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のぶの田楽

うろんな侍

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 年が明けると江戸の町はますます寒くなってきた。
 冨岡八幡宮の詣客は減り、田楽の売り上げはやや落ちる。その中でも変わらずに毎日やってくるのは、侍の客だ。季節の移り変わりは勤めに関係ないからである。

 田楽屋に来る侍は、堀を渡った先の松平阿波野守の屋敷からやってくる者がほとんどで似通った顔ぶれになる。しかも皆それぞれ同じ時間に来るから、この季節の田楽屋は毎年少し単調になる。

 だからその日来た侍がはじめて来る客だということに、のぶはすぐに気がついた。もちろんそれ自体は珍しくはない。大名屋敷の侍とて参勤交代で毎年顔ぶれは変わる。
 だがその侍が、のぶを警戒させたのは、ややうろんな顔つきだったことと、彼が朔太郎に興味を示したからだった。

「おかみ、あの子どもは殿などと呼ばれているそうだな。侍の子か?」

 侍の前に田楽と菜飯を置いたのぶにそう問いかけた。

「ええ、うちの子です。少し……あの年頃にしては言葉が変わっておりまして、お客さんが面白がってそう言われるんですよ。しつけがなっていなくて、申し訳ありません」

 頭を下げて、のぶは逃げるように台所へ戻る。
 どうしてか胸がひやりとした。

 あの侍はどこで朔太郎の話を聞いたのだろう? 

 田楽屋では『殿ちびちゃん』と親しげに呼ばれている朔太郎だが、さすがに侍の客は『殿』という言葉を気楽には使わない。今店の中にいる客は皆侍で、誰も朔太郎を殿ちびちゃんとは呼んでいないのに……。

 そのあともその客は田楽を食べながら朔太郎の様子を伺っているようだった。だが、それ以上はなにも言わずに、帰っていった。

 でもそれではのぶの胸騒ぎは収まらなかった。平穏な日々の中で忘れがちになっているが朔太郎は生まれや取り巻く状況は複雑だ。だからこそ朔太郎は今ここにいるのだから。

 今すぐにでも倉之助に報告するべきだと頭ではわかっている。だが心はまた別だった。
 相談して、朔太郎の父親が、"ならば朔太郎を手元に置く"と決めたら、それがのぶと朔太郎の今生の別れになる。彼は本来ならば江戸の町を歩くことすらないはずの身分なのだ。
 気のせいだということにしてしまいたかった。朔太郎と離れるなど、とても耐えられそうにない。
 ただほんの少し興味を持たれただけ。
 のぶは自分に言い聞かせる。
 お侍からしたら、朔太郎の愛称は眉をひそめたくなるのは仕方ないし……。
 もやもやしながら店を終え片付けをしていると、つねがやってきた。

「のぶさん、いる?」

 つねの顔を見ると朔太郎は、そそくさとまるを連れて二階へ上がってしまう。つねが来た時は、嫌な話を聞く前に逃げるのだ。

「はい、どうかしました?」

 前垂れで手を拭きつつ尋ねると、つねは店の外を伺うように見てから、声を落とした。

「あの子いったいなんなんだい? 人相の悪いお侍が裏店で、あの子のことを聞いてまわってたよ」

 その言葉に、のぶは血の気が引いていくような心地がする。人相の悪いお侍とは昼間の客のことだろう。やっぱりあの胸騒ぎは当たっていた。
 ただの通りすがりの客ならば、わざわざ裏店で聞き込みまでする必要はない。

「なんだか薄気味悪い感じだったよ。あの坊やが侍の子だって言ったら根掘り葉掘り聞かれてさ、いつから来たとか親はどうしたとか……」

「話してしまったんですか⁉︎」

 のぶが言うと、つねは口を尖らせた。

「怖い侍に嘘をつくわけにいかないだろ? 晃さんの親戚の子だって自分が言ってたんじゃないか。詳しいことは知らないけど、お侍だってことは確かだし……」

「だけど、そんな見ず知らずの人に家のことを話さないでくださいよ」

 思わず非難するように言うと、つねはのぶを睨んだ。

「なんだい! まるであたしが悪いみたいに言うんだね。こっちは心配しておしえに来てやったのにさぁ。やっぱりわけありなんじゃないか」

 吐き捨てるように言って家を出ていった。
 のぶの胸がばくばくと嫌な音で鳴り出した。詳細はまったくわからないが、あの侍が、朔太郎を好意的な目で見ていなかったのは間違いない。
 もうしのごの言っている余裕はない。今すぐに倉之助へ知らせなくては。だけど朔太郎を連れて安居家へ行くのは難しい。まだその辺りをあの侍がうろうろしているかもしれない。

 そこへ運良く晃之進が帰ってきた。
 のぶから事情を聞くと、すぐに安居家へ行くと言った。

「お前は戸締りしてぼうずと一緒にいろ。一歩も外へ出るなよ。おれは菊蔵に声をかけて、家の周りを見回るように言っておく」

 のぶは言われた通りにした。朔太郎に夕食を食べさせて、方時も目を離さないようにした。抱きしめて布団に入り、まんじりともせずに夜を過ごした。
 腕の中で安心し切ったように、寝息を立てる朔太郎が愛おしくてたまらなかった。
 朔太郎と離れたくないという思いと、彼になにかあったら生きていけないという思いで胸をつぶれそうな心地がする。彼の生まれの複雑さと待ち受ける運命が憎かった。
 晃之進が帰ってきたのは明け方だった。

「明日……いやもう今日だな。夜に先方からぼうずを迎えに来る」

「今日ですか?」

 寝ずに待っていたのぶは、晃之進の言葉に目を見開いた。覚悟はしていたが、あまりにも突然すぎて心がついていけなかった。

「ああ、こうなったら早い方がいいからな。田楽屋に来た侍がいったいどういう者かわからねえが、お殿さまも覚悟を決められたようだ。ぼうずの存在を江戸屋敷でも明らかにするならば、そばに置く方が安全だ」

「それは、そうですが……」

 そう言って唇を噛む。もう今にも涙が溢れそうだ。膝の上で拳を作り痛いくらいに握りしめた。

 いよいよこの時が来てしまった。

「のぶ、大丈夫か?」

 晃之進が心配そうにのぶを覗き込む。
 ぽたりぽたりと拳の上に雫が落ちた。
 大丈夫ではなくとも、やらなくてはならないのだとのぶは自分に言い聞かせた。
 自分は侍の妻であり、朔太郎もまた侍の子。その時が来るまでしっかりとお預かりすると約束した。最後までその役目をまっとうしなくてはならない。
 朔太郎を安全に父親の元へ帰すのが、のぶの役割りなのだから。

 袖でぐいっと涙を拭き、のぶはゆっくり頷いた。
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