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のぶの田楽
のぶの田楽
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朔太郎が田楽屋で過ごす最後の一日は、晃之進は仕事へ行かなかった。屋敷からの迎えが来るまでに万が一のことがあってはならないからだ。
朔太郎へ事情を話すのは夜にしようとふたりで決めて、朝は三人で朝食を食べた。沢庵としじみ汁、焼いためざしといういつもと変わらないお菜だが、朔太郎はよく食べた。
いつもの時間にさちが来ると、晃之進は挨拶をして二階へ上がっていった。さちが気兼ねなく過ごせるようにという心配りだ。
朔太郎はいつもの通りさちと炬燵で過ごしていた。
ここのところの彼は、随分大きくなったさちのお腹に夢中だった。
中で赤子が動き、手を当ててればわかるという話に興味深々で、暇さえあれば手を当てている。
今日もさちが来ると、待ってましたとばかりに、彼女の隣を陣取って、お腹にずっと手を当ている。
「寝る前はよく動くんだけど」
さちが申し訳なさそうに言った時。
「おおっ、うごいた! かかさま、かかさま!」
朔太郎が声をあげた。
「え? 本当? よかったねえ」
さちがお腹をさすった。
「もう赤子は耳が聞こえるって話だから、殿ちびちゃんだってわかったのかもしれないね。遊んでくれ遊んでくれって」
「もっかい、もっかい!」
こんなふたりのやり取りも今日が見納めなのだ。笑い合うふたりがじわりと滲み、のぶは慌てて後ろを向いてこっそりと涙を拭いた。
いつもの時間に彼女は帰っていく。
「また明日ね、殿ちびちゃん」
と、頭を撫でているのに、のぶの胸は締め付けられた。
さちが帰ると、なにも言わなくても朔太郎は飯台に移動してちょこんと座っている。
仕込みに入るのだ。
濡れて布巾で手を拭いて、ひとつひとつ丁寧にまっすぐに串を打っていく。真剣な眼差しに、彼をこのままずっとここで育てたいという考えがのぶの頭に浮かぶ。けれどすぐにそれを打ち消した。
「おう、ぼうず仕込みか。感心だな」
晃之進が二階から下りてきて、朔太郎の隣に腰かけた。
「へぇ、実際に見るのははじめてだぜ。うまいことやるもんだな。だがこれ全部やるのは骨だろう」
飯台の上の一日分の豆腐の山を見て晃之進が言う。
「そうでもない」
朔太郎が手を休めずに答えた。彼の串打ちは、正確なだけでなくどんどん早くなっている。この量ならすぐに済む。
「どれ、おれも助けてやろう」
そう言って晃之進が串に手を伸ばそうとする。それを朔太郎が止めた。
「ならぬ、てをふいてからじゃ」
布巾で手を拭いていないのに、串や豆腐に触ろうとした晃之進にぷりぷりとする。
「ととさまは、やらなくてよい」
そしてまた真剣な目で串打ちに戻る。
「そうけえ、わかったよ」
伸ばしていた手をそのままに晃之進は答える。その瞳が揺れている。
またのぶの胸に、さっきの考えが浮かぶ。ここにさえいてくれれば、家族三人幸せになれるのに。
でもすぐにのぶはその思いを胸の中に閉じ込めた。朔太郎は一国の城主となる身なのだ。その方が彼にとっては幸せだ。
店を開けるといつもの田楽屋の日常だ。
あのうろんな表情の侍は今日は顔を見せなかった。晃之進が店にいるのを珍しがった近所のかみさんたちが、ぞくぞくと訪れて、昼過ぎに田楽も菜飯もなくなった。
店じまりを終えて、三人で手を繋いで湯屋へ行く。朔太郎は晃之進に肩車をせがんだ。
晃之進が慣れた手つきで担ぐと、朔太郎が声をあげ、隣を歩くのぶに向かってにかっと笑う。
「わしが、いちばんおおきいぞ! かかさまが一番ちびじゃ」
「そうか。じゃあ、かかさまは、かかちびちゃんだな」
「かかちびちゃんじゃ!」
真っ赤に染まる夕焼けを背に、ふたり声をあげて笑っている。のぶも一緒に笑いながら、胸が痛いくらいに締め付けられるのを感じていた。
夕食は、山盛りの田楽だ。
「今日間違えて田楽をたくさん残してしまったの。さくちゃん全部食べてくれる?」
そう言って田楽をかれのまえに朔太郎が目を輝かせた。
「かかさま、いいのか?」
田楽が大好きな朔太郎は毎日たくさん食べたがる。でももちろん小さな彼にそれだけ食べさせるわけにはいかない。のぶはいつも田楽はそこそこにして、汁も白米も野菜もしっかり食べさせるようにしていた。
だけど今夜は特別だ。田楽屋で過ごす最後の夜は大好きな田楽でお腹いっぱいになってもらいたい。
「うふふ、わし、かかさまの田楽が大好きじゃ!」
田楽を頬張り、たれを頬につけたまま、朔太郎が声をあげる。その笑顔をのぶは胸に焼きつける。
覚えていてくれるだろうかとのぶは思う。
本当の両親以外にも、彼を心から愛おしいと思う夫婦が、同じ空の下にいることを。
忘れないでほしいとのぶは願う。
もう二度と会えなくとも、この田楽の味を……。
朔太郎へ事情を話すのは夜にしようとふたりで決めて、朝は三人で朝食を食べた。沢庵としじみ汁、焼いためざしといういつもと変わらないお菜だが、朔太郎はよく食べた。
いつもの時間にさちが来ると、晃之進は挨拶をして二階へ上がっていった。さちが気兼ねなく過ごせるようにという心配りだ。
朔太郎はいつもの通りさちと炬燵で過ごしていた。
ここのところの彼は、随分大きくなったさちのお腹に夢中だった。
中で赤子が動き、手を当ててればわかるという話に興味深々で、暇さえあれば手を当てている。
今日もさちが来ると、待ってましたとばかりに、彼女の隣を陣取って、お腹にずっと手を当ている。
「寝る前はよく動くんだけど」
さちが申し訳なさそうに言った時。
「おおっ、うごいた! かかさま、かかさま!」
朔太郎が声をあげた。
「え? 本当? よかったねえ」
さちがお腹をさすった。
「もう赤子は耳が聞こえるって話だから、殿ちびちゃんだってわかったのかもしれないね。遊んでくれ遊んでくれって」
「もっかい、もっかい!」
こんなふたりのやり取りも今日が見納めなのだ。笑い合うふたりがじわりと滲み、のぶは慌てて後ろを向いてこっそりと涙を拭いた。
いつもの時間に彼女は帰っていく。
「また明日ね、殿ちびちゃん」
と、頭を撫でているのに、のぶの胸は締め付けられた。
さちが帰ると、なにも言わなくても朔太郎は飯台に移動してちょこんと座っている。
仕込みに入るのだ。
濡れて布巾で手を拭いて、ひとつひとつ丁寧にまっすぐに串を打っていく。真剣な眼差しに、彼をこのままずっとここで育てたいという考えがのぶの頭に浮かぶ。けれどすぐにそれを打ち消した。
「おう、ぼうず仕込みか。感心だな」
晃之進が二階から下りてきて、朔太郎の隣に腰かけた。
「へぇ、実際に見るのははじめてだぜ。うまいことやるもんだな。だがこれ全部やるのは骨だろう」
飯台の上の一日分の豆腐の山を見て晃之進が言う。
「そうでもない」
朔太郎が手を休めずに答えた。彼の串打ちは、正確なだけでなくどんどん早くなっている。この量ならすぐに済む。
「どれ、おれも助けてやろう」
そう言って晃之進が串に手を伸ばそうとする。それを朔太郎が止めた。
「ならぬ、てをふいてからじゃ」
布巾で手を拭いていないのに、串や豆腐に触ろうとした晃之進にぷりぷりとする。
「ととさまは、やらなくてよい」
そしてまた真剣な目で串打ちに戻る。
「そうけえ、わかったよ」
伸ばしていた手をそのままに晃之進は答える。その瞳が揺れている。
またのぶの胸に、さっきの考えが浮かぶ。ここにさえいてくれれば、家族三人幸せになれるのに。
でもすぐにのぶはその思いを胸の中に閉じ込めた。朔太郎は一国の城主となる身なのだ。その方が彼にとっては幸せだ。
店を開けるといつもの田楽屋の日常だ。
あのうろんな表情の侍は今日は顔を見せなかった。晃之進が店にいるのを珍しがった近所のかみさんたちが、ぞくぞくと訪れて、昼過ぎに田楽も菜飯もなくなった。
店じまりを終えて、三人で手を繋いで湯屋へ行く。朔太郎は晃之進に肩車をせがんだ。
晃之進が慣れた手つきで担ぐと、朔太郎が声をあげ、隣を歩くのぶに向かってにかっと笑う。
「わしが、いちばんおおきいぞ! かかさまが一番ちびじゃ」
「そうか。じゃあ、かかさまは、かかちびちゃんだな」
「かかちびちゃんじゃ!」
真っ赤に染まる夕焼けを背に、ふたり声をあげて笑っている。のぶも一緒に笑いながら、胸が痛いくらいに締め付けられるのを感じていた。
夕食は、山盛りの田楽だ。
「今日間違えて田楽をたくさん残してしまったの。さくちゃん全部食べてくれる?」
そう言って田楽をかれのまえに朔太郎が目を輝かせた。
「かかさま、いいのか?」
田楽が大好きな朔太郎は毎日たくさん食べたがる。でももちろん小さな彼にそれだけ食べさせるわけにはいかない。のぶはいつも田楽はそこそこにして、汁も白米も野菜もしっかり食べさせるようにしていた。
だけど今夜は特別だ。田楽屋で過ごす最後の夜は大好きな田楽でお腹いっぱいになってもらいたい。
「うふふ、わし、かかさまの田楽が大好きじゃ!」
田楽を頬張り、たれを頬につけたまま、朔太郎が声をあげる。その笑顔をのぶは胸に焼きつける。
覚えていてくれるだろうかとのぶは思う。
本当の両親以外にも、彼を心から愛おしいと思う夫婦が、同じ空の下にいることを。
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