クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
上 下
37 / 87
【第二章 黄金の林檎の国】鉄壁

鉄壁(3)

しおりを挟む
「シュターレンベルクって不思議だね。人望があるっていやあるし、でも無いっていや無いし」

「どういう意味だ」

 ウィーンにいると、指揮官の噂話が自然と耳に入るのだろう。
 ウィーン防衛司令官は諸侯や貴族からの人望はなかったが、兵士や市民からの受けは良かった。
 市民に対しても貴族に対しても隔てなく接する態度は王宮内ではともかく、市中からは好ましく見られていたのだ。
 口の悪さとて気さくさと親しみやすさに変じてしまえる。
 だから市民らはこの大貴族の家長に対して、まるで友達のような気安さで声をかけるのだ。

 今回の防衛戦において市民兵の徴兵を行った際、良心的兵役拒否者が圧倒的に少なかったのも、ウィーンという我が都をこの手で守るんだという市民の意識の表れであると同時に、総大将の人気が大きな要因であったことは確かだろう。

「あのっ、閣下。品物が急に値上がりして困ってるんですけど」

「ちょうど手が空いたんだけど、何か手伝えることはないかい」

 一人が声をかけたものだから、それをきっかけに市民らが集まってきた。
 先程から物言いたげに指揮官の周りを囲んでいた者たちだ。まるで牽制するかのようにフランツが喋り倒すものだから、声をかけるタイミングを失してしまっていたようだ。

「何だよッ! シュターレンベルクは僕と喋ってるんだよ。そこ退いて……って、痛ッ!」

 妙なところで敵愾心を燃やすパン屋の頭を叩いてから、シュターレンベルクは「おぅ」と彼らの顔を見渡す。
 年配の者と女性が多いのは、若い男は兵士として歩哨や土木作業に駆り出されているためだ。
 残された者は、ささいな事柄で不安に駆られてしまうもの。

「オスマンがトンネルを掘ってるって話」
「見張りのお兄ちゃんが言ってたんだよ」
「閣下に聞くのが一番早いかなと思って」
「地下からウィーンに侵入するらしいわ」
「壁の下で爆弾を爆発させるとも聞くわ」

 一気にまくしたてられ脳の許容範囲を超えたのか、パン屋は口を開けてぽかんとしている。
 シュターレンベルクも「わかったわかった」と一旦、彼らの鎮静化を図った。

 市民らの抱く今の不安は、もっぱらオスマン帝国軍のトンネルの噂らしい。
 奴らの音楽隊が不安を奏で、それが根付いたころ新たな一手を打ってくる。
 狡猾なやり方だ。
 籠城側としてはいちいち翻弄されるしかないわけである。

 噂──シュターレンベルクの元へ寄せられる情報によれば、それは噂などではなく事実なのだが──はこうだ。

 ウィーンを完璧に包囲したオスマン軍は、グラシの向こうからトンネルを掘り進めているという。
 しかも何本も。
 地上を進めばウィーンの陵堡から狙い撃たれるが、地下であればその心配はない。
 市民らの言うように、市壁の下まで掘り進めてそこで火薬を爆発させるつもりか。
 それともこちらから市門を開いて討って出るように焦らせることが目的か。

「……大丈夫ですよね、閣下」

 一様に不安そうな表情である。
 大丈夫かどうかなど、自分には分かる由もない。
 だが、シュターレンベルクは大きく頷いてみせた。

「奴らは人数だけは多いが、大したものは何も持ってきてないだろ。設備もない中、手作業で坑道を掘るのにどれだけかかると思う? 冬が来る方がずっと早い。誰が考えた策だか。カラ・ムスタファか。程度が知れるな」

 敵の将を小馬鹿にする口調は、無論わざとである。

「そうだよな」
「たしかにね」

 市民らが笑顔をみせる。
 いつのまにか人数が増えていた。

「できたとしても急造トンネルは壊れやすい。それほどの人数も送り込めない。万一、完成にこぎつけたとしても地面の下は湿気が多い。火薬なんて役に立たないよ。それにもし火がついて爆発に成功してみろ。壁より先に奴らのトンネルが崩れ落ちるだけだ」

「そうだよ。シュターレンベルク、頭いいッ!」
 むくれていたパン屋が手を叩く。
「わざとそんな噂を流して、僕たちを不安にさせるのが目的なんだね」

 僕たちは負けないぞと、いつの間にか市民らの中に入って金切り声で叫んでいる。
 そんな彼らを見やる指揮官。
 口元には明らかに作られた微笑。

 トンネル作戦は、第一次ウィーン包囲の際に試みられた戦法でもある。
 その時は今シュターレンベルクが述べた理由から失敗したのだが、まさか百五十年も経った今、同じ手を使ってこようとは。
 あるいはそれはこちらの目をトンネルに集中させるための策で、裏で別の作戦が進められているとか?

 実際、怖いのは門への集中攻撃と火器である。
 市門が破られたら、ウィーンは確実に落ちる。
 もちろん、市民の前でそんなことは口に出せない。

 目の前の彼らの表情は和らぎ、口々に楽天的なことを言い合うようになった。
 一瞬で場が明るく転じたのだ。
 籠城戦において一番大切なのは、市民の意気なのである。

「俺は対オスマン戦の名将だ。奴らのことは俺が全部知ってるさ」

 イエーッ、とフランツの甲高い合いの手。
 つられたように市民らも声をあげる。

「オスマンの砲が市内に届いたことが一度でもあったか? 奴らの砲は旧式のものだ。オスマンはしょせん小手先の白兵戦しかできないんだ」

「そうだそうだッ!」

 パン屋が興奮して叫んだ。
 だが助かる。
 彼の調子に、市民らもつられるからだ。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

鎮魂の絵師

霞花怜
歴史・時代
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。 【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】 ※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)

時雨太夫

歴史・時代
江戸・吉原。 大見世喜瀬屋の太夫時雨が自分の見世が巻き込まれた事件を解決する物語です。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

呪法奇伝ZERO~蘆屋道満と夢幻の化生~

武無由乃
歴史・時代
さあさあ―――、物語を語り聞かせよう―――。 それは、いまだ大半の民にとって”歴”などどうでもよい―――、知らない者の多かった時代―――。 それゆえに、もはや”かの者”がいつ生まれたのかもわからぬ時代―――。 ”その者”は下級の民の内に生まれながら、恐ろしいまでの才をなした少年―――。 少年”蘆屋道満”のある戦いの物語―――。 ※ 続編である『呪法奇伝ZERO~平安京異聞録~』はノベルアップ+で連載中です。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

田んぼ作っぺ!

Shigeru_Kimoto
歴史・時代
非本格的時代短編小説 1668年、日照りで苦しむ農民のために立ち上がった男がいた。 水戸藩北部、松井村の名主、沼田惣左衛門。 父から譲り受けた村のまとめ役もそこそこに、廓通いの日々を送っていたのだが、ある日、村の者たちに詰め寄られる。 「このまま行けば、夜逃げしかねえ、そうなって困んのはオメエだ」と。 そこで、惣左衛門は咄嗟に言った。 「『灌漑用水』を山から引く用水路をつくろう!」 実は死んだ父の夢だったのだ。 村に水を引ければ安定して稲作が出来る。村人たちの願いと惣佐衛門の想いが合致した瞬間、物語は動き出す。 350年前の実話をもとに作者が手心を加えた日照りで水田の水に困窮した村人達と若き名主の惣佐衛門が紡ぐ物語。 始まります。 短編。 作中の度量換算、用語、単位、話法などは現代風に置き換えておきました。だって、わかり辛いもんね。

処理中です...