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北の黄金郷・奥州は、衣川館にて――。
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さほど近しいわけでもないが、お世辞にも遠いとは言えない場所で、喧噪が響いている。
その音は、最初は耳を澄まして聞こうにも、風に浚われた木々のざわめきのようにも思えたが、それから一刻ほど経った今、はっきりと甲冑の音を拾えるようになった。
斥候に館の外へと出ていった郎党たちが戻ってこないところを見ると、どうやら残念な事に悪い冗談などではないらしい。
いまはまだ、敵勢に館を取り囲まれるほどではなく、ここ持仏堂は北の対の東側に建てられている為、多少は時間稼ぎにはなるだろうが、今更どこかに落ち伸びようとするのは愚か。そんな判断を冷静に下しながら、源九郎義経は苦いものを頬へ浮かべ、妻戸をゆっくりと閉じていく。
肩越しに振り返り、室内を見渡せば、そこには約五年前に押し付けられるようにして娶った妻の郷と、四歳になる娘の姿。日頃は跳ねっ返りで気が強く、流石は東国武士の女だと苦笑してしまう程の彼女も、この時ばかりはその面が青ざめている。
何も知らない娘は、常ならばまだ夢の中にいる時分だ。ごしごしと目を擦りながら、母である郷へと抱き着いている。
「ったく、当腹太郎どのも、もう少し時間考えろって話だな」
義経は愚図る仕草を見せる娘の髪へとぽん、とあやすように手を置くと、いつものように軽口を唇に滑らせた。その声に、郷の固まっていた表情が、ふ、と緩まる。
父とも慕っていた藤原秀衡が亡くなってから一年と少し。その間に、彼の嫡男・泰衡との鎌倉に対する意見の齟齬が大きくなっていき、その結果、日々強まる圧力に屈した彼に今日こうして攻め込まる事となった。
「あなた、本当に前世で何をしでかしたのかしら。平家からも嫌われ、鎌倉からも嫌われて。挙げ句、恩人の息子どのにさえも嫌われて」
「別に、俺が好き好んで嫌ってくれなんて、頼んでるわけじゃないぞ。知らないけど、勝手にあっちから、嫌ってくるんだよ」
「だから、何したのよって言ってるの」
相変わらず、可愛げのない憎まれ口だ。けれど、そんな彼女だから自分はありのままの自分でいられた。兄のように自分を律し続けられる程真面目でもなく、だからといって、東国で生まれ育ったその他の御家人たちとも交われなかった。
いい年をして、自分というものを持て余していた義経に、東国の田舎育ちの少女は何も飾ることなく真っすぐに話しかけてきてくれた。その言の葉の温度は、冷や水にも近いものだったが、それでも義経にとっては新鮮だった。
どんどん身体の中に溜まっていく鬱憤が、その水で流されたような気さえした。
「それを言うなら、お前も前世で何をしでかしたんだって話だろ。こんなロクでもない男に嫁いで、……そのせいで親父さんも死んだってのに、こんな奥州くんだりまで着いて来て……なぁ?」
義経が娘の身体をひょい、と持ち上げると、少女は「きゃぁ」と喜び、足を自身の胴へと絡めてくる。彼は、ふ、と笑いを落としながら、「眠いなら、寝ていいぞ」とその小さな痩躯を抱きしめた。
「大宰府だろうと、四国だろうと……そうね。蝦夷に行って、その後、海を渡ってもいいわ。来るなと言われるまで、着いていくつもりよ」
「ふは。来るなって言ったところで、お前聞くようなタマかよ」
「聞かないし――あなたはそれを、言わないでしょ?」
「……ほんと、可愛くねぇ女だな」
義経が参ったと言うように鼻先で苦笑を弾くと、郷の唇が三日月を刷く。京の美姫には遠く及ばない、いつまでも田舎臭さが抜けない女だ。口を開けば、可愛げなどどこにもない舌戦を繰り広げてくる――いとおしい、可愛い女だった。
義経は娘を抱いたまま、「よいしょ」と円座へと腰を下ろすと、その傍に郷もふわり袿の裾を捌きながらやってきた。ふわ、と焚かれた香のにおいが空気を揺らし、母のそのにおいに気づいたのか、腕の中の娘がもにょもにょと唇を動かした。
「しっかし、蝦夷かぁ……」
「行くつもりなの?」
「いーや? 流石にもう無理だ」
耳を澄まさずとも、甲冑や馬の声が聞えてくる。もう、すぐそこまで兵が差し迫っているのが、嫌でもわかる。きっと、こんなロクでもない主に着いて奥州まで着いて来てくれた郎党たちは既に討ち取られたのだろう。
彼は、膝の上で眠る娘を起こさないように腰に佩いていた太刀を抜くと、その刃に自身の面を照らしながら頬へと苦いものを滲ませていく。
「この太刀、何かわかるか?」
「? 何って……?」
「これさ、『薄緑』なんだよ」
「薄……って、源氏重代の太刀の事?」
「そうそう。元々、『膝丸』だかって呼ばれてたやつ」
「……あなた、それ、鎌倉の兄上との関係修復祈願で、箱根に奉納したとか言ってなかった?」
「そうそう! それ!」
よく覚えてんなぁ。
軽く感動さえ覚える彼女の記憶力だが、それでも当の本人は困惑気味だ。
「いやさ……」
一度、確かに奉納しようとはした。
したのだが、やめた。
土壇場になり、何となくやめた。
恐らく、兄・頼朝や、その他鎌倉の御家人連中が義経を嫌う理由はそういうところにあるのだろうとは思う。特に深い理由はないのだが、何となくそうしてしまった。
いままでの人生、そういう事の連続で、義経にとっては何か特別な話でもないまま、義経と共にこの「薄緑」はあり続けていた。
「元々、『膝丸』だった太刀を、熊野で貰った時に、景色がやたら綺麗でさ。ちょうど春の、緑がまだ薄い時分で――」
そうしてつけた名が「薄緑」だった。
「あなた、そういう事するから嫌われるのよ」
「俺もちょっと今、それ思ったところだよ」
「自覚が出て何よりよ」
顔を見合わせ、同時にふっと笑みが零れた。
外は恐らく既に兵士たちに取り囲まれているだろうに、館に討ち入る時を窺っているのか、未だ侵入された気配はない。郷は娘の髪へとそっと手のひらを下ろすと、そのまま近くにある燭台へと歩を向け、その皿を床へと落とした。
パリン、という音と共に、火のついた蝋が転がり、予め油を撒いておいた几帳を燃やす。一瞬で、室内が橙色に染まった。
再び義経の傍まで戻ってきた郷は、腰を下ろすと、肩口へと頭を預けてくる。彼が、ぽん、と手のひらをそこに落とせば、彼女の頬にツ、と透明の雫が走った。
「でもちょっと笑えるわよね」
「ん?」
「源氏重代の太刀が、ここにあるのよ。皆、箱根にあると思って今ごろありがたがってるって思うと、ざまぁ見ろだわ」
ざまぁ見ろ。
この世に生まれた時から、既に真っ当な生き方なんて出来ないと言われているかのようだった。
世界はいつだって自分に優しくはなかった。
恵まれていたとは思うけど、決して優しいものではなかった。
それは勿論、自分のせいも多大にある――けれど。
(ざまぁ見ろ)
ずっとずっと、自身の胸の中にあったもの。
(ざまぁ見ろ)
本当に、そうだ。
鎌倉の兄上も、御家人共も、いまこの館を囲む泰衡の軍勢も。
源氏重代の太刀は渡さない。
自分の首も、渡さない。
今、目の前に広がる炎と共に消えるのだ。
「ふは……、ほんと」
――可愛いな、お前は。
滅多にない甘い呟きと共に、義経は名刀と呼ばれるそれを愛する者たちへと埋め込んだ。
夏の訪れが遅い平泉――。
まだ、夏の足跡は聞えない――春。
薄緑の世界が続くその中で、突然、衣川と呼ばれる館に炎が上がる。
春の名を冠した太刀は、炎の中で血を吸い、そして、眠りについた――。
その音は、最初は耳を澄まして聞こうにも、風に浚われた木々のざわめきのようにも思えたが、それから一刻ほど経った今、はっきりと甲冑の音を拾えるようになった。
斥候に館の外へと出ていった郎党たちが戻ってこないところを見ると、どうやら残念な事に悪い冗談などではないらしい。
いまはまだ、敵勢に館を取り囲まれるほどではなく、ここ持仏堂は北の対の東側に建てられている為、多少は時間稼ぎにはなるだろうが、今更どこかに落ち伸びようとするのは愚か。そんな判断を冷静に下しながら、源九郎義経は苦いものを頬へ浮かべ、妻戸をゆっくりと閉じていく。
肩越しに振り返り、室内を見渡せば、そこには約五年前に押し付けられるようにして娶った妻の郷と、四歳になる娘の姿。日頃は跳ねっ返りで気が強く、流石は東国武士の女だと苦笑してしまう程の彼女も、この時ばかりはその面が青ざめている。
何も知らない娘は、常ならばまだ夢の中にいる時分だ。ごしごしと目を擦りながら、母である郷へと抱き着いている。
「ったく、当腹太郎どのも、もう少し時間考えろって話だな」
義経は愚図る仕草を見せる娘の髪へとぽん、とあやすように手を置くと、いつものように軽口を唇に滑らせた。その声に、郷の固まっていた表情が、ふ、と緩まる。
父とも慕っていた藤原秀衡が亡くなってから一年と少し。その間に、彼の嫡男・泰衡との鎌倉に対する意見の齟齬が大きくなっていき、その結果、日々強まる圧力に屈した彼に今日こうして攻め込まる事となった。
「あなた、本当に前世で何をしでかしたのかしら。平家からも嫌われ、鎌倉からも嫌われて。挙げ句、恩人の息子どのにさえも嫌われて」
「別に、俺が好き好んで嫌ってくれなんて、頼んでるわけじゃないぞ。知らないけど、勝手にあっちから、嫌ってくるんだよ」
「だから、何したのよって言ってるの」
相変わらず、可愛げのない憎まれ口だ。けれど、そんな彼女だから自分はありのままの自分でいられた。兄のように自分を律し続けられる程真面目でもなく、だからといって、東国で生まれ育ったその他の御家人たちとも交われなかった。
いい年をして、自分というものを持て余していた義経に、東国の田舎育ちの少女は何も飾ることなく真っすぐに話しかけてきてくれた。その言の葉の温度は、冷や水にも近いものだったが、それでも義経にとっては新鮮だった。
どんどん身体の中に溜まっていく鬱憤が、その水で流されたような気さえした。
「それを言うなら、お前も前世で何をしでかしたんだって話だろ。こんなロクでもない男に嫁いで、……そのせいで親父さんも死んだってのに、こんな奥州くんだりまで着いて来て……なぁ?」
義経が娘の身体をひょい、と持ち上げると、少女は「きゃぁ」と喜び、足を自身の胴へと絡めてくる。彼は、ふ、と笑いを落としながら、「眠いなら、寝ていいぞ」とその小さな痩躯を抱きしめた。
「大宰府だろうと、四国だろうと……そうね。蝦夷に行って、その後、海を渡ってもいいわ。来るなと言われるまで、着いていくつもりよ」
「ふは。来るなって言ったところで、お前聞くようなタマかよ」
「聞かないし――あなたはそれを、言わないでしょ?」
「……ほんと、可愛くねぇ女だな」
義経が参ったと言うように鼻先で苦笑を弾くと、郷の唇が三日月を刷く。京の美姫には遠く及ばない、いつまでも田舎臭さが抜けない女だ。口を開けば、可愛げなどどこにもない舌戦を繰り広げてくる――いとおしい、可愛い女だった。
義経は娘を抱いたまま、「よいしょ」と円座へと腰を下ろすと、その傍に郷もふわり袿の裾を捌きながらやってきた。ふわ、と焚かれた香のにおいが空気を揺らし、母のそのにおいに気づいたのか、腕の中の娘がもにょもにょと唇を動かした。
「しっかし、蝦夷かぁ……」
「行くつもりなの?」
「いーや? 流石にもう無理だ」
耳を澄まさずとも、甲冑や馬の声が聞えてくる。もう、すぐそこまで兵が差し迫っているのが、嫌でもわかる。きっと、こんなロクでもない主に着いて奥州まで着いて来てくれた郎党たちは既に討ち取られたのだろう。
彼は、膝の上で眠る娘を起こさないように腰に佩いていた太刀を抜くと、その刃に自身の面を照らしながら頬へと苦いものを滲ませていく。
「この太刀、何かわかるか?」
「? 何って……?」
「これさ、『薄緑』なんだよ」
「薄……って、源氏重代の太刀の事?」
「そうそう。元々、『膝丸』だかって呼ばれてたやつ」
「……あなた、それ、鎌倉の兄上との関係修復祈願で、箱根に奉納したとか言ってなかった?」
「そうそう! それ!」
よく覚えてんなぁ。
軽く感動さえ覚える彼女の記憶力だが、それでも当の本人は困惑気味だ。
「いやさ……」
一度、確かに奉納しようとはした。
したのだが、やめた。
土壇場になり、何となくやめた。
恐らく、兄・頼朝や、その他鎌倉の御家人連中が義経を嫌う理由はそういうところにあるのだろうとは思う。特に深い理由はないのだが、何となくそうしてしまった。
いままでの人生、そういう事の連続で、義経にとっては何か特別な話でもないまま、義経と共にこの「薄緑」はあり続けていた。
「元々、『膝丸』だった太刀を、熊野で貰った時に、景色がやたら綺麗でさ。ちょうど春の、緑がまだ薄い時分で――」
そうしてつけた名が「薄緑」だった。
「あなた、そういう事するから嫌われるのよ」
「俺もちょっと今、それ思ったところだよ」
「自覚が出て何よりよ」
顔を見合わせ、同時にふっと笑みが零れた。
外は恐らく既に兵士たちに取り囲まれているだろうに、館に討ち入る時を窺っているのか、未だ侵入された気配はない。郷は娘の髪へとそっと手のひらを下ろすと、そのまま近くにある燭台へと歩を向け、その皿を床へと落とした。
パリン、という音と共に、火のついた蝋が転がり、予め油を撒いておいた几帳を燃やす。一瞬で、室内が橙色に染まった。
再び義経の傍まで戻ってきた郷は、腰を下ろすと、肩口へと頭を預けてくる。彼が、ぽん、と手のひらをそこに落とせば、彼女の頬にツ、と透明の雫が走った。
「でもちょっと笑えるわよね」
「ん?」
「源氏重代の太刀が、ここにあるのよ。皆、箱根にあると思って今ごろありがたがってるって思うと、ざまぁ見ろだわ」
ざまぁ見ろ。
この世に生まれた時から、既に真っ当な生き方なんて出来ないと言われているかのようだった。
世界はいつだって自分に優しくはなかった。
恵まれていたとは思うけど、決して優しいものではなかった。
それは勿論、自分のせいも多大にある――けれど。
(ざまぁ見ろ)
ずっとずっと、自身の胸の中にあったもの。
(ざまぁ見ろ)
本当に、そうだ。
鎌倉の兄上も、御家人共も、いまこの館を囲む泰衡の軍勢も。
源氏重代の太刀は渡さない。
自分の首も、渡さない。
今、目の前に広がる炎と共に消えるのだ。
「ふは……、ほんと」
――可愛いな、お前は。
滅多にない甘い呟きと共に、義経は名刀と呼ばれるそれを愛する者たちへと埋め込んだ。
夏の訪れが遅い平泉――。
まだ、夏の足跡は聞えない――春。
薄緑の世界が続くその中で、突然、衣川と呼ばれる館に炎が上がる。
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