16 / 87
陰気なマリア
陰気なマリア(1)
しおりを挟む
「オスマン帝国軍など、おれの歌で跳ね返してやるぞ」
グイードが声を張り上げた。
音楽をこよなく愛する皇帝レオポルトに、いつだったか声を褒められたことがあるらしい。
以来、公衆の面前でも実に堂々と自慢の喉を披露するようになっていたのだ、この男は。
「や、やめろ……」
シュターレンベルク、両手で耳を塞ぎながら呻く。
壊れた弦楽器と大太鼓を同時に耳元で打ち鳴らされているようだ。
オスマン帝国軍の砲撃と比べてどちらがマシかと問われれば、返答に窮するというのが正直なところ。
いや、グイードの大音量のだみ声に比べれば、敵軍の攻撃など可愛くすら思える時もある。
ああ、この「歌」が向こうにまで届いたなら、敵に対してせめてもの嫌がらせになるだろうに──そう思うと、無念な思いが込み上げる。
「や、やめろ、グイード。市壁にヒビでも入れたら殺すぞ」
「なんと、兄上。はははっ! 硝子を震わせることは出来ようが、さすがのおれも壁にヒビなど……。いや、兄上。それは買いかぶりというものだ」
「………………」
嫌味も通じやしない。
先程、敵の斥候と戦闘を行った話が、そろそろあちらの指揮官の耳に届いた頃合いだろうか。
敵に動きはみえるだろうか。
いや、どちらにしろ問題はない。
堅牢なウィーンの市壁内にこもっている限り、向こうは手出しなんてできやしないのだから。
小屋の撤去は既に手配済みだ。
近くまで行って丁寧に解体する必要はない。
弓矢の届くぎりぎりの距離から火矢を射かけておけば万事完了だ。
今現在、差し迫った問題は──とシュターレンベルクは目の前で声を荒げる二人の人物に視線を送った。
そして、おもむろに溜め息をつく。
「女性がさらわれたのなら、すぐに救出部隊を繰り出すのが当然だろうが」
今のこの街では珍しく白銀巻き毛のカツラを被った、まだ若い男が叫んだ。
「お待ちなさい。救出部隊なと組織する余裕がどこにあると言うのです」
諫めるのは齢五十ほどの貫禄ある男だ。
ゆったりした外套から、武人でないことが伺える。
「それはそうだが。だがな、市長よ。とっととアイツの娘を救い出してやりゃあ、いけすかねぇシュターレンベルクの鼻を明かしてやれる。良い機会じゃねぇか」
「それはそうですが。あなた、あまりにあからさまですよ。そもそもどうして防衛司令官殿のご令嬢がウィーンに残っているのですか。とうに避難されたはずです。真偽も定かでない以上、この手紙は怪文書にすぎません。第一、防衛司令官殿はどこに消えたのですか!」
「それだよ! あの野郎。壁から出てグラシで呑気に馬を駆ってるらしいぜ」
「何ですって!」
怒鳴り合いを、兵士らが遠巻きに見ている。
市民が行き交う往来でなく、兵らの詰所とされている王宮の庭でやり合っているのは、まだ思慮深い行為だといえようか。
「何ですって」のタイミングで、彼らは自分たちの元に近付いて来るウィーン防衛司令官の存在に気付いたらしい。
「あっ……」
カツラの男が小さく声をあげた。
しまったという思いが、表情ににじみ出ている。
優美な白銀のカツラと派手な赤色の上着。
腰には黄金で装飾された剣を帯びている。
いかにも貴族らしい出で立ちの、それでいて若さが先立って思慮が浅そうなこの男。
名をルートヴィヒ・フォン・バーデン伯という。
グイードと同年代でありながら、帝国軍事参謀議長の甥ということもあって、シュターレンベルクにとっては気を遣わなければならない相手のひとりであった。
いや、悪口を言っている相手がすぐ側にいたと気付いて居心地悪そうに視線を逸らすだけ、バーデン伯にはまだ可愛げがあろうか。
問題はもうひとり。
年かさの男の方だ。
「おや、いずこかで乗馬を楽しんでいらした防衛司令官殿がお戻りになったところで、喫緊の課題についてご意見を伺いましょうか」
サラリと嫌味を吐いてから──ヒラリ。
その手には一枚の紙が翻っていた。
先程、その口で怪文書と断じていた手紙を手に、外套を着た男がジロリとシュターレンベルクを睨み据える。
指揮官の靴下に泥の跳ね返りが付いていること、何より身にまとう血の匂いから、あらかたのことは悟った様子だ。
ウィーン市長ヨハン・アンドレアス・フォン・リュベンベルク。
彫りの深い顔立ちは人格者と評されるに相応しい容貌である。
市民の信頼を背に、王宮での存在感も大きい。
ただこの男……シュターレンベルクに言わせると、いささか嫌味っぽくていけない。この嫌味男を、陰では「ジジィ」と呼んでいるのは秘密だ。
喰えない男──印象はその一語につきる。
市民の代表という立場である市長と、軍人の反りが合わないのは、どの都市でも同じであろう。
「防衛司令官殿が我々の知らない間に市壁の外へ出られて、もしも戦闘にでも巻き込まれて怪我でもされては、市内全体の士気にも関わります。グイード殿、あなたもです」
シュターレンベルクの後ろにいて知らぬ顔を決め込んでいた弟分が、さっと顔を俯ける。
返事をしないところをみると、無視を決め込むつもりのようだ。
グイードが声を張り上げた。
音楽をこよなく愛する皇帝レオポルトに、いつだったか声を褒められたことがあるらしい。
以来、公衆の面前でも実に堂々と自慢の喉を披露するようになっていたのだ、この男は。
「や、やめろ……」
シュターレンベルク、両手で耳を塞ぎながら呻く。
壊れた弦楽器と大太鼓を同時に耳元で打ち鳴らされているようだ。
オスマン帝国軍の砲撃と比べてどちらがマシかと問われれば、返答に窮するというのが正直なところ。
いや、グイードの大音量のだみ声に比べれば、敵軍の攻撃など可愛くすら思える時もある。
ああ、この「歌」が向こうにまで届いたなら、敵に対してせめてもの嫌がらせになるだろうに──そう思うと、無念な思いが込み上げる。
「や、やめろ、グイード。市壁にヒビでも入れたら殺すぞ」
「なんと、兄上。はははっ! 硝子を震わせることは出来ようが、さすがのおれも壁にヒビなど……。いや、兄上。それは買いかぶりというものだ」
「………………」
嫌味も通じやしない。
先程、敵の斥候と戦闘を行った話が、そろそろあちらの指揮官の耳に届いた頃合いだろうか。
敵に動きはみえるだろうか。
いや、どちらにしろ問題はない。
堅牢なウィーンの市壁内にこもっている限り、向こうは手出しなんてできやしないのだから。
小屋の撤去は既に手配済みだ。
近くまで行って丁寧に解体する必要はない。
弓矢の届くぎりぎりの距離から火矢を射かけておけば万事完了だ。
今現在、差し迫った問題は──とシュターレンベルクは目の前で声を荒げる二人の人物に視線を送った。
そして、おもむろに溜め息をつく。
「女性がさらわれたのなら、すぐに救出部隊を繰り出すのが当然だろうが」
今のこの街では珍しく白銀巻き毛のカツラを被った、まだ若い男が叫んだ。
「お待ちなさい。救出部隊なと組織する余裕がどこにあると言うのです」
諫めるのは齢五十ほどの貫禄ある男だ。
ゆったりした外套から、武人でないことが伺える。
「それはそうだが。だがな、市長よ。とっととアイツの娘を救い出してやりゃあ、いけすかねぇシュターレンベルクの鼻を明かしてやれる。良い機会じゃねぇか」
「それはそうですが。あなた、あまりにあからさまですよ。そもそもどうして防衛司令官殿のご令嬢がウィーンに残っているのですか。とうに避難されたはずです。真偽も定かでない以上、この手紙は怪文書にすぎません。第一、防衛司令官殿はどこに消えたのですか!」
「それだよ! あの野郎。壁から出てグラシで呑気に馬を駆ってるらしいぜ」
「何ですって!」
怒鳴り合いを、兵士らが遠巻きに見ている。
市民が行き交う往来でなく、兵らの詰所とされている王宮の庭でやり合っているのは、まだ思慮深い行為だといえようか。
「何ですって」のタイミングで、彼らは自分たちの元に近付いて来るウィーン防衛司令官の存在に気付いたらしい。
「あっ……」
カツラの男が小さく声をあげた。
しまったという思いが、表情ににじみ出ている。
優美な白銀のカツラと派手な赤色の上着。
腰には黄金で装飾された剣を帯びている。
いかにも貴族らしい出で立ちの、それでいて若さが先立って思慮が浅そうなこの男。
名をルートヴィヒ・フォン・バーデン伯という。
グイードと同年代でありながら、帝国軍事参謀議長の甥ということもあって、シュターレンベルクにとっては気を遣わなければならない相手のひとりであった。
いや、悪口を言っている相手がすぐ側にいたと気付いて居心地悪そうに視線を逸らすだけ、バーデン伯にはまだ可愛げがあろうか。
問題はもうひとり。
年かさの男の方だ。
「おや、いずこかで乗馬を楽しんでいらした防衛司令官殿がお戻りになったところで、喫緊の課題についてご意見を伺いましょうか」
サラリと嫌味を吐いてから──ヒラリ。
その手には一枚の紙が翻っていた。
先程、その口で怪文書と断じていた手紙を手に、外套を着た男がジロリとシュターレンベルクを睨み据える。
指揮官の靴下に泥の跳ね返りが付いていること、何より身にまとう血の匂いから、あらかたのことは悟った様子だ。
ウィーン市長ヨハン・アンドレアス・フォン・リュベンベルク。
彫りの深い顔立ちは人格者と評されるに相応しい容貌である。
市民の信頼を背に、王宮での存在感も大きい。
ただこの男……シュターレンベルクに言わせると、いささか嫌味っぽくていけない。この嫌味男を、陰では「ジジィ」と呼んでいるのは秘密だ。
喰えない男──印象はその一語につきる。
市民の代表という立場である市長と、軍人の反りが合わないのは、どの都市でも同じであろう。
「防衛司令官殿が我々の知らない間に市壁の外へ出られて、もしも戦闘にでも巻き込まれて怪我でもされては、市内全体の士気にも関わります。グイード殿、あなたもです」
シュターレンベルクの後ろにいて知らぬ顔を決め込んでいた弟分が、さっと顔を俯ける。
返事をしないところをみると、無視を決め込むつもりのようだ。
10
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
妖賀
伊達マキ
歴史・時代
応仁の乱が勃発し、焼け野原となった京で、銕三郎という青年に拾われた童の仁。
銕三郎は、妖賀者という妖怪でもない、正体不明の化け物を殺す誅伐隊の隊士であった。
2人は,仲睦まじく暮らしていたが,突如悲劇が襲う。
お松という名の女と任務を共にした銕三郎は、天壌無窮という呪いを受け、死んだ。
天壌無窮は、呪いを受けた者が死に至った直後、その人物が愛した者へと呪いがうつるものであった。
銕三郎が受けた呪いは,仁へとふりかかった。
それから仁は、銕三郎の師匠、九郎に引き取られる。
しばらくして、仁と九郎は、天壌無窮と妖賀者の関係を知る事となった。
九郎の事を親として愛し始めていた仁は、呪いが九郎にうつることを阻止するため、自分の人生のためにも、誅伐隊に入隊する事を決めた。
ここから妖賀者と仁の壮絶な戦いが始まっていく。
神速艦隊
ypaaaaaaa
歴史・時代
「我々海軍は一度創成期の考えに立ち返るべきである」
八八艦隊計画が構想されていた大正3年に時の内閣総理大臣であった山本権兵衛のこの発言は海軍全体に激震を走らせた。これは八八艦隊を実質的に否定するものだったからだ。だが山本は海軍の重鎮でもあり八八艦隊計画はあえなく立ち消えとなった。そして山本の言葉通り海軍創成期に立ち返り改めて海軍が構想したのは高速性、速射性を兼ねそろえる高速戦艦並びに大型巡洋艦を1年にそれぞれ1隻づつ建造するという物だった。こうして日本海軍は高速艦隊への道をたどることになる…
いつも通りこうなったらいいなという妄想を書き綴ったものです!楽しんで頂ければ幸いです!
大切”だった”仲間に裏切られたので、皆殺しにしようと思います
騙道みりあ
ファンタジー
魔王を討伐し、世界に平和をもたらした”勇者パーティー”。
その一員であり、”人類最強”と呼ばれる少年ユウキは、何故か仲間たちに裏切られてしまう。
仲間への信頼、恋人への愛。それら全てが作られたものだと知り、ユウキは怒りを覚えた。
なので、全員殺すことにした。
1話完結ですが、続編も考えています。
特殊部隊の俺が転生すると、目の前で絶世の美人母娘が犯されそうで助けたら、とんでもないヤンデレ貴族だった
なるとし
ファンタジー
鷹取晴翔(たかとりはると)は陸上自衛隊のとある特殊部隊に所属している。だが、ある日、訓練の途中、不慮の事故に遭い、異世界に転生することとなる。
特殊部隊で使っていた武器や防具などを召喚できる特殊能力を謎の存在から授かり、目を開けたら、絶世の美女とも呼ばれる母娘が男たちによって犯されそうになっていた。
武装状態の鷹取晴翔は、持ち前の優秀な身体能力と武器を使い、その母娘と敷地にいる使用人たちを救う。
だけど、その母と娘二人は、
とおおおおんでもないヤンデレだった……
第3回次世代ファンタジーカップに出すために一部を修正して投稿したものです。
【第一章完】からくり始末記~零号と拾参号からの聞書~
阿弥陀乃トンマージ
歴史・時代
江戸の世に入って、しばらくが経った頃、とある老中のもとに、若い女子が呼び寄せられた。訝しげに見つめる老中だったが、その女子は高い実力を示す。それを目の当たりにした老中は女子に、日本各地に点在している、忌まわしきものの破壊工作を命じる。『藤花』という女子はそれを了承した。
出発の日の早朝、藤花の前に不思議な雰囲気の長身の男が立っていた。杖と盾しか持っていない男の名は『楽土』。自らが役目をこなせるかどうかの監視役かなにかであろうと思った藤花は、あえて楽土が同行することを許す。
藤花と楽土は互いの挨拶もそこそこに、江戸の町を出立する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる