クロワッサン物語

コダーマ

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【序章】赤い三日月

赤い三日月(1)

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 見上げる空。夜の帳が一気に周囲を闇に包む。
 雲ひとつないというのは、そこに輝く星々の存在で分かった。
 それから月──強い光を放つ赤い三日月。

 七月のオーストリアは初夏である。
 日中は汗ばむ陽射しだが、陽が落ちればひんやりとした空気がここウィーンの市壁内を満たす。
 壁の外には涼風が吹き抜けていることだろう。

 狭い街の中にひしめくように立ち並ぶ建物の影が、月明りにぼぅと浮かびあがっていた。
 その向こうから光が一筋。
 市の中心に聳える聖シュテファン大聖堂の塔を浮かび上がらせた。
 流れ星ではない。
 それはゴウと唸る爆音と共に発射され、低い放物線を描いて落下したからだ。

「シャーヒー砲……またか」

 男は自分が苛ついているのが分かった。
 ギリと爪を噛み、窓辺から離れる。
 舌打ち。

 遠くで上がる爆発音。
 市街の空き地(グラシ)に大砲の弾が落下したのだろう。
 王宮(ホーフブルク)の隅に与えられたこの部屋からは目視で確認することは出来ないが、音で察せられる。

 凝りもせず──というのが正直な感想だ。

 午後から数分、或いは数十分おきに砲撃が行われているが、全て虚しく空き地(グラシ)の土を穿っている。
 シャーヒー砲は小振りで運搬しやすいという利点はあるものの、口径が狭い野砲だ。
 奴らが布陣している位置からであれば、ウィーン市内どころか、市をぐるりと囲む壁に掠ることすら敵わないだろう。

 念のため、陵堡で警備についている兵に市壁の損傷がないか確認しなくてはと思うものの、男は部屋を出るでもなく、かといって椅子に座るでもなく中途半端な位置で立ち尽くしている。
 睨み付ける扉がようやく開いたのは、しばらく経ってからのことであった。

 遅いぞ、危ないじゃないか。どこへ行っていたと怒鳴るのは堪える。
 今大声をあげると我を忘れてしまいそうだから。

「あら、閣下、戻っていらしてたんですの。なぁんだ……」

 それなら焼き菓子をもう一つ買ってきましたのに。

 こともなげにそう言ったのは、華奢な体躯の若い女であった。
 白い指がヒラリと翻ってフードを払う。
 滝のように流れ落ちる黄金の髪を、男は呆けたように見つめるだけ。

 まばたきをするたびに頬に影を落とす黄金色の睫毛は可憐で、そこから覗く緑の瞳は聡明な光を湛えていた。

「エルミア、こんな時間にどこへ行っていたんだ」

「どこって……閣下? どうかなさったの?」

 ウィーンの森もかくやという深い色合いの緑が、茶目っ気たっぷりに細められる。
 わざと戸惑う表情をつくって、彼女は両手の人差し指と親指で丸の形を作ってみせた。

「ガレット、やっぱり閣下も食べたかったの? 最近は美味しいものが食べられなくなってきましたものね。パン屋も店を閉めて余所へ避難してしまったもの」

 つまり、菓子を買いに行っていたというのか? こんな夜中に?
 敵軍に包囲される前にと、街のパン屋は避難したというのに。
 なんとか手に入れましたのよと、女はため息をつく。

「いいですわ、半分さしあげます」

 既に口にくわえていた焼き菓子を恩着せがましく半分に割って、小さい方を男に差し出した。
 とはいえ寄越すつもりはないようで、彼が手を伸ばしかけるとその場から一歩後退する仕草をみせる。
 男が半歩踏み出すと、すんでのところで身を翻す。

 実務を重視した簡素な室内は、たちまちのうちにダンスホールに早変わりした。
 だが、戦時中のこと。
 皇帝気に入りの楽師が音楽を奏でることはない。
 薄い絨毯越しに軍靴の踵が床を打つ音が、天井に反響して二人の上にリズミカルに降り注いだ。
 川の水面のようにヒラヒラと波打つスカートの裾。

 僅かばかりの華やぎを破ったのは、やはり男の苛立ちであった。

「エルミア、市はオスマン帝国軍に包囲された。一人で出歩くなと言ってるだろうが」

 ダンスホールは、たちまちのうちに薄暗い部屋に戻る。
 一階の裏庭に面しているため大きく開かれた窓がなければ、ふたりは気まずい闇に押し潰されたことだろう。
 尚も差し出されるガレットに、手を振っていらないという仕草をすると、彼女は躊躇する様子もなく小さい方まで自身の口に放り込んだ。
 菓子の欠片がついた紅色の唇が、笑みの形をつくる。

「平気ですわ。だってウィーンは閣下が守ってらっしゃるのでしょう?」

「そういう問題じゃ……」

「だって、ほら。俺が指揮を執っている限り何の不安もないって仰っていらしたじゃありませんの」

「それはそうだが……。でも壁の中は混乱している。もしお前に何かあったら……」

壁の中ウィーンでは、危ないことなんて何もありませんわ。市民の方はみんな一生懸命に防衛準備をなさっていて頼もしいですもの。閣下は心配しすぎだわ」

「そりゃ……けど黙って部屋からいなくなったら心配にもなるだろう」

 彼の声は上ずっていた。
 つまるところ、男は女に惚れていたのだ。
 それを大いに自覚しているのだろう。
 エルミアの唇の端が意地悪そうに吊りあがる。
 少女のように残酷な声に、邪気のない微笑み。
 細められた瞳の奥には、チラチラと光が瞬いている。
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