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【第二章 黄金の林檎の国】鉄壁
鉄壁(2)
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強引に押し込まれるがままに、モグモグと口を動かす。
何が三日月だ。楕円形のパンの、途中がぐにゃりと曲がっただけのものじゃないか。
パサパサした食感はたちまちのうちに口中の水分を奪った。
食糧が限られる籠城戦で何を勝手なことをと思うが、食事係として張り切る少年の様子を見ると文句を言う気も失せてしまう。
ルイ・ジュリアスであれば、このパンに対してもきっと作り手が喜ぶような感想を述べてやったんだろうな──俯きかけたシュターレンベルクの口の中に残った最後の一欠。
それを飲み下した瞬間に、喉の奥から優しく甘い香りが立ち上ってきた。
「美味しいでしょう? 元気出してよ」
──こいつ、まさか俺を慰めようと?
ちらりと隣りを見下ろすと、にこにこと笑う小僧の表情もどこか引き攣っているような。
いや、まさかと思いを打ち消す。
それにしてもこの小僧、初めはシュターレンベルク様と敬称を付けて呼んでいた筈だが、いつのまにやら呼び捨てになっている。
随分なつかれたものでどこへ行くにも付いて来て、しかも手製のパンやらお菓子やらを執拗に勧めてくるのだ。
ニコニコ笑顔が、人懐っこいやら鬱陶しいやら。
「ねぇ。シュターレンベルク、知ってる? 街のお店で売ってる小麦粉、今日は一袋三十グルデンになってたよ。昨日は二十グルデン、その前は四グルデンだったのに。これじゃあ、街のみんなが困っちゃうよ!」
何とかしてよと、泣きだしそうな声にシュターレンベルクとて視線を逸らせた。
「そ、そういうことは市長に言ってくれ。俺は物価のことは分からん」
「そんなこと言わないでよ。シュターレンベルクはお偉いさんなんでしょ」
「そうは言っても……」
黙り込んでやり過ごそうとする気配の指揮官を一睨みしてから、パン屋は指を折って何やら計算を始める。
「一人一日あたり最低でも六百グラムのパンは必要なんだよ。普段は大人なら一日一キロほど食べるんだから。小麦の値段が上がったら困る! だってみんなの主食だもん」
「まぁ、そりゃそうだ」
「適当に返事しないでよ! どんな状態であっても、食べることをおざなりにしちゃいけないんだ。生きること、即ち食べること! あっ、逆か。食べること、すなわち……アレ? ねぇ、シュターレンベルク、ちゃんと聞いてるの?」
「うるさい」
「シュターレンベルクって貴族なのにガラが悪いね!」
小声でぼやくと真顔で返される。
不快ではないが、甲高い大声はいちいち耳に刺さった。
籠城する市民と兵士──一万二千が日々喰らう食糧たるや、莫大な量であり、半年かけて備蓄した在庫もどんどん喰らい尽くす勢いである。
ドナウ艦隊を使った補給の計画が潰えた以上、小僧に言われるまでもなく新たな手を打たねばならないということは分かってはいた。
指揮官の表情が険しくなったことに、フランツは気付いたのだろう。
「僕、役に立ってるかな?」
おずおずと聞いてきた。
「ああ、立ってる立ってる」
棒読みに近い返事。
パンのことしか頭にない変人だが、パン作りばかりでなく、王宮の厨房で料理人の真似事もやって兵らの舌の救世主となってくれているのは確かだ。
この変わり者を調子づかせるのが癪でわざわざ礼など言っていないが、おそらく本人が思っている以上に役立つ存在となっているのは間違いない。
「僕がんばるからね。シュターレンベルクのために、もっともっと役に立つからね」
「あ、ああ」
微かな違和感。
──この子は一体何を必死になっているのだ?
戸惑いの思いを、この時口にすれば良かったのに。
しかしシュターレンベルクは流してしまった。
「あれ、閣下じゃないすか。どしたんすか」
アム・ホーフを抜け、ケルントナー通りに差しかかった時だ。
向こうから歩いてきた男が指揮官に声をかけてきたからだ。
出で立ちから門兵と分かる。
陵堡からグラシを監視するのが役目な筈だ。
「ご苦労だな。交代か?」
気さくすぎる口調の配下に対し、指揮官も軽く返す。
いや、便所すよ。兵士ときたら放尿する仕草をしてみせた。
シュターレンベルクが苛立ちや怒声でなく、笑い声で返したのがフランツにしてみれば意外だったのだろう。
ムスッとした表情で彼の袖を引っ張る。
「いや、いつもなら壁に引っかけて済ますんですけど。リヒャルト様が今朝から小便は決められたところでするようにとか言い出して。何言ってんだってあの小僧って感じで……あ、いや、すいません」
「リヒャルトが?」
そう言って小さく舌打ち。
「悪いな。面倒だろ」
野外戦ならともかく籠城戦での衛生面を考えれば、それは至極当然の提案であるのは確かだ。
しかし兵らの評判は悪いに違いない。
作戦と兵士らの感情、これらを天秤にかけながら上手く事を運ぶことが肝心なのに、勝手にそんな通達を出しやがって。
これで士気が僅かにでも下がったら元も子もないだろと、舌打ちにはそんな意味が込められている。
指揮官のそんな思いにまでは気付くまいが、兵は「なんのなんの」と笑ってみせる。
「面倒くさいもんすか。閣下のためなら、カラ・ムスタファの首だって取ってきますよ」
オスマン帝国軍総司令官の名をあげ、親指をシュッと動かして首を掻き切る仕草をしてみせる。
シュターレンベルクの返事も待たずに「すんません。漏れる」と行ってしまった。
ここで初めて袖を引っ張るパン屋の手に気付いて、改めて振り払う。
フランツは露骨にむくれた。
何が三日月だ。楕円形のパンの、途中がぐにゃりと曲がっただけのものじゃないか。
パサパサした食感はたちまちのうちに口中の水分を奪った。
食糧が限られる籠城戦で何を勝手なことをと思うが、食事係として張り切る少年の様子を見ると文句を言う気も失せてしまう。
ルイ・ジュリアスであれば、このパンに対してもきっと作り手が喜ぶような感想を述べてやったんだろうな──俯きかけたシュターレンベルクの口の中に残った最後の一欠。
それを飲み下した瞬間に、喉の奥から優しく甘い香りが立ち上ってきた。
「美味しいでしょう? 元気出してよ」
──こいつ、まさか俺を慰めようと?
ちらりと隣りを見下ろすと、にこにこと笑う小僧の表情もどこか引き攣っているような。
いや、まさかと思いを打ち消す。
それにしてもこの小僧、初めはシュターレンベルク様と敬称を付けて呼んでいた筈だが、いつのまにやら呼び捨てになっている。
随分なつかれたものでどこへ行くにも付いて来て、しかも手製のパンやらお菓子やらを執拗に勧めてくるのだ。
ニコニコ笑顔が、人懐っこいやら鬱陶しいやら。
「ねぇ。シュターレンベルク、知ってる? 街のお店で売ってる小麦粉、今日は一袋三十グルデンになってたよ。昨日は二十グルデン、その前は四グルデンだったのに。これじゃあ、街のみんなが困っちゃうよ!」
何とかしてよと、泣きだしそうな声にシュターレンベルクとて視線を逸らせた。
「そ、そういうことは市長に言ってくれ。俺は物価のことは分からん」
「そんなこと言わないでよ。シュターレンベルクはお偉いさんなんでしょ」
「そうは言っても……」
黙り込んでやり過ごそうとする気配の指揮官を一睨みしてから、パン屋は指を折って何やら計算を始める。
「一人一日あたり最低でも六百グラムのパンは必要なんだよ。普段は大人なら一日一キロほど食べるんだから。小麦の値段が上がったら困る! だってみんなの主食だもん」
「まぁ、そりゃそうだ」
「適当に返事しないでよ! どんな状態であっても、食べることをおざなりにしちゃいけないんだ。生きること、即ち食べること! あっ、逆か。食べること、すなわち……アレ? ねぇ、シュターレンベルク、ちゃんと聞いてるの?」
「うるさい」
「シュターレンベルクって貴族なのにガラが悪いね!」
小声でぼやくと真顔で返される。
不快ではないが、甲高い大声はいちいち耳に刺さった。
籠城する市民と兵士──一万二千が日々喰らう食糧たるや、莫大な量であり、半年かけて備蓄した在庫もどんどん喰らい尽くす勢いである。
ドナウ艦隊を使った補給の計画が潰えた以上、小僧に言われるまでもなく新たな手を打たねばならないということは分かってはいた。
指揮官の表情が険しくなったことに、フランツは気付いたのだろう。
「僕、役に立ってるかな?」
おずおずと聞いてきた。
「ああ、立ってる立ってる」
棒読みに近い返事。
パンのことしか頭にない変人だが、パン作りばかりでなく、王宮の厨房で料理人の真似事もやって兵らの舌の救世主となってくれているのは確かだ。
この変わり者を調子づかせるのが癪でわざわざ礼など言っていないが、おそらく本人が思っている以上に役立つ存在となっているのは間違いない。
「僕がんばるからね。シュターレンベルクのために、もっともっと役に立つからね」
「あ、ああ」
微かな違和感。
──この子は一体何を必死になっているのだ?
戸惑いの思いを、この時口にすれば良かったのに。
しかしシュターレンベルクは流してしまった。
「あれ、閣下じゃないすか。どしたんすか」
アム・ホーフを抜け、ケルントナー通りに差しかかった時だ。
向こうから歩いてきた男が指揮官に声をかけてきたからだ。
出で立ちから門兵と分かる。
陵堡からグラシを監視するのが役目な筈だ。
「ご苦労だな。交代か?」
気さくすぎる口調の配下に対し、指揮官も軽く返す。
いや、便所すよ。兵士ときたら放尿する仕草をしてみせた。
シュターレンベルクが苛立ちや怒声でなく、笑い声で返したのがフランツにしてみれば意外だったのだろう。
ムスッとした表情で彼の袖を引っ張る。
「いや、いつもなら壁に引っかけて済ますんですけど。リヒャルト様が今朝から小便は決められたところでするようにとか言い出して。何言ってんだってあの小僧って感じで……あ、いや、すいません」
「リヒャルトが?」
そう言って小さく舌打ち。
「悪いな。面倒だろ」
野外戦ならともかく籠城戦での衛生面を考えれば、それは至極当然の提案であるのは確かだ。
しかし兵らの評判は悪いに違いない。
作戦と兵士らの感情、これらを天秤にかけながら上手く事を運ぶことが肝心なのに、勝手にそんな通達を出しやがって。
これで士気が僅かにでも下がったら元も子もないだろと、舌打ちにはそんな意味が込められている。
指揮官のそんな思いにまでは気付くまいが、兵は「なんのなんの」と笑ってみせる。
「面倒くさいもんすか。閣下のためなら、カラ・ムスタファの首だって取ってきますよ」
オスマン帝国軍総司令官の名をあげ、親指をシュッと動かして首を掻き切る仕草をしてみせる。
シュターレンベルクの返事も待たずに「すんません。漏れる」と行ってしまった。
ここで初めて袖を引っ張るパン屋の手に気付いて、改めて振り払う。
フランツは露骨にむくれた。
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