湖に還る日

笠緒

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第二章 縺れ澱む想い

天正二年――暑さが去り、冬が始まろうとする高島にて・壱

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 藍を水で薄めたような空に、真綿を散らばせたような雲が転がっていた。
 元より港に近い城下は、いつ見かけても活気があり、また土地柄的に人の往来も多い。振売ふりうり(行商人)や商家の威勢のいい声が往来を駆けていき、お喋り好きと見える女衆の笑い声が響く。
 小物屋の軒に飾られた風車が、日に日に温度を下げていく秋風にくるくると回る。赤や青、黄の羽が一つの輪となるその様を、母親の背に負ぶられた赤子が楽しげに見つめていた。

(日頃……、を、大してよくは知らんが……、まぁ、特に変わりはないのだろうな)

 磯野員昌いそのかずまさは、太い腕を胸の前で組んだまま、往来へ進んでいた歩みをぴたりと止め、くるりと踵を返し来た道を戻っていく。いい加減、草臥れ擦り切れ始めた海老茶えびちゃ色の素襖すおうの裾が、歩く度に風を孕んだ。
 裏地のない麻の素襖では、そろそろ肌寒い季節になってきているが、こういった身の回りの世話を甲斐甲斐しくやってくれていた妻は既に亡い。生きていた頃は、それを当然のものとして意識する事さえなかったが、やはり鰥夫おとこやもめに何とやらではないが、妻がいない生活というのは内々の事で滞る事が多い。

七兵衛しちべえが、岐阜へ行ってから……そろそろ三月みつきか)

 晩夏に、元服と祝言を済ませたばかりの養嗣子が、主・信長のぶながからの招集により慌ててこの高島を旅立ったのは、同じ月――六月の下旬だった。彼が、主の命により岐阜や各地に行きっ放しとなり、ここに滅多に戻ってこないのは今までもよくあった話ではあるが、嫁いだ翌々日に夫が岐阜へ旅立つことになってしまった奥方には、流石の磯野も同情した。
 かと言って、日頃、信澄のぶずみとさえろくに会話など交わさない。必要最低限の関わりしかないような義親子であり、その嫁――しかも、織田家重臣・明智あけち家息女など、田舎武将にはどう扱っていいかもわからなかった。

(まぁ嫁御は、何かあれば実家に一旦戻ってもいいわけだしな)

 幸いにも、彼女の実家はここからほど近い坂本である。
 自身にも娘はいたが、既に他家にやっており、また手元にあった時もその世話は全て妻に任せっきりだった。年若い女人にょにんとの関わり方など、戦場が生活の基準であった男にはさっぱりわからない。
 さっぱりわからないが、まぁそんなわけで何か不都合があれば頼る事の出来る立派な実家もある。敢えて、自身が気をかけてやる必要もないだろう。

(それよりも、だ。町衆などからの要望やらは、きちんと処理出来ておるのか) 

 この地の内政は、元々この地を所領にしていた国人衆の自治が信長より安堵されている事が多く、その自治下での揉め事や細々したやり取り、または家中の取りまとめなど全て信澄に任せていた。故に、自身がしていた事と言えば、書状に署名を綴るくらいなものであった。
 今までも度々こうして彼が高島を留守にする事はあったし、その時もつつがなく領内の仕事はこなしていたので特に心配はしていないが、流石に三月みつきともなれば一応この地を治める者として、この件を完全に放置しっぱなしというわけにもいかないだろう。
 そう思い、久々に町衆の様子見を見に城下の市へと赴いたのだが、期待通りと言うべきか、予想に反してと言うべきか。何人かは、城主である磯野には気づきはしたものの、会釈程度で再び商いに戻っていき、特に不安や不都合などはなさそうだった。

(七兵衛が、岐阜から差配をしているのか?)

 だとしたら、あちらはあちらで現在合戦の真っただ中にある織田家中の後方支援やその他庶務で激務だろうに、ご苦労な事である。

(まぁ何にせよ、問題がないならそれでいいが……)

 磯野が浅井あざいから織田に下ったのは、去年の話である。
 佐和山さわやまに城を与えられ、その地を治めていたが、生来、内政というものが得意だったわけでもない磯野が、それでも特に地元民などと問題なく過ごせていたのは一重に、先代や妻がその辺りの事をうまく取り計らってくれていたからである。
 そんな事もあり、浅井家に仕えていた時は、特に然したる問題はなかった。
 織田へ下り、それでも琵琶湖を囲む要所である高島の地を与えられたのは僥倖とも言える出来事だったが、その代わりとでも言うように信長は一族に連なる若者を、実子のいる磯野家・・・・・・・・に、養嗣子として送り込んで来た。
 正直な気持ちを言うのであれば、不快の一言である。
 何故、実子がいるというのに、わざわざ養嗣子を取らなければならないのか。
 それが、織田宗家に連なる、信長の甥であるというのだから、どう考えてもこれは家の乗っ取りに等しいだろう。

  ――親父どの。浅井が滅んだ以上、織田に下った事は間違いだったとは思わないが、それでも信長の甥を送り込まれるなど……、北畠きたばたけ神戸かんべがどうなったか、知っているだろう……!?
  ――体よく、土豪衆の不満を抑える為に、近江の者である俺たちが宛がわれただけじゃないか! いずれこの地が落ち着いたら、あの甥とやらに城ごと奪われるんだろうよ!!
  ――いいや。むしろ、織田へ下った事自体が、誤りだった。今もこの地には旧浅井家の者たちが織田に与する事なく隠れ潜んでいると聞くぞ! 俺たちも、そうすべきだった……!

 息子たちが不満を口にする回数は、日を追うごとに多くなっていく。
 磯野とて、彼らと同意見ではあったが、それでも流石に今の段階で真っ向から織田に歯向かったとなれば、何のために佐和山を捨て投降したのか。

(まぁ、とりたて今すぐ何をどうこうという話でもない……)

 近江を制した信長は、いずれ近い将来、甲斐かい武田たけだと対峙する事となる。また、恐らく丹波方面への侵攻も視野にあるだろうし、その版図は今のままが続くという事はないだろう。
 広がった地図の前に、血縁者であり重用している甥を、さらに別の地へと移す可能性は高い。

(特に今、七兵衛と俺が揉めているわけでもなし)

 焦る必要は、ないだろう。
 磯野は大きく吸い込んだ空気を鼻腔から勢いよく出すと、賑わう市場から城へと足早に歩を転がしていく。今日は天気もいい事だし、息子でも誘って鳥でも獲りに行くのもいいかもしれない。
 後ろを懸命についてくる供の小姓の足音が、群衆の声に掻き消されたような気がして、磯野は一瞬足の速度を緩めた。肩越しに「大丈夫か」と声をかけようとした時に、ふ、と周囲の人々の意識が一方へ寄せられている事を感じ、釣られるように彼も瞳をそちらへと向けた。
 人混みの中、目を凝らすと、白の小袖を被布かつぎにした女――否。少女と呼んで差し支えのない風貌の女がいた。着ている小袖は、はっ、と目の覚めるような青。白の小袖がキラキラと陽の光を弾いており、まるで琵琶湖を一身に描いたかのような姿だった。
 そのおもては被布でよくは見えないが、ときおり小袖の合間からさらりと柔らかそうな黒髪が揺れている。後方に従う侍女へと肩越しに話しかけたらしい唇が、ふ、と僅かに緩やかな弧を描くのが見えた。

(あれは……、まさか――)

 磯野は瞼を二、三度、上下させる。
 何度視界を切り替えしても、そこにいるのはひとりの――こんな田舎では、そうそうお目にかかれないほどの、結構な容貌の少女。
 間違いない。
 あれは――。

「あぁ、お屋敷の御方さまだ」

 隣からの何気ない声を、耳朶が拾った。
 磯野がさり気なくそちらへと視線をやれば、連れらしき人間へと話しかけている振売の男。相方も、その少女が誰か知っているようで「あぁ」と軽く頷いていた。

「ここに来た時は、まぁあんな綺麗なお姫さん、外に出て大丈夫かぁって思ってたけどよ、最近見慣れたのか、こぉんな市場だってのに馴染むようになったよなぁ」
「最近、ちょっと俺たちに慣れてくれたってのは、あるな。ほれ、今も焼き物売りの太吉たきちと話してらぁ」

 ふたりが指差す方向へとちら、と瞳を動かせば、確かに店頭に沢山の器を並べている老人と何やら話し込む義理娘となった少女の姿。一言二言声をかけて、すぐにその場を去っていくところを見ると、特に何かの用件があったというわけではなく、本当に日常的な雑談だったのだろう。
 彼女がこの市へとやってきた直後は、流石に人目を惹いたようだが、その後周囲の人間は軽く会釈をした後には各々作業へ戻っていく。それこそが、彼女がここをおとなう事は珍しい事でもなんでもなく、よくある日常であると告げていた。

「そういや、こないだの……馬借の話知ってるか?」
「あぁ。女房が急に産気づいたって話だろ。何でも、ちょうど女手がない時に出ちまったってな」
「ちょうどそん時、通りかかった御方さまが、すぐに近所の産した事のある女衆集めたって話だよ。んで、無事取り上げる事が出来たんだってよ」

 は~、大したもんだ。と話すふたりは、その後は売り物である魚を買いに来たらしい女に話しかけられ、会話を中断し接客を始めた。

(いま、のは……)

 誰の話だろうか。
 いま、ふたりが話していた「御方さま」とは。
 先ほど、焼き物売りの老人と会話を交わしていた少女は。

(誰、だ……)

 磯野の記憶にある信澄の夫人となった少女は、その容色こそ流石は明智の姫だと思わせるほどのものではあったが、どこか陰鬱な雰囲気があったはずだ。よく言えば大人しい、悪く言えば武家の女房が務まるのかが甚だ不安な――そんな少女だったはずだ。
 思考が渦を巻くようにその場でぐるぐると出口のない答え探しを始め出す。あまりの事に、彼らふたりへ貼り付けた視線をそのままにしていたようだ。じっと見つめていたせいで、磯野の視線に気づいたらしい彼らが、ふ、と顔を持ち上げた。
 男の目が、確かに磯野の顔を捉える。
 瞬きを、する。
 ――けれど。

「おっと。旦那、お求めですかぃ」

 この地、高島を治める磯野の――この市が開かれる城下を治めている城の主である、磯野の顔には。
 彼は、――気づかなかった。

「……いや、いい」

 磯野は軽く首を振ると、低く唸るように返事をしその場から足早に立ち去る。
 突然、ザ、と吹いた冷たい風が、背後に聞こえた町衆の賑やかな声をあっという間に遠くへ運んで行った。

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