24 / 87
陰気なマリア
陰気なマリア(9)
しおりを挟む
しかしオスマン帝国軍は勝手が違った。
彼らの捕獲対象は主に現地の民間人。
即座に身代金と引き換えられなければ、殺す。
異教徒に対して容赦などしない。
女性を捕らえ、売り飛ばすこともあるという。
画家志望のこの細腕で、そんな連中のテントに忍び込むなど考えられない。
話を聞くこちらの身が縮むようだ。
「絵を描きたいから兵士にはならないと言ったら、あんたの父親は認めてくれた。これは、そのお礼だよ」
あんたから父親に今の話を伝えておいてくれ。
そう言われ、マリアは怯んだ。
「あ、あいつは民の人望が欲しいだけよ。町では愛想もいいくせに、家ではいつも不機嫌で。市民の家や市壁の整備なんかにお金を出すせいで、うちの屋敷は雨漏りしているのよ。建て替えも修繕もできやしない」
父に伝えるなど御免被る。
顔も合わせたくないというのが本音だ。
アウフミラーがあいつの外面に騙されているのが悔しくてならない。
「あいつは偽善者なのよ。市民を戦争に駆り出しておいて、自分の家族はちゃっかり避難させているって。一体どういう了見なのよ」
シュターレンベルクの妻、つまりマリア・カタリーナの母は神経が細い女であった。
数年前のペストの大流行の時や、昨年、不吉な彗星が夜空を過ぎった時も早々に郊外へと逃げ出したものだ。
今回だって彼女は、軍人であるリヒャルトを除いた五人の子を連れて早々に避難した。
マリア・カタリーナは一緒に出るふりをして、こっそり抜け出したのだ。
オスマン軍は怖い。
だからといって、降伏しろなんて脅迫文を書いたって仕方ないのに。
そもそも、要求が通るわけがないというのに。
アウフミラーはまるで子供ねとマリア・カタリーナは湿った声で呟いて鼻を鳴らした。
──包囲が解けたら、一緒にウィーンを出ましょう。
そう言葉にしようとした時だ。
バサリ。
帳面を取り落とす音。
アウフミラーが「あっ」と声をあげる。
何冊も持つから、こうやって落としてしまうのだ。
「まったく、仕方ないわねぇ」
しゃがみこんで帳面に手を伸ばしたマリア・カタリーナ。
雲間に隠れていた太陽が不意に姿を現してその姿を照らし出す。
同時に、帳面に触れた手の動きが止まった。
「待って。何なの、この女……」
その帳面には美しいシュテッフルの塔や、王宮の壮麗な彫刻などが繊細な筆致で描かれている。
彼女も何度も見て知っているものだ。
でも、何だろう。
違和感を覚える。
アウフミラーは人物を描くことはない。
自然の景色や建物ばかりだ。
マリア・カタリーナも自分を描いてと何度かせがもうとしたのだが、彼に断られることを恐れて結局口にはしていなかった。
そのアウフミラーの帳面の中にいたのは、天使のような美しい顔であった。
柔らかな輪郭、細い髪、長い睫毛、大きな瞳と花びらのような唇──それは、女の顔である。
「この絵は天使の彫刻だよ。前も見ただろ」
アウフミラーが大切そうに帳面を拾いあげる。
その声は、少しばかり冷たく感じられた。
「そ、そうね、あたし……前に見たわね」
太陽の光に照らされ、絵の中の天使が美しく輝いて見えたから、だから驚いただけなのだろう。
マリア・カタリーナは太陽が嫌いだった。
身を縮めるように肩と背を丸め、俯く。
自分は絵の中の天使とは対極の存在だ。
アウフミラーの視線がこちらを捉えれば、その藍色の眼球に映るであろう自分の姿は、美や可憐さとはかけ離れたものとして映るであろうことはちゃんと自覚していた。
時代遅れの灰色のドレス。
きつい印象を与える化粧。
黒髪を、これまた時代にそぐわない風にきつく編み込んで、しかもそれがしっくり似合っているというのがまた哀しいところである。
「陰気なマリア」(デュースター・マリア)と貴族の子女の間で陰口を叩かれていることは知っている。
怒ることはできまい。
自分の印象はその名が示す通りなのだから。
「マリア……」
アウフミラーの唇が動く。
彼が何を言ったのか、それは分からなかった。
何故なら、突然の暴力的なまでの音が二人の声を、そしてその動きを凍りつかせたからだ。
腹に響く低い打音。
一瞬、またもやシャーヒー砲の爆撃かと身構えてしまう。
一定の調子で打ち鳴らされるその音に、彼女は足元をふらつかせた。
それが太鼓の音であると気付いたのは、右手に温もりを感じたから。
アウフミラーが彼女の手を握り締めていたのだ。
「………………」
「えっ、何? 何て言って?」
ぱくぱくと動く口。
だが、その声は届かない。
太鼓に続いて、鋭く高い悲鳴のような金管楽器が加わったからだ。
さらに木管楽器も。いくつかの音が絡み合って、不可解な音階を奏で始める。
豪雨のように、叩きつけられる「音」。
市中は恐慌に陥った。
彼らの捕獲対象は主に現地の民間人。
即座に身代金と引き換えられなければ、殺す。
異教徒に対して容赦などしない。
女性を捕らえ、売り飛ばすこともあるという。
画家志望のこの細腕で、そんな連中のテントに忍び込むなど考えられない。
話を聞くこちらの身が縮むようだ。
「絵を描きたいから兵士にはならないと言ったら、あんたの父親は認めてくれた。これは、そのお礼だよ」
あんたから父親に今の話を伝えておいてくれ。
そう言われ、マリアは怯んだ。
「あ、あいつは民の人望が欲しいだけよ。町では愛想もいいくせに、家ではいつも不機嫌で。市民の家や市壁の整備なんかにお金を出すせいで、うちの屋敷は雨漏りしているのよ。建て替えも修繕もできやしない」
父に伝えるなど御免被る。
顔も合わせたくないというのが本音だ。
アウフミラーがあいつの外面に騙されているのが悔しくてならない。
「あいつは偽善者なのよ。市民を戦争に駆り出しておいて、自分の家族はちゃっかり避難させているって。一体どういう了見なのよ」
シュターレンベルクの妻、つまりマリア・カタリーナの母は神経が細い女であった。
数年前のペストの大流行の時や、昨年、不吉な彗星が夜空を過ぎった時も早々に郊外へと逃げ出したものだ。
今回だって彼女は、軍人であるリヒャルトを除いた五人の子を連れて早々に避難した。
マリア・カタリーナは一緒に出るふりをして、こっそり抜け出したのだ。
オスマン軍は怖い。
だからといって、降伏しろなんて脅迫文を書いたって仕方ないのに。
そもそも、要求が通るわけがないというのに。
アウフミラーはまるで子供ねとマリア・カタリーナは湿った声で呟いて鼻を鳴らした。
──包囲が解けたら、一緒にウィーンを出ましょう。
そう言葉にしようとした時だ。
バサリ。
帳面を取り落とす音。
アウフミラーが「あっ」と声をあげる。
何冊も持つから、こうやって落としてしまうのだ。
「まったく、仕方ないわねぇ」
しゃがみこんで帳面に手を伸ばしたマリア・カタリーナ。
雲間に隠れていた太陽が不意に姿を現してその姿を照らし出す。
同時に、帳面に触れた手の動きが止まった。
「待って。何なの、この女……」
その帳面には美しいシュテッフルの塔や、王宮の壮麗な彫刻などが繊細な筆致で描かれている。
彼女も何度も見て知っているものだ。
でも、何だろう。
違和感を覚える。
アウフミラーは人物を描くことはない。
自然の景色や建物ばかりだ。
マリア・カタリーナも自分を描いてと何度かせがもうとしたのだが、彼に断られることを恐れて結局口にはしていなかった。
そのアウフミラーの帳面の中にいたのは、天使のような美しい顔であった。
柔らかな輪郭、細い髪、長い睫毛、大きな瞳と花びらのような唇──それは、女の顔である。
「この絵は天使の彫刻だよ。前も見ただろ」
アウフミラーが大切そうに帳面を拾いあげる。
その声は、少しばかり冷たく感じられた。
「そ、そうね、あたし……前に見たわね」
太陽の光に照らされ、絵の中の天使が美しく輝いて見えたから、だから驚いただけなのだろう。
マリア・カタリーナは太陽が嫌いだった。
身を縮めるように肩と背を丸め、俯く。
自分は絵の中の天使とは対極の存在だ。
アウフミラーの視線がこちらを捉えれば、その藍色の眼球に映るであろう自分の姿は、美や可憐さとはかけ離れたものとして映るであろうことはちゃんと自覚していた。
時代遅れの灰色のドレス。
きつい印象を与える化粧。
黒髪を、これまた時代にそぐわない風にきつく編み込んで、しかもそれがしっくり似合っているというのがまた哀しいところである。
「陰気なマリア」(デュースター・マリア)と貴族の子女の間で陰口を叩かれていることは知っている。
怒ることはできまい。
自分の印象はその名が示す通りなのだから。
「マリア……」
アウフミラーの唇が動く。
彼が何を言ったのか、それは分からなかった。
何故なら、突然の暴力的なまでの音が二人の声を、そしてその動きを凍りつかせたからだ。
腹に響く低い打音。
一瞬、またもやシャーヒー砲の爆撃かと身構えてしまう。
一定の調子で打ち鳴らされるその音に、彼女は足元をふらつかせた。
それが太鼓の音であると気付いたのは、右手に温もりを感じたから。
アウフミラーが彼女の手を握り締めていたのだ。
「………………」
「えっ、何? 何て言って?」
ぱくぱくと動く口。
だが、その声は届かない。
太鼓に続いて、鋭く高い悲鳴のような金管楽器が加わったからだ。
さらに木管楽器も。いくつかの音が絡み合って、不可解な音階を奏で始める。
豪雨のように、叩きつけられる「音」。
市中は恐慌に陥った。
10
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
不屈の葵
ヌマサン
歴史・時代
戦国乱世、不屈の魂が未来を掴む!
これは三河の弱小国主から天下人へ、不屈の精神で戦国を駆け抜けた男の壮大な物語。
幾多の戦乱を生き抜き、不屈の精神で三河の弱小国衆から天下統一を成し遂げた男、徳川家康。
本作は家康の幼少期から晩年までを壮大なスケールで描き、戦国時代の激動と一人の男の成長物語を鮮やかに描く。
家康の苦悩、決断、そして成功と失敗。様々な人間ドラマを通して、人生とは何かを問いかける。
今川義元、織田信長、羽柴秀吉、武田信玄――家康の波乱万丈な人生を彩る個性豊かな名将たちも続々と登場。
家康との関わりを通して、彼らの生き様も鮮やかに描かれる。
笑いあり、涙ありの壮大なスケールで描く、単なる英雄譚ではなく、一人の人間として苦悩し、成長していく家康の姿を描いた壮大な歴史小説。
戦国時代の風雲児たちの活躍、人間ドラマ、そして家康の不屈の精神が、読者を戦国時代に誘う。
愛、友情、そして裏切り…戦国時代に渦巻く人間ドラマにも要注目!
歴史ファン必読の感動と興奮が止まらない歴史小説『不屈の葵』
ぜひ、手に取って、戦国時代の熱き息吹を感じてください!
鎌倉最後の日
もず りょう
歴史・時代
かつて源頼朝や北条政子・義時らが多くの血を流して築き上げた武家政権・鎌倉幕府。承久の乱や元寇など幾多の困難を乗り越えてきた幕府も、悪名高き執権北条高時の治政下で頽廃を極めていた。京では後醍醐天皇による倒幕計画が持ち上がり、世に動乱の兆しが見え始める中にあって、北条一門の武将金澤貞将は危機感を募らせていく。ふとしたきっかけで交流を深めることとなった御家人新田義貞らは、貞将にならば鎌倉の未来を託すことができると彼に「決断」を迫るが――。鎌倉幕府の最後を華々しく彩った若き名将の清冽な生きざまを活写する歴史小説、ここに開幕!
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
国殤(こくしょう)
松井暁彦
歴史・時代
目前まで迫る秦の天下統一。
秦王政は最大の難敵である強国楚の侵攻を開始する。
楚征伐の指揮を任されたのは若き勇猛な将軍李信。
疾風の如く楚の城郭を次々に降していく李信だったが、彼の前に楚最強の将軍項燕が立ちはだかる。
項燕の出現によって狂い始める秦王政の計画。項燕に対抗するために、秦王政は隠棲した王翦の元へと向かう。
今、項燕と王翦の国の存亡をかけた戦いが幕を開ける。
鉾の雫~平手政秀と津島御師~
黒坂 わかな
歴史・時代
舞台は1500年頃、尾張津島。
吉法師(のちの織田信定)と五棒(のちの平手政秀)は幼い頃から津島の天王社(津島神社)に通い、神職の子である次郎とよく遊び、夏に行われる天王祭を楽しみにしていた。
天王祭にて吉法師と五棒はさる人物に出会い、憧れを抱く。御師となった次郎を介してその人物と触れ合い、志を共にするが・・・。
織田信長の先祖の織田弾正忠家が、勢力拡大の足掛かりをどのようにして掴んだかを描きました。
挿絵は渡辺カヨ様です。
※この物語は史実を元にしたフィクションです。実在する施設や人物等には一切関係ありません。
蘭癖高家
八島唯
歴史・時代
一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。
遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。
時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。
大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを――
※挿絵はAI作成です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる