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陰気なマリア
陰気なマリア(4)
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※ ※ ※
二人の沈黙を破ったのは聖堂の扉が勢いよく開いた音と、ぜぇぜぇという荒い呼吸音だった。
グイードとバーデン伯だ。
両膝に手を置いて屈み込み肩で大きく息をついているバーデン伯の傍らで、グイードは物も言わずに皮鎧を脱いでいる。
動作のたびにキラキラと汗が飛び散る様が、七月の暑さを表していた。
「う、上は風が……気持ち良かったぜ……」
「だ、だが……誰もおらぬ」
息も絶え絶えといった二人の様子に、シュターレンベルクは表情を緩めた。
「ご苦労だったな」
悲壮な感情が薄れていくのが分かる。
市長も同じ気持ちなのか。
「ならば、残るはあの場所しかありませんね」と呟く声は明るかった。
「あ、あの場所……とは?」
「も、もう歩けねぇ……」
「二人とも、黙って付いてこい」
ガウンの裾を翻して、市長はこちらに背を向ける。
シュターレンベルクと、汗だくで息をきらせた二人も後に続いた。
聖シュテファン大聖堂より、ケルントナー通りを戻って石畳を歩くこと数分。
そこが、市長の言う「あの場所」である。
まず、簡素な十字架が目に入った。
そこは五十年ほど前にようやく完成した比較的新しい教会である。
名をカプツィナー教会という。
教会自体は市民や避難民に開放しており、堂内では市長であるヨハンの姿もよく見かけられるということは知られていた。
開け放たれたままの入口から中に入ると、礼拝堂の椅子や床に敷いた敷物に座り込む人々。
また、忙しなげに立ち働く面々がいっせいにこちらを振り向く。
そこに市長や防衛司令官の姿を認めると、口々に質問や苦情の声が飛んだ。
「まぁまぁ、後でな。すまないな」と彼らに声をかけ、勝手知ったるという様子で奥へと進む市長。あとの三人もそそくさと後に続く。
祭壇とは逆の壁際。
装飾の施された重い扉を市長が開けると、冷たい空気がヒュウと流れでる地下への階段が現れた。
四人は暗がりを足先で探るように恐る恐る降りてゆく。
扉からこっちには、さすがに人のざわめきはなかった。
密閉された地下で危ないということもあろうが、カプツィナー教会の地下空間がハプスブルク家の墓所となっていることもあろう。
一段一段階段を降りるにつれ、冷えた空気が足元にまとわりつくのを意識する。
そこには、納骨堂として使われているだだっ広い空間が広がっていた。
人がいるはずのない場所なのに奥の方にぼんやりした光を認める。
灯かりの中には、生前の行いや本人の趣向にちなんだ装飾が施された棺桶がまるで亡霊のように浮かび上がっていた。
暗くて足元もおぼつかなかったため、そろりそろりと足音も忍ぶくらいの速度で階段を降りていたバーデン伯。
平らな地面と遠くの光に気を許したか、ふぅと大きく息をついて踵を踏み鳴らす。
瞬間「あっ」という短い叫びと共に灯かりが消えた。
誰かがいるのは明らかだ。
反射的にグイードが腰を落とし、臨戦態勢に入る気配。
その叫び声に嫌な予感を覚えつつ、シュターレンベルクはゆっくりと奥に歩を進める。
背中のマスケット銃に手をかける様子はなく、足取りからも警戒心は感じられない。
近付いてくるシュターレンベルクの足音に、奥にいた人物は棺桶の影に身を潜めようとしたのだろう。
固いものがぶつかる鈍い音。
同時に「アゥッ」と悲痛な呻き声があがった。
「こんな所で何をやってるんだ、リヒャルト」
シュターレンベルクの押し殺した低い声に観念したのか、再び火が灯されると、そこには膝を押さえてうずくまる息子の姿が浮かび上がった。
棺桶の角でぶつけたのであろう。
先程の悲鳴。少々抜けているそれは、まさに息子の声そのものであった。
そしてその後ろには、闇に同化するかのような灰色のドレスをまとった女がひとり。
まるで彫刻のように棺桶に腰かけていたのだ。
「あたしがお兄さまを脅したのよ。食べ物とワインを持ってきて頂戴って」
悪びれる風もないその娘。
悠然と灯りを掲げて、その場に立ち上がった。
リヒャルトよりも背が高く、しかし骨が浮いて見えるくらい痩せている。
伸びた前髪の下から覗く両の目は、じっとりと侵入者四名に注がれていた。
娘の名はマリア・カタリーナ。
大貴族シュターレンベルク家の娘である。
本来ならば包囲された街の、しかも墓所にいるとは想像できない人物である筈だ。
「お兄さま、後をつけられたわね」
「ち、違っ! 私はとても気を付けて……ルイ・ジュリアス殿やフランツ殿が私の後を追いかけてくるのを、カプツィナー教会の中で上手く撒いて……」
「教会に着く前に撒きなさいよ。この役立たず」
「ひっ……」
気弱な兄は、妹に完全にやり込められていた。
二人の沈黙を破ったのは聖堂の扉が勢いよく開いた音と、ぜぇぜぇという荒い呼吸音だった。
グイードとバーデン伯だ。
両膝に手を置いて屈み込み肩で大きく息をついているバーデン伯の傍らで、グイードは物も言わずに皮鎧を脱いでいる。
動作のたびにキラキラと汗が飛び散る様が、七月の暑さを表していた。
「う、上は風が……気持ち良かったぜ……」
「だ、だが……誰もおらぬ」
息も絶え絶えといった二人の様子に、シュターレンベルクは表情を緩めた。
「ご苦労だったな」
悲壮な感情が薄れていくのが分かる。
市長も同じ気持ちなのか。
「ならば、残るはあの場所しかありませんね」と呟く声は明るかった。
「あ、あの場所……とは?」
「も、もう歩けねぇ……」
「二人とも、黙って付いてこい」
ガウンの裾を翻して、市長はこちらに背を向ける。
シュターレンベルクと、汗だくで息をきらせた二人も後に続いた。
聖シュテファン大聖堂より、ケルントナー通りを戻って石畳を歩くこと数分。
そこが、市長の言う「あの場所」である。
まず、簡素な十字架が目に入った。
そこは五十年ほど前にようやく完成した比較的新しい教会である。
名をカプツィナー教会という。
教会自体は市民や避難民に開放しており、堂内では市長であるヨハンの姿もよく見かけられるということは知られていた。
開け放たれたままの入口から中に入ると、礼拝堂の椅子や床に敷いた敷物に座り込む人々。
また、忙しなげに立ち働く面々がいっせいにこちらを振り向く。
そこに市長や防衛司令官の姿を認めると、口々に質問や苦情の声が飛んだ。
「まぁまぁ、後でな。すまないな」と彼らに声をかけ、勝手知ったるという様子で奥へと進む市長。あとの三人もそそくさと後に続く。
祭壇とは逆の壁際。
装飾の施された重い扉を市長が開けると、冷たい空気がヒュウと流れでる地下への階段が現れた。
四人は暗がりを足先で探るように恐る恐る降りてゆく。
扉からこっちには、さすがに人のざわめきはなかった。
密閉された地下で危ないということもあろうが、カプツィナー教会の地下空間がハプスブルク家の墓所となっていることもあろう。
一段一段階段を降りるにつれ、冷えた空気が足元にまとわりつくのを意識する。
そこには、納骨堂として使われているだだっ広い空間が広がっていた。
人がいるはずのない場所なのに奥の方にぼんやりした光を認める。
灯かりの中には、生前の行いや本人の趣向にちなんだ装飾が施された棺桶がまるで亡霊のように浮かび上がっていた。
暗くて足元もおぼつかなかったため、そろりそろりと足音も忍ぶくらいの速度で階段を降りていたバーデン伯。
平らな地面と遠くの光に気を許したか、ふぅと大きく息をついて踵を踏み鳴らす。
瞬間「あっ」という短い叫びと共に灯かりが消えた。
誰かがいるのは明らかだ。
反射的にグイードが腰を落とし、臨戦態勢に入る気配。
その叫び声に嫌な予感を覚えつつ、シュターレンベルクはゆっくりと奥に歩を進める。
背中のマスケット銃に手をかける様子はなく、足取りからも警戒心は感じられない。
近付いてくるシュターレンベルクの足音に、奥にいた人物は棺桶の影に身を潜めようとしたのだろう。
固いものがぶつかる鈍い音。
同時に「アゥッ」と悲痛な呻き声があがった。
「こんな所で何をやってるんだ、リヒャルト」
シュターレンベルクの押し殺した低い声に観念したのか、再び火が灯されると、そこには膝を押さえてうずくまる息子の姿が浮かび上がった。
棺桶の角でぶつけたのであろう。
先程の悲鳴。少々抜けているそれは、まさに息子の声そのものであった。
そしてその後ろには、闇に同化するかのような灰色のドレスをまとった女がひとり。
まるで彫刻のように棺桶に腰かけていたのだ。
「あたしがお兄さまを脅したのよ。食べ物とワインを持ってきて頂戴って」
悪びれる風もないその娘。
悠然と灯りを掲げて、その場に立ち上がった。
リヒャルトよりも背が高く、しかし骨が浮いて見えるくらい痩せている。
伸びた前髪の下から覗く両の目は、じっとりと侵入者四名に注がれていた。
娘の名はマリア・カタリーナ。
大貴族シュターレンベルク家の娘である。
本来ならば包囲された街の、しかも墓所にいるとは想像できない人物である筈だ。
「お兄さま、後をつけられたわね」
「ち、違っ! 私はとても気を付けて……ルイ・ジュリアス殿やフランツ殿が私の後を追いかけてくるのを、カプツィナー教会の中で上手く撒いて……」
「教会に着く前に撒きなさいよ。この役立たず」
「ひっ……」
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