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第一章 巡り絡む運命
天正二年――新緑の季節、美濃国岐阜城にて・弐
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澄み渡る青空にゆっくりと昇った陽が、ちょうどてっぺんを越え西の空に差し掛かる時刻。
陽が高くなるにつれて暖められた空気に、ふわりと頬を撫ぜられた。視界の端を流れる景色の中の緑を揺らす。
まださほど湿り気を帯びた風ではなく、爽やかな陽気だが、それでも日向をしばらく歩けばジリジリとした陽射しに、やや汗ばんだ。
於坊が本日の執務を終え、城内にある屋敷に戻ろうかと大手門に至る石畳の階段に差し掛かったその時、下から上がってくる人影に歩みを止める。相手も彼に気づいたのか、顔を上げると挨拶するように軽く手を上げた。
菅屋九右衛門長頼。
於坊よりも四つ、五つ年嵩のこの男は、信長に仕え始めた当初は馬廻り衆のひとりであったようだが、いまは於坊同様に側近として奉行衆に組み込まれている。小姓として城に上がったばかりの頃からの付き合いで、お互い気心が知れている間柄である。
「おぅ、於坊。いま帰りか? いつもより帰り遅くないか? なんかあったか?」
「三河さまからのご使者が来てたんですよ。九右衛門どのは……長浜でしたか」
「まぁな。羽柴さまに、ちょっとな」
彼は、二日ほど前に信長の命で、長浜に城を構える羽柴藤吉郎秀吉の許へ書状を持って出かけていた。語尾を濁すところを見ると、あまりいい話にはならなかったのか。
事の次第によっては自分も再度、城に戻った方がいいかもしれない、と、於坊が踵を返そうとすると、「あぁ、そういう事じゃない」と懐にあった手を左右に二、三度振った。
「羽柴さまのところに行くと、用向き以外の時間が長くてなぁ」
「あぁ……、本題に入るまで長くて、本題が終わった後の話も長いですよね……」
「悪いお人ではないが、短気な殿との付き合いに慣れていると、こう、時間が勿体なく感じてしまって……いかんな、これは」
「さり気なく、殿の悪口になってます」
「気が短いのは、殿も自覚されているから不問だろう?」
「さっきもそういえばそんな事、ご自身で言われてましたよ」
「だろう?」
於坊の指摘にも動じることなく言葉を返してきた菅屋は、自信を前面に押し出した表情で同意を求めてくる。於坊が「俺からは何とも」とさらり、躱すと、しばらく沈黙がふたりの間に落ちた。
感情の起伏が激しい信長との付き合いは、彼の重臣たちもかなり苦労しているという話だが、側近として従っている者にしか出来ないギリギリの会話というものがやはり存在するのだ。
そよ、と爽やかな風が吹き、次の瞬間、お互いに笑いを弾く。
「で、今回は何の話題だったんです」
「まぁ話題はあちこち飛んだが、とりあえず柴田さまへの愚痴が一番多かったな。まぁそうは言っても、相変わらずご自身を下げられてのものではあるが」
「あぁ、なるほど……」
羽柴秀吉という人は、その出自のせいか人に対して距離感を詰めてくるのが非常に早い。誰かと視線が合えば、例え初対面でもとにかくニコニコして話しかけてくるので、気づけば誰しもがその懐に彼を入れてしまっている。
そういう気質を好ましいものとして見る人は多くいるが、当然そうではないという人物もごく少数ではあるものの、いる。
柴田は典型的な後者であり、もはや何が悪いというよりも単純に人間としてのソリが合わないのだろうと於坊は思っている。
「お前としては、育ての親に対しての愚痴など聞きたくもないだろうし、長浜には寄りつきたくないだろうな」
「そうでもないですよ。羽柴さまは、流石と言うかなんと言うか……俺の養父が柴田さまである事はご存知のようで、俺には柴田さまの事は何ひとつ、零されませんしね」
「あぁ……流石は人誑しと言われるお人だな」
「ですね。どちらかと言うと、柴田さまの方が……って、あー……」
午前中に信長からが言いつけられた元服の事を思い出し、於坊の語尾が宙に漂いなくなった。信長の側近として長く仕えており、曖昧な口調というものをほぼした事がない彼がそれをした事に驚いたのか、菅屋は元はさほど大きくはない一重の目をぱちくりとさせた。
「どうした? 柴田さまが何か?」
「いや……、柴田さまが直接的にどうこうって話ではないんですが」
もはや立ち話で済むような話題ではなくなってきている。
菅屋は秀吉より預かった書状もあるだろうし、のんびりしているような暇は本来ないはずだ。於坊は菅屋を誘うと、そのまま再びいま来た道を戻り始めた。
「なんだ、お前も戻るのか」
「屋敷にいても煮詰まりそうなので。何か雑務があれば、手伝います」
「煮詰まる……?」
「まぁもう決定した事ですし、今更どうこうって話ではないんですけど」
於坊はそう言うと、足音を石畳に転がしながら、三七郎と元服を共にする事になりそうだと菅屋に告げる。若干、溜息が混じったような声音になってしまったのは、気心の知れた同僚への甘えだろうか。
彼は一瞬驚いたようだが、流石は長年信長の側近をしてきただけはある人物で、その意図に即座に思いが至ったようだ。
「なるほどな……。それは何を言っても不敬になりそうでとても口には出来んが……連枝衆というのは羨ましいが、現実的になるものではないな」
「九右衛門どの、口に出てます」
「はは、やっかみだと思え。甥御どの」
「…………あぁ、やっかみと言えば」
於坊は、不意に先ほどの元服からの話題繋がりで出た話を思い出す。
「嫁を貰え、とも言われました」
「まぁ元服したからには、そうだろうな」
奉行衆の詰所である屋敷まで戻ると、土間へと進んだ。陽の光が直接降り注がないそこはひんやりとした空気が流れており、心地よい。菅屋は上がり框へと腰をかけ、草履の返し輪を解き始める。
「当てはあるのか? どこぞの女が欲しいだとか。もし話をつけられそうな相手ならば、俺がつけてやるが」
「いえ。ご存知の通り、俺には当てはないんですが。殿、自ら仲人になって下さるらしいです」
「ははっ、そりゃあいい。国一番の仲人じゃないか」
「やっかまないで下さいね」
「それは選ばれた奥方次第になるだろうなぁ」
「美人がいいと頼んだら、お受けして貰えました。器量よしを選ぶそうです」
「はははは、そりゃまた周りからあれこれ言われそうだ」
於坊も草鞋を脱ごうと、手拭いで足を拭く菅屋の隣へと歩を進めようとしたその瞬間、彼の視線が於坊の背へと走った。それを追うように肩越しに振り返れば、信長のいる屋敷へと向かう人物がいた。
柑子色で刺繍された二藍の大紋に侍烏帽子を被っており、その後ろに縹色と緋色の小袖を纏った女――否。まだ少女といっていい年頃の娘をふたり連れ添っている。その僅か後ろを歩く数名は、恐らく彼らの侍女だろう。
集団は玄関口にいた於坊たちに気づくことなく、真っすぐに進み、あっという間にその背が曲がり角へと消えていった。
「明智さま……、と、その姫君方かな」
「侍女衆が何やら持っておりましたので、美濃の御方さまか、それか妻木の方への届け物ですかね」
「そうかもな。しかし、明智さまが姫君方をお連れになるとは、珍しい」
「確かに……。日頃は、奥方を伴っての登城が多いですから」
信長のいま一番のお気に入りと噂の明智十兵衛光秀の妻・熙子は妻木家の息女であり、その妹は信長付きの侍女をしていた。その後、手がついたようで側室となり「妻木の方」と称しているが、姉である明智夫人とは今もやり取りが多いようだ。
於坊も何度か見かけたことがあったが、姉妹あまり似てはいないものの、どちらも美人と断言できる容色の持ち主である。
「まぁ流石は明智さまの姫君だ。見たか? 特に後ろの緋色の小袖を着た方。まだ十をいくつか過ぎたばかりだろうが、ちょっとこの岐阜でもそうお目にかかれない美少女だったな」
「九右衛門どの、この前、奥方に浮気がバレて大変だったと言っておられませんでしたか」
「ばっ……そういう対象として言ってないっ!」
「そういう事にしておきます」
辺りに視線を忙しなく走らせながら、菅屋はしぃっ! と口許へ指を一本立てた。於坊は日頃してやられる事の多い年長者が慌てふためく姿に、思わず破顔する。
「於坊。お前こそ、妻は美人がいいだの何だの言ってただろう」
「言いましたが、流石に九右衛門どのが仰る姫君は、十一、二くらいでしょう。流石に、今年二十になった俺には、殿も話を持って来ないと思いますけど」
「はは。明智さまの姫君、しかもあれほどの美少女を娶ったとなれば、津田於坊はますますやっかまれる事間違いなしだ」
於坊が菅屋の隣へと座ると同時に、足を拭き終えたらしい彼が手拭いを盥の中へと投げ入れた。ぽちゃ、という涼しげな音と共に、黒く汚れた布が沈んでいき、透明だった水があっという間に濁っていく。
「九右衛門どの。この水、変えてきます」
「ん? まだ平気じゃないか?」
「水が汚いの、嫌いなんですよ」
「そりゃ俺だって、嫌いだよ」
「はは。意見があいましたね」
既に今日は退出した身であり、特にすることもないのだ。
盥を手に持つと、近くにある井戸場まで於坊は歩を転がしていく。ちゃぷん、ちゃぷん、と腕の中で音が鳴り、汚れている水がそれでも陽を浴びて水面をキラキラ光らせる。
(まぁ、中は汚いけどな)
この岐阜にも屋敷はあるが、於坊に与えられた土地は義父の住む近江国・高島である。琵琶湖の畔にある土地に住むようになってからというものの、どうにも澄んだ水というものへの拘りが強くなったような気がする。
もっとも戦場に出ればそんな甘い戯言なんて言っている暇はないのだろうが。
(あぁ、そうだ)
さっき、見かけた明智の息女。
父親である光秀のすぐ後ろをついて歩いていた、あの少女の小袖は晴れた日の琵琶湖の色に似ている気がする。
空の青を吸い、キラキラと水面が光を弾くその様は、あの小袖に散りばめられた箔に似ている。
癖のない黒髪を背に流しながら、やや俯きがちに父の後を追うあの少女――恐らく十五、六といった年だっただろうか。見かけたのは一瞬だったので、さほど彼女の面が記憶に焼き付いているわけではないが、それでも美しい横顔だったように思う。
少なくとも、その後ろを歩く少女よりは、年齢の事もあり自分の目を惹いたことは間違いない。
(器量よしの娘をくれてやる――、か)
主君の言を胸の裡で繰り返しながら、於坊は少女たちが消えた角へとふ、と視線を流した。
陽が高くなるにつれて暖められた空気に、ふわりと頬を撫ぜられた。視界の端を流れる景色の中の緑を揺らす。
まださほど湿り気を帯びた風ではなく、爽やかな陽気だが、それでも日向をしばらく歩けばジリジリとした陽射しに、やや汗ばんだ。
於坊が本日の執務を終え、城内にある屋敷に戻ろうかと大手門に至る石畳の階段に差し掛かったその時、下から上がってくる人影に歩みを止める。相手も彼に気づいたのか、顔を上げると挨拶するように軽く手を上げた。
菅屋九右衛門長頼。
於坊よりも四つ、五つ年嵩のこの男は、信長に仕え始めた当初は馬廻り衆のひとりであったようだが、いまは於坊同様に側近として奉行衆に組み込まれている。小姓として城に上がったばかりの頃からの付き合いで、お互い気心が知れている間柄である。
「おぅ、於坊。いま帰りか? いつもより帰り遅くないか? なんかあったか?」
「三河さまからのご使者が来てたんですよ。九右衛門どのは……長浜でしたか」
「まぁな。羽柴さまに、ちょっとな」
彼は、二日ほど前に信長の命で、長浜に城を構える羽柴藤吉郎秀吉の許へ書状を持って出かけていた。語尾を濁すところを見ると、あまりいい話にはならなかったのか。
事の次第によっては自分も再度、城に戻った方がいいかもしれない、と、於坊が踵を返そうとすると、「あぁ、そういう事じゃない」と懐にあった手を左右に二、三度振った。
「羽柴さまのところに行くと、用向き以外の時間が長くてなぁ」
「あぁ……、本題に入るまで長くて、本題が終わった後の話も長いですよね……」
「悪いお人ではないが、短気な殿との付き合いに慣れていると、こう、時間が勿体なく感じてしまって……いかんな、これは」
「さり気なく、殿の悪口になってます」
「気が短いのは、殿も自覚されているから不問だろう?」
「さっきもそういえばそんな事、ご自身で言われてましたよ」
「だろう?」
於坊の指摘にも動じることなく言葉を返してきた菅屋は、自信を前面に押し出した表情で同意を求めてくる。於坊が「俺からは何とも」とさらり、躱すと、しばらく沈黙がふたりの間に落ちた。
感情の起伏が激しい信長との付き合いは、彼の重臣たちもかなり苦労しているという話だが、側近として従っている者にしか出来ないギリギリの会話というものがやはり存在するのだ。
そよ、と爽やかな風が吹き、次の瞬間、お互いに笑いを弾く。
「で、今回は何の話題だったんです」
「まぁ話題はあちこち飛んだが、とりあえず柴田さまへの愚痴が一番多かったな。まぁそうは言っても、相変わらずご自身を下げられてのものではあるが」
「あぁ、なるほど……」
羽柴秀吉という人は、その出自のせいか人に対して距離感を詰めてくるのが非常に早い。誰かと視線が合えば、例え初対面でもとにかくニコニコして話しかけてくるので、気づけば誰しもがその懐に彼を入れてしまっている。
そういう気質を好ましいものとして見る人は多くいるが、当然そうではないという人物もごく少数ではあるものの、いる。
柴田は典型的な後者であり、もはや何が悪いというよりも単純に人間としてのソリが合わないのだろうと於坊は思っている。
「お前としては、育ての親に対しての愚痴など聞きたくもないだろうし、長浜には寄りつきたくないだろうな」
「そうでもないですよ。羽柴さまは、流石と言うかなんと言うか……俺の養父が柴田さまである事はご存知のようで、俺には柴田さまの事は何ひとつ、零されませんしね」
「あぁ……流石は人誑しと言われるお人だな」
「ですね。どちらかと言うと、柴田さまの方が……って、あー……」
午前中に信長からが言いつけられた元服の事を思い出し、於坊の語尾が宙に漂いなくなった。信長の側近として長く仕えており、曖昧な口調というものをほぼした事がない彼がそれをした事に驚いたのか、菅屋は元はさほど大きくはない一重の目をぱちくりとさせた。
「どうした? 柴田さまが何か?」
「いや……、柴田さまが直接的にどうこうって話ではないんですが」
もはや立ち話で済むような話題ではなくなってきている。
菅屋は秀吉より預かった書状もあるだろうし、のんびりしているような暇は本来ないはずだ。於坊は菅屋を誘うと、そのまま再びいま来た道を戻り始めた。
「なんだ、お前も戻るのか」
「屋敷にいても煮詰まりそうなので。何か雑務があれば、手伝います」
「煮詰まる……?」
「まぁもう決定した事ですし、今更どうこうって話ではないんですけど」
於坊はそう言うと、足音を石畳に転がしながら、三七郎と元服を共にする事になりそうだと菅屋に告げる。若干、溜息が混じったような声音になってしまったのは、気心の知れた同僚への甘えだろうか。
彼は一瞬驚いたようだが、流石は長年信長の側近をしてきただけはある人物で、その意図に即座に思いが至ったようだ。
「なるほどな……。それは何を言っても不敬になりそうでとても口には出来んが……連枝衆というのは羨ましいが、現実的になるものではないな」
「九右衛門どの、口に出てます」
「はは、やっかみだと思え。甥御どの」
「…………あぁ、やっかみと言えば」
於坊は、不意に先ほどの元服からの話題繋がりで出た話を思い出す。
「嫁を貰え、とも言われました」
「まぁ元服したからには、そうだろうな」
奉行衆の詰所である屋敷まで戻ると、土間へと進んだ。陽の光が直接降り注がないそこはひんやりとした空気が流れており、心地よい。菅屋は上がり框へと腰をかけ、草履の返し輪を解き始める。
「当てはあるのか? どこぞの女が欲しいだとか。もし話をつけられそうな相手ならば、俺がつけてやるが」
「いえ。ご存知の通り、俺には当てはないんですが。殿、自ら仲人になって下さるらしいです」
「ははっ、そりゃあいい。国一番の仲人じゃないか」
「やっかまないで下さいね」
「それは選ばれた奥方次第になるだろうなぁ」
「美人がいいと頼んだら、お受けして貰えました。器量よしを選ぶそうです」
「はははは、そりゃまた周りからあれこれ言われそうだ」
於坊も草鞋を脱ごうと、手拭いで足を拭く菅屋の隣へと歩を進めようとしたその瞬間、彼の視線が於坊の背へと走った。それを追うように肩越しに振り返れば、信長のいる屋敷へと向かう人物がいた。
柑子色で刺繍された二藍の大紋に侍烏帽子を被っており、その後ろに縹色と緋色の小袖を纏った女――否。まだ少女といっていい年頃の娘をふたり連れ添っている。その僅か後ろを歩く数名は、恐らく彼らの侍女だろう。
集団は玄関口にいた於坊たちに気づくことなく、真っすぐに進み、あっという間にその背が曲がり角へと消えていった。
「明智さま……、と、その姫君方かな」
「侍女衆が何やら持っておりましたので、美濃の御方さまか、それか妻木の方への届け物ですかね」
「そうかもな。しかし、明智さまが姫君方をお連れになるとは、珍しい」
「確かに……。日頃は、奥方を伴っての登城が多いですから」
信長のいま一番のお気に入りと噂の明智十兵衛光秀の妻・熙子は妻木家の息女であり、その妹は信長付きの侍女をしていた。その後、手がついたようで側室となり「妻木の方」と称しているが、姉である明智夫人とは今もやり取りが多いようだ。
於坊も何度か見かけたことがあったが、姉妹あまり似てはいないものの、どちらも美人と断言できる容色の持ち主である。
「まぁ流石は明智さまの姫君だ。見たか? 特に後ろの緋色の小袖を着た方。まだ十をいくつか過ぎたばかりだろうが、ちょっとこの岐阜でもそうお目にかかれない美少女だったな」
「九右衛門どの、この前、奥方に浮気がバレて大変だったと言っておられませんでしたか」
「ばっ……そういう対象として言ってないっ!」
「そういう事にしておきます」
辺りに視線を忙しなく走らせながら、菅屋はしぃっ! と口許へ指を一本立てた。於坊は日頃してやられる事の多い年長者が慌てふためく姿に、思わず破顔する。
「於坊。お前こそ、妻は美人がいいだの何だの言ってただろう」
「言いましたが、流石に九右衛門どのが仰る姫君は、十一、二くらいでしょう。流石に、今年二十になった俺には、殿も話を持って来ないと思いますけど」
「はは。明智さまの姫君、しかもあれほどの美少女を娶ったとなれば、津田於坊はますますやっかまれる事間違いなしだ」
於坊が菅屋の隣へと座ると同時に、足を拭き終えたらしい彼が手拭いを盥の中へと投げ入れた。ぽちゃ、という涼しげな音と共に、黒く汚れた布が沈んでいき、透明だった水があっという間に濁っていく。
「九右衛門どの。この水、変えてきます」
「ん? まだ平気じゃないか?」
「水が汚いの、嫌いなんですよ」
「そりゃ俺だって、嫌いだよ」
「はは。意見があいましたね」
既に今日は退出した身であり、特にすることもないのだ。
盥を手に持つと、近くにある井戸場まで於坊は歩を転がしていく。ちゃぷん、ちゃぷん、と腕の中で音が鳴り、汚れている水がそれでも陽を浴びて水面をキラキラ光らせる。
(まぁ、中は汚いけどな)
この岐阜にも屋敷はあるが、於坊に与えられた土地は義父の住む近江国・高島である。琵琶湖の畔にある土地に住むようになってからというものの、どうにも澄んだ水というものへの拘りが強くなったような気がする。
もっとも戦場に出ればそんな甘い戯言なんて言っている暇はないのだろうが。
(あぁ、そうだ)
さっき、見かけた明智の息女。
父親である光秀のすぐ後ろをついて歩いていた、あの少女の小袖は晴れた日の琵琶湖の色に似ている気がする。
空の青を吸い、キラキラと水面が光を弾くその様は、あの小袖に散りばめられた箔に似ている。
癖のない黒髪を背に流しながら、やや俯きがちに父の後を追うあの少女――恐らく十五、六といった年だっただろうか。見かけたのは一瞬だったので、さほど彼女の面が記憶に焼き付いているわけではないが、それでも美しい横顔だったように思う。
少なくとも、その後ろを歩く少女よりは、年齢の事もあり自分の目を惹いたことは間違いない。
(器量よしの娘をくれてやる――、か)
主君の言を胸の裡で繰り返しながら、於坊は少女たちが消えた角へとふ、と視線を流した。
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