素の状態になってしまう。
 苦痛なくこの技をやってのける総司令官の存在の有無が、強い軍隊を作る上での基本要素の一つであるといっても良い。

 市民らがこうやって集まるものだから「何だ?」という調子で手すきの兵士らも寄ってきた。
 ウィーンの市壁内では比較的幅のあるグラーベン通りだが、これでは通行の邪魔となるだろう。
 いいかげん解散させようと声を出しかけた時のこと。

「フン、庶民相手に偉そうにしやがって」

 この声は……とシュターレンベルクの頬が露骨に歪む。
 帝国軍事参議会議長のところのお坊ちゃんか。
 意地でも外さない鬘と、貴族らしいゆったりした衣服。
 何より目立つ赤い上着。
 口が悪く、防衛司令官にも臆さず喰ってかかる。
 ルートビッヒ・フォン・バーデンの登場である。

 彼の指揮官を見る目は冷たい。
 元々、良好な間柄とは言い難かったのだが、マリア・カタリーナ狂言誘拐の一件ですっかり見限られてしまったようだ。

「俺はオスマン戦の名将だ? ハハッ、自分で言うかよ」

「バーデ……」

 口真似をされ、腹立ちの念が沸きあがる。
 同時に、彼の言うことに妙に納得してしまって羞恥心もこみ上げた。

「伯にはもう任せられん。息子は腑抜けだし、娘は頭がおかしいときた。父親といや往来で呑気にパンを食ってる。何なんだ、この親子は」

「………………」

 軽口でないことはわかった。
 根が真面目な男だけに、積りに積もった不満がついに爆発したのだろう。

「ねぇ、シュターレンベルク」
 パン屋が袖を引っ張った。
「アイツの尻、火かき棒で刺してやろうか?」

 ニヤリ。意地悪に歪んだ笑いが、負の感情を消し去る。
 フランツに対して小声で「死なない程度にな」と返すと、少しだけ気分は晴れた。

「それで一体、シュターレンベルクに何の用なんだよ!」

 パン屋が喰ってかかる。

「市長殿が探していたぞって、そこにいる司令官に言っておけ」

「そんなの自分で言えばいいだろ!」

「話したくもないんだよ」

「今さっき喋ってたくせに!」

「う、うるさいっ。黙れ!」

 もはや喧嘩である。
 止せと短く言って両者の間に割り込んだシュターレンベルクは、バーデン伯の目元が腫れていることに気付いた。

「市長殿が何と?」

「……指揮系統の再編成をしなくちゃならねぇんじゃないかって。その……ルイがいなくなった、から」

 相変わらず周囲には市民や兵士がいて騒がしい。
 だがこの瞬間、シュターレンベルクは自分たちの間にだけ重く冷たい空気がのしかかるのを感じた。
 そうだなと頷いて、しかしシュターレンベルクはその場に立ち尽くしたまま。
 足が、いつも以上に重い……。

 ルイ・ジュリアスとバーデン伯が遠い親戚であることは聞いていた。
 その縁を頼りにルイ・ジュリアスがオーストリアに士官の口を求めてやって来たことも。

 突然の彼の死。
 バーデン伯は心に傷を負ったのだろう。
 ルイと形作る彼の唇は震え、視線から好戦的な色は失われていた。
 何よりこれまで左腰に剣のみを帯びていた彼が、今は右腰にマスケット銃も提げている。
 臨戦態勢という出で立ちは、いつでもオスマン兵と戦えるという意思表示と思われた。

「……死んだのは本当だ。もうこの話はするな」

 そう告げる自分の声が震えていることを、シュターレンベルクは自覚していた。

 布が燃えた嫌な臭いが、まだ鼻孔の奥に残っている。
 煙たなびくマスケット銃を不器用に抱えた息子リヒャルト、その傍らに立つ娘マリア・カタリーナの硬い表情。
 その足元に横たわるルイ・ジュリアスの屍──。

 あの後、シュターレンベルクは素知らぬ顔をして応援を呼んだ。
 あちこちで燻っていた火を消させ、火災で死んだルイ・ジュリアスを丁重に葬るよう指示する。
 リヒャルトとマリア・カタリーナには声をかけることなくあの場を去った。

 オスマン兵による火矢だとか、侵入しているハンガリー方の諜報員による放火だとか。
 ルイ・ジュリアスの死には、諸々の噂が流れている。
 しかしそれらの捜査を、指揮官は命じなかった。
 人手を割けないというもっともらしい理由で。
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