湖に還る日

笠緒

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第三章 掬った水面のその色は

天正二年――冬を臨む、高島にて・弐

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義父上ちちうえさま、あの……、お待たせを、致しました」

 上座で磯野員昌いそのかずまさが座している部屋へと足を踏み入れたきょうは、軽い会釈と共に声をかける。そして、しゅる、と衣擦れの音を立てながら部屋の片隅へと腰を下ろした。
 さら、と背で揺れた黒髪の毛先が、板間を滑る。
 後ろに続いていた於逸おいつが廊下に控える侍女へ目配せし、障子戸を閉めさせると、磯野は胸元で組んでいた腕を解いた。

「ん、あぁ。明智あけちの娘御どの。こちらこそ、七兵衛しちべえの留守に押しかけてしまい、済まないな」
「あ……あの、いえ……」

 明智の娘御――。
 確かに間違いではないのだが、自身が磯野にとって望んでいる嫁でないという事はこの一言からも明らかだろう。

(でも、今は……特に、ご機嫌を損ねられている……というわけではないのかしら)

 ちら、と窺っただけでは、当然、彼が何を考えているかなどわかるわけもないのだが、突然の訪問を詫びる言葉が出るという事は、この場で何か叱責されるというわけではないのだろうか。
 磯野の頬の半分ほどは濃い髭で覆われており、その眼光も、流石は猛将と恐れられた武将だけあってギョロリと大きく鋭い。癖の強そうな髪はやや乱雑に結われており、眉も太く濃く、自然とへの字を描く唇から発せられる声は、ただただ低かった。
 少し間違えれば野伏のぶせりと思われそうなその風貌は、辛うじて身に纏う笹竜胆が描かれた大紋だいもんのお蔭で、どこぞ名のある武将なのだと伺い知れた。

(あ……、でも)

 袖口の露先つゆさきほつれ、千切れそうになっており、生地自体が大分古いものなのか、ぱっと見ただけでも擦り切れ薄くなったところが目立っている。新庄しんじょう城にも勿論女手はあるだろうが、やはり奥方がいないとこういった細かいところに中々気づいてもらえないのかもしれない。

(磯野さまのご実子に妻でもあれば、その方が内々の事はお世話してくださるのでしょうけど……)

 磯野の息子は三人いるが、いずれもまだ正式な妻帯はしていなかったはずだ。

(って……、息子というなら、旦那さまもそうだったわ……)

 つまるところ、それは京が世話すべき仕事である。差し出がましい事かもしれない、と一瞬悩んだが、やはり衣替えに合わせ磯野本家の小袖を仕立てる準備をしていてよかった。

「…………あ……、の。それで……今日は、如何なさったのでしょう、か? わたくしに、何か……、落ち度でも、御座いましたでしょうか?」

 しばらく沈黙の落ちていた部屋に、京の恐る恐るといった体の声が響く。於逸からは気にする事はない、杞憂に過ぎないと言われていたが、どうしても長年の劣等感から、染みついている自身の非を含んだ物言いしか出来ない。
 人の事を言えた義理ではないが、どうやら磯野も会話を自分から切り出す事を不得手としているようだ。押し黙ったままだったへの字口が、「あぁ」とようやく重たい岩をどけたかのように開かれる。

「いや……。落ち度、といったような、そういう話ではない」 
「左様で……御座いますか……。では、何か、お言いつけでも?」
「ん、うむ」

 ほっとしながら、軽く首を傾げる京へ、磯野は膝へ置いていた拳を口許へやり一度咳払いをすると、髭の中の頬を一度、カリ、と掻いた。けれど、次の言の葉は中々彼から出てくる事はなく、障子戸の向こう側で虫がリリリ……、と鳴き声を立てる音ばかりが小さく響く。

「そなた……、七兵衛の許へ――岐阜へ参る気はないのか」

 どれほど沈黙が部屋を満たしていた事だろう。
 流石に焦れた京が、そろそろもう一度声をかけようかと思ったその瞬間、磯野の岩の如き唇から、低い声が零れ落ちた。少女は驚きに、軽く睫毛の先を上下させる。

「……旦那さまの、許へ……で、御座いますか?」
「そうだ。武家の倣いとは言え、そなたが嫁いで翌々日には、七兵衛はお役目の為に岐阜へ旅立っただろう。長島の戦は、未だ片付いたという報せもないままだ。一度、長島におられる殿より我が方へも戦況の書状ふみを頂いたが、門徒どもが籠城の構えを見せたらしい」
「先月より、兵糧攻めに切り換えたらしい……とは、お聞きいたしました」
「そうだ。……七兵衛からか?」
「はい」
「そうか」

 一旦言葉を区切った磯野の表情が、やや緩んだような気もする。
 彼は傍らにあった茶碗へと手を伸ばすと、ぐい、と一気に中の茶を煽った。

「……まぁ、そのようなわけでな。まぁ籠城のまま、この冬が越せるとは思わんが、どの程度で降伏してくるかは正直、その場を見ていない俺にはわからん。わからんが、長島攻めが片付かなければ、七兵衛も岐阜に詰めたままになる事だけは確かだ」
「はい。それは……、そのように、わたくしも思っておりますが」
「……随分躾が行き届いた、聞き分けのいい事ではあるが。そなたは、何か、ないのか」
「?? 何か、とは……?」

 聞き分けがいい、というのは、まぁ性格上どうしても遠慮が先に出てしまうせいだとは思う。躾に関して言えば、生まれも育ちも武家の出自である。幼い頃から、父はしょっちゅう合戦やら籠城やらに参戦しており、家にいない事などよくある話だった。
 男子が外へ戦働きに出る事など、京の中ではごくごく当たり前の事であり、家を留守にされたらそれをきちんと守ろうとは思えども、それ以上に何か思う事はない。

(……それに、今お戻りになられたら……どういうお顔で迎えればいいのか、わからないし……)

 嫁いだ時は、そういうものだと思い、彼と対面した。
 初夜の夜もそうだ。
 そういうものだと思って挑んでいたので、気負いも何もなかった。
 それこそが、「だめなこ」である自分にも出来る最低限の務めだと思っていたので、そこに疑問は持たなかった。
 実際に出会って、思いの外、優しい気遣いの人である事もわかったが、津田七兵衛信澄つだしちべえのぶずみという個人に対して思う事があるとするならば、「夫」という一言以外にはなかった。
 けれど。

(最近、わたくしは何か、変で……)

 信澄を想うと、心の裡がカリカリと擽られるような感覚に陥る。
 ふわふわと落ち着かないようでもあり、けれどそれにいつまでも浸っていたくもなる。

(早いお戻りを、思う気持ちも嘘ではなくて……)

 でも、実際「その時」が来たら、どうすればいいのか。少しでも見苦しくないように、という不安も少し染み出て、それに溺れそうにもなる。

「七兵衛とは、書状ふみのやり取りはしておるのか」

 京の疑問には答える事もなく、磯野の問いが再び投げられた。「書状ふみ」の言葉に、少女の目が一瞬丸まり、そして俄かに染まる白い頬の熱に、義父へと向けていた視線を気まずそうに横へと逸らしながら、軽く顎を引く。
 京の胸中など知るはずもない義父だというのに、まるで心でも覗かれたような気分だ。

「あの……、は、はい。城下の様子などを、定期的に……」
「それ以外にも、御方さまは帷子など仕立てられて、殿へお送りなさっておいでで御座いますよ」
「……っ、お、於逸っ!!」

 突然背後から楽しげに喋り出した侍女に、少女は驚きながら振り返った。そこには、その声から察せられる印象通り、日頃よりふくふくたっぷりとしている頬を殊更持ち上げ、唇に三日月を描く於逸がいた。

「帷子……?」
「えぇ、えぇ。そのお礼として美しい櫛をお贈りなされて……」
「そ、そのような内々の話をされても、ち、義父上ちちうえさまもお困りですから……っ!」
「そうそう。此度も冬物を仕立てようと、今、城下の女衆たちをお集めになって……」
「於逸っ!!」

 首から上が、一瞬で茹蛸かと思うほどに真っ赤に染まる。もはや熱を持ちすぎた耳朶が痛いほどだ。京は頬に手のひらを当てながら、先ほどから押し黙った磯野へと恐る恐る視線を向けると、やや驚いたような表情がそこにあった。
 日頃は険しい表情をしているせいか、眼光鋭く思えたその瞳は、今は丸まっており、こうして見ると思っていたよりも目は大きいようだ。

「あ、あの……そ、そろそろ衣替えの季節で御座いますので、その……、旦那さまだけでなく、お城の皆々さま……、義父上ちちうえさまや、ご嫡男さまの分も、と……」
「ん? 何、俺たちの分も……?」
「あ、はい。あの、……差し出がましいかと思いましたが、義父上ちちうえさまは既に奥方さまを亡くされておいでですので……わたくしの、お役目かと……そう、思いまして……」
「…………そうか……そう、か……」

 目の前でわたわたと見苦しい振る舞いをする嫁であっただろうに、そこには特に触れる事なく、磯野は何かを考え込むように、唸るように返事をした。

「それで、そなたは岐阜へ参るつもりはないのか」
「ぎ、岐阜へ、で御座いますか……」
「家臣どもも連れて行っておるが、あちらの屋敷に女手が必要なのは確かだろう。これから衣替えもあるのだから、尚更、女房が必要な事もあるのではないか」

 それは、勿論そうだろう。
 長島の戦がどれほどかかるのかわからないまま、季節が変わろうとしている。長らく妻を持っていなかった彼ならば、恐らくひとりでもうまくやっていけるのだろうが、それでも内々の事を対応する人間がいた方が、表向きの仕事に集中できるという利点はあるはずだ。

(でも……)

 信澄が岐阜へ旅立ち、三月みつきが経つが、特にそういった内容の書状ふみが届くことはなかった。そういう事を、京に彼が望んではいないとも言えるのではないだろうか。

「それに、あちらの屋敷に世話をする女がいないとも限らん」
「…………あ、あの、それは……旦那さまには、あちらでお世話をされるお側女が、いらっしゃるという事で御座いましょうか……」
「知らん。実際は、どうなのか知らん。だが、年若い男の世話をする女を囲っておってもおかしくはない、ということだ」
「…………そう、ですよね……」

 父・光秀みつひでには正式に側室として城で世話をしている女はいないが、それでも実は城下に手付きの女を住まわせており、その女に子供がいるという話も聞いた事がある。
 母も勿論、その辺りの話は承知の上であるし、武家にとってその辺りの話は当たり前過ぎる話でもあるので、正式な妻としての務めを未だ果たしていない京が、夫へとやかく言うような話ではない。
 むしろ、正室としてその辺りの事に気遣いを出来なかった事を恥じるべきだ。

(でも……)

 胸の辺りが、妙に苦しくなった。
 信澄を想うとふわふわと持ち上がりそうになる心が、今は鉛を飲み込んだかのように重い。

「んまぁ……っ、磯野さまったら。御方さまはまだご新婚なのですよっ! お心を不安にさせるようなお言葉は、慎んで頂きたいものですわっ!」

 黙り込んだ京の代わりに、背後で頭の先から出したかのような於逸の声が沸き上がった。

「む?」
「あ……、於逸。いいの。もし……そうなのだとしても、わたくしは、旦那さまのお世話をして下さった方へ、感謝しなければならない身なのだから……」
「いいえ、黙りませんっ! 大体、岐阜のお屋敷に長期間、殿が行かれるのだって、今回初めてでも御座いませんし、前々からあちらに女人にょにんを囲っているだなんてお話、聞いた事もありませんわよっ」

 磯野の肩眉が持ち上がるのへ、京は慌てて眉尻を持ち上げぷりぷり怒り出す彼女へと声をかける。けれど、どうにも於逸の怒りは収まらないようで、この高島にて最上位である磯野への苦言が続いた。

「囲っておるとは、俺は言っておらん。そうなる前に、女房どのが行かれてはどうかと言ったのだ」
「まぁっ! でしたらお言葉にお気を付けなさいませ! んもう、殿方はどうしてこう、お言葉が足りないのかしら……」
「お、於逸。義父上ちちうえさまに、失礼ですから……っ」

 歯噛みするようにキィキィと怒る於逸を宥めながら、京は磯野へとおもてを向け、「申し訳ありません」と頭を下げる。それに対し、磯野はふ、と頬を緩めると「いや。気にするな」と首を振った。
 その表情は、もしかしたら微笑と呼ばれるものなのかもしれない。この部屋に訪れた直後よりも、大分印象が柔らかい。

「……あの、では、冬物の小袖を直接わたくしがお届けするというお話を、旦那さまにしてみます。それで、ご了承頂けましたのなら……」
「その小袖は、いつ仕上がる?」
「……城下の女衆のご協力もありますし、恐らく今月中には冬物仕立ては終わるかと……」
「今月中、か――」

 今は九月下旬に差し掛かる時期。
 数日前から取り組んでいるので、今月中ならば信澄のものだけでなく方々ほうぼうへの献上、進上の品――義父への冬用の小袖も含め、出来上がるだろう。
 京の答えに、途端に眉間に皺を寄せ口許へと拳を当てた磯野だが、しばらく考えたあとに「わかった」と短く声を落とした。
 そして、話は済んだとばかりに早々に腰を持ち上げる。

「邪魔した」
「あ……、いえ。こちらこそ、お構いもせず……」

 京が慌てて頭を下げる、その直前――。
 磯野が見せた表情は、瞳の奥に何かを隠しているような、けれどそれを伝えたがっているかのような――、京が今まで見たこともないものだった。
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