湖に還る日

笠緒

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第二章 縺れ澱む想い

天正二年――雨が降る昏の時刻、高島にて・壱

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 サァァ……、と宙を流れる雨の音が聞こえる。
 ちょうど陽が落ちようとする夕暮れ、屋敷に到着すると共に降り出した雨は、その後その勢いを増していき、外の景色をすっかり濡らしてしまっていた。
 深い緑に茂る木々が、葉の表面に雨を受けてはぽたん、ぴちゃんと玉作った雫を地面に落としている。
 その不規則な音は、自身の胸の裡にある不安が奏でる音に似ている気がする。

(こわい)

 漠然とした想いが零した感情は、恐怖に似ている。
 割とよくある話らしい婚儀を前にした緊張もあるだろうし、夫となる殿方ひとおもてに失望を感じてしまったら――という不安。
 すぐそこで滴る雨の音さえも遠くなり、溺れそうになっている心の臓の音ばかりが少女の身体の中で騒ぎ出す。屋敷に入り、多少落ち着いたような気がしていた気分の悪さが、再び胃の腑で首を擡げてくるような気がする。

「こちらに、御座います」

 まるで闇に飲まれるかのような気分で、夜の広がる廊下へと歩を落としていた少女は、前方で燭台を手にした侍女からそう告げられた。はっ、と前方へと視線を這わせれば、そこは、屋敷の中で一番奥まった場所。
 屋敷についてから通された化粧の間。その後、案内されたということは、間違いなく祝言の間がここなのだろう。
 室内は燭台の橙で明るく照らされており、その影が板間へとくっきり落ちている。きょうは、大上臈おおじょうろうを務める於逸おいつの介添えを受けながら、シュルリシュルリと衣擦れの音を立てまだ誰もいない部屋へと足を踏み入れ、用意された上座の褥へと腰を落とした。
 奥歯が緊張と不安でガチガチ鳴りそうになるのを堪えるように、京はきゅ、と紅の刷かれた唇をきつく閉じる。気落ちからか、徐々におもてが伏せられていき、その正面の障子戸を視界が端にも収めなくなった頃――、ギシ、と板間を踏む音が室内に木霊した。
 少女は真白い打掛を羽織る細い肩をびくっ、と揺らしながら、ゆるゆると睫毛を持ち上げる。足音と共に近づいてくるのは、京同様にその全てが白で仕立てられた直垂ひたたれに、侍烏帽子を身に着けた青年。
 切れ長の二重の瞳は眦がやや吊り上がり、す、と中央を走る鼻筋は整っているが故に淡白な印象が強い。眉尻も下へ下がることなくそのまま跳ね上がっており、全体的に鋭い印象を受ける顔立ちだ。

  ――私は彼の実父に会ったことはないが。しかし、伯父である殿に、似ておいでの面立ちだ。

 輿入れが決まった後に、父から聞いた通り、先月目通りをした主君・信長のぶながに似た雰囲気はあるかもしれない。伯父と甥の関係なのだと言われれば、素直に頷くことが出来る「織田おだ家の顔」だ。

(この、方が……七兵衛信澄しちべえのぶずみさま)

 自身の、夫――。
 思わず見入ってしまった自分が悪いのだが、彼は顔を持ち上げた京へ一度視線を合わせると、一度、瞼を上下させた。その表情は、形容するならば、きっと「驚き」が一番近いだろう。
 切れ長の双眸が、先ほどよりも丸まっているように思えた。

「殿。こちらへ」
「……ん、あぁ」

 於逸の声に従い、彼は、京の向かいにある褥まで歩を進めると、長い袴を捌き、腰を下ろす。そして、再び真っ向から視線を隠すことなく寄越してきた。

(み、見られている……?)

 今日初めて会う事になった花嫁なのだから、どんな顔をしているのか気にかかるというのはわかる。少女も先ほどまえへと彼の顔をまじまじと見てしまったほどだ。
 けれど、京にはその後、重なった視線をどうすれば良いのかわからない。殿方どころか、坂本城では侍女たちとすら満足に目を合わせる事などせずに生きてきた。
 なるべく、人の意識に触れないように過ごしてきた。

(どう、したら……)

 逃げるように京の視線が下へと逸らされ、白磁の肌に睫毛の影が落ちる。一度視線を外してしまったら、もうそれを再び持ち上げるだけの理由が思いつかない。

(わたくし、もしかして七兵衛さまへ、不調法な事を、してしまったのかしら……)

 もしこれで、不快な感情を持たれていたら。
 せっかく娶った嫁だというのに、愛想がないと思われたら。

(どうしよう)

  ――あの姫さま、愛想ないのよねぇ。目が合っても、すーぐ乳母どのの後ろにぴゃっと隠れちゃうし、可愛げってもんが足りないのよ。

 幼き日の心ない侍女たちの声が、鼓膜の奥で蘇る。

(可愛げがない、と)

 また、誰かを失望させてしまっていたら。

(この方にも)

 「だめなこ」なのだと。
 そう、思われてしまったら――。

(こわい)

 怖い。
 怖い。怖い。
 船の上でぐるぐる巡った思考が、再び少女の脳裡を埋め尽くしていく。
 ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると――。

「では、ご一献」

 気づけば盃を渡され、儀式に添って、三度口をつけていた。
 元より、京は酒をあまり嗜まない。
 年齢のせいもあって、正月に多少口を湿らせる程度で、日頃はそれを口にする事はほとんどなかった。
 だから酒のにおいや味には敏感なのに、いまは何も感じない。
 無色透明な水が、喉を焼く感覚ばかりを飲み込んだ。

(きもちが、わるい……)

 ぐるぐると煮詰まった不安が、酒と共に全身を巡っていく。
 慣れない酒のせいなのか、それとも漠然とした恐怖にも似た不安故か。

(ちゃんと、しなくては)

 武家のむすめなのだから。
 明智の、むすめなのだから。

(「だめなこ」でいては、いけないのよ……)

 飲み干した盃を受け取るために、侍女が少女の前へとやってくる。京がそちらへと手を伸ばし、膳へと盃を置こうとした、その瞬間――。
 ぐにゃり。
 視界が歪んだ。

「……っ」

 恐らく盃が手から零れ落ちたのだろう。カタ、という音を最後に、京の視界が黒に塗り潰されていく。

「京、どの……っ!?」
「きゃぁあ、奥方さまっ!?」

 傾いでいく身体が、夫となった人の声を聞いた気が、した。

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