38 / 45
のぶの田楽
うろんな侍
しおりを挟む
年が明けると江戸の町はますます寒くなってきた。
冨岡八幡宮の詣客は減り、田楽の売り上げはやや落ちる。その中でも変わらずに毎日やってくるのは、侍の客だ。季節の移り変わりは勤めに関係ないからである。
田楽屋に来る侍は、堀を渡った先の松平阿波野守の屋敷からやってくる者がほとんどで似通った顔ぶれになる。しかも皆それぞれ同じ時間に来るから、この季節の田楽屋は毎年少し単調になる。
だからその日来た侍がはじめて来る客だということに、のぶはすぐに気がついた。もちろんそれ自体は珍しくはない。大名屋敷の侍とて参勤交代で毎年顔ぶれは変わる。
だがその侍が、のぶを警戒させたのは、ややうろんな顔つきだったことと、彼が朔太郎に興味を示したからだった。
「おかみ、あの子どもは殿などと呼ばれているそうだな。侍の子か?」
侍の前に田楽と菜飯を置いたのぶにそう問いかけた。
「ええ、うちの子です。少し……あの年頃にしては言葉が変わっておりまして、お客さんが面白がってそう言われるんですよ。しつけがなっていなくて、申し訳ありません」
頭を下げて、のぶは逃げるように台所へ戻る。
どうしてか胸がひやりとした。
あの侍はどこで朔太郎の話を聞いたのだろう?
田楽屋では『殿ちびちゃん』と親しげに呼ばれている朔太郎だが、さすがに侍の客は『殿』という言葉を気楽には使わない。今店の中にいる客は皆侍で、誰も朔太郎を殿ちびちゃんとは呼んでいないのに……。
そのあともその客は田楽を食べながら朔太郎の様子を伺っているようだった。だが、それ以上はなにも言わずに、帰っていった。
でもそれではのぶの胸騒ぎは収まらなかった。平穏な日々の中で忘れがちになっているが朔太郎は生まれや取り巻く状況は複雑だ。だからこそ朔太郎は今ここにいるのだから。
今すぐにでも倉之助に報告するべきだと頭ではわかっている。だが心はまた別だった。
相談して、朔太郎の父親が、"ならば朔太郎を手元に置く"と決めたら、それがのぶと朔太郎の今生の別れになる。彼は本来ならば江戸の町を歩くことすらないはずの身分なのだ。
気のせいだということにしてしまいたかった。朔太郎と離れるなど、とても耐えられそうにない。
ただほんの少し興味を持たれただけ。
のぶは自分に言い聞かせる。
お侍からしたら、朔太郎の愛称は眉をひそめたくなるのは仕方ないし……。
もやもやしながら店を終え片付けをしていると、つねがやってきた。
「のぶさん、いる?」
つねの顔を見ると朔太郎は、そそくさとまるを連れて二階へ上がってしまう。つねが来た時は、嫌な話を聞く前に逃げるのだ。
「はい、どうかしました?」
前垂れで手を拭きつつ尋ねると、つねは店の外を伺うように見てから、声を落とした。
「あの子いったいなんなんだい? 人相の悪いお侍が裏店で、あの子のことを聞いてまわってたよ」
その言葉に、のぶは血の気が引いていくような心地がする。人相の悪いお侍とは昼間の客のことだろう。やっぱりあの胸騒ぎは当たっていた。
ただの通りすがりの客ならば、わざわざ裏店で聞き込みまでする必要はない。
「なんだか薄気味悪い感じだったよ。あの坊やが侍の子だって言ったら根掘り葉掘り聞かれてさ、いつから来たとか親はどうしたとか……」
「話してしまったんですか⁉︎」
のぶが言うと、つねは口を尖らせた。
「怖い侍に嘘をつくわけにいかないだろ? 晃さんの親戚の子だって自分が言ってたんじゃないか。詳しいことは知らないけど、お侍だってことは確かだし……」
「だけど、そんな見ず知らずの人に家のことを話さないでくださいよ」
思わず非難するように言うと、つねはのぶを睨んだ。
「なんだい! まるであたしが悪いみたいに言うんだね。こっちは心配しておしえに来てやったのにさぁ。やっぱりわけありなんじゃないか」
吐き捨てるように言って家を出ていった。
のぶの胸がばくばくと嫌な音で鳴り出した。詳細はまったくわからないが、あの侍が、朔太郎を好意的な目で見ていなかったのは間違いない。
もうしのごの言っている余裕はない。今すぐに倉之助へ知らせなくては。だけど朔太郎を連れて安居家へ行くのは難しい。まだその辺りをあの侍がうろうろしているかもしれない。
そこへ運良く晃之進が帰ってきた。
のぶから事情を聞くと、すぐに安居家へ行くと言った。
「お前は戸締りしてぼうずと一緒にいろ。一歩も外へ出るなよ。おれは菊蔵に声をかけて、家の周りを見回るように言っておく」
のぶは言われた通りにした。朔太郎に夕食を食べさせて、方時も目を離さないようにした。抱きしめて布団に入り、まんじりともせずに夜を過ごした。
腕の中で安心し切ったように、寝息を立てる朔太郎が愛おしくてたまらなかった。
朔太郎と離れたくないという思いと、彼になにかあったら生きていけないという思いで胸をつぶれそうな心地がする。彼の生まれの複雑さと待ち受ける運命が憎かった。
晃之進が帰ってきたのは明け方だった。
「明日……いやもう今日だな。夜に先方からぼうずを迎えに来る」
「今日ですか?」
寝ずに待っていたのぶは、晃之進の言葉に目を見開いた。覚悟はしていたが、あまりにも突然すぎて心がついていけなかった。
「ああ、こうなったら早い方がいいからな。田楽屋に来た侍がいったいどういう者かわからねえが、お殿さまも覚悟を決められたようだ。ぼうずの存在を江戸屋敷でも明らかにするならば、そばに置く方が安全だ」
「それは、そうですが……」
そう言って唇を噛む。もう今にも涙が溢れそうだ。膝の上で拳を作り痛いくらいに握りしめた。
いよいよこの時が来てしまった。
「のぶ、大丈夫か?」
晃之進が心配そうにのぶを覗き込む。
ぽたりぽたりと拳の上に雫が落ちた。
大丈夫ではなくとも、やらなくてはならないのだとのぶは自分に言い聞かせた。
自分は侍の妻であり、朔太郎もまた侍の子。その時が来るまでしっかりとお預かりすると約束した。最後までその役目をまっとうしなくてはならない。
朔太郎を安全に父親の元へ帰すのが、のぶの役割りなのだから。
袖でぐいっと涙を拭き、のぶはゆっくり頷いた。
冨岡八幡宮の詣客は減り、田楽の売り上げはやや落ちる。その中でも変わらずに毎日やってくるのは、侍の客だ。季節の移り変わりは勤めに関係ないからである。
田楽屋に来る侍は、堀を渡った先の松平阿波野守の屋敷からやってくる者がほとんどで似通った顔ぶれになる。しかも皆それぞれ同じ時間に来るから、この季節の田楽屋は毎年少し単調になる。
だからその日来た侍がはじめて来る客だということに、のぶはすぐに気がついた。もちろんそれ自体は珍しくはない。大名屋敷の侍とて参勤交代で毎年顔ぶれは変わる。
だがその侍が、のぶを警戒させたのは、ややうろんな顔つきだったことと、彼が朔太郎に興味を示したからだった。
「おかみ、あの子どもは殿などと呼ばれているそうだな。侍の子か?」
侍の前に田楽と菜飯を置いたのぶにそう問いかけた。
「ええ、うちの子です。少し……あの年頃にしては言葉が変わっておりまして、お客さんが面白がってそう言われるんですよ。しつけがなっていなくて、申し訳ありません」
頭を下げて、のぶは逃げるように台所へ戻る。
どうしてか胸がひやりとした。
あの侍はどこで朔太郎の話を聞いたのだろう?
田楽屋では『殿ちびちゃん』と親しげに呼ばれている朔太郎だが、さすがに侍の客は『殿』という言葉を気楽には使わない。今店の中にいる客は皆侍で、誰も朔太郎を殿ちびちゃんとは呼んでいないのに……。
そのあともその客は田楽を食べながら朔太郎の様子を伺っているようだった。だが、それ以上はなにも言わずに、帰っていった。
でもそれではのぶの胸騒ぎは収まらなかった。平穏な日々の中で忘れがちになっているが朔太郎は生まれや取り巻く状況は複雑だ。だからこそ朔太郎は今ここにいるのだから。
今すぐにでも倉之助に報告するべきだと頭ではわかっている。だが心はまた別だった。
相談して、朔太郎の父親が、"ならば朔太郎を手元に置く"と決めたら、それがのぶと朔太郎の今生の別れになる。彼は本来ならば江戸の町を歩くことすらないはずの身分なのだ。
気のせいだということにしてしまいたかった。朔太郎と離れるなど、とても耐えられそうにない。
ただほんの少し興味を持たれただけ。
のぶは自分に言い聞かせる。
お侍からしたら、朔太郎の愛称は眉をひそめたくなるのは仕方ないし……。
もやもやしながら店を終え片付けをしていると、つねがやってきた。
「のぶさん、いる?」
つねの顔を見ると朔太郎は、そそくさとまるを連れて二階へ上がってしまう。つねが来た時は、嫌な話を聞く前に逃げるのだ。
「はい、どうかしました?」
前垂れで手を拭きつつ尋ねると、つねは店の外を伺うように見てから、声を落とした。
「あの子いったいなんなんだい? 人相の悪いお侍が裏店で、あの子のことを聞いてまわってたよ」
その言葉に、のぶは血の気が引いていくような心地がする。人相の悪いお侍とは昼間の客のことだろう。やっぱりあの胸騒ぎは当たっていた。
ただの通りすがりの客ならば、わざわざ裏店で聞き込みまでする必要はない。
「なんだか薄気味悪い感じだったよ。あの坊やが侍の子だって言ったら根掘り葉掘り聞かれてさ、いつから来たとか親はどうしたとか……」
「話してしまったんですか⁉︎」
のぶが言うと、つねは口を尖らせた。
「怖い侍に嘘をつくわけにいかないだろ? 晃さんの親戚の子だって自分が言ってたんじゃないか。詳しいことは知らないけど、お侍だってことは確かだし……」
「だけど、そんな見ず知らずの人に家のことを話さないでくださいよ」
思わず非難するように言うと、つねはのぶを睨んだ。
「なんだい! まるであたしが悪いみたいに言うんだね。こっちは心配しておしえに来てやったのにさぁ。やっぱりわけありなんじゃないか」
吐き捨てるように言って家を出ていった。
のぶの胸がばくばくと嫌な音で鳴り出した。詳細はまったくわからないが、あの侍が、朔太郎を好意的な目で見ていなかったのは間違いない。
もうしのごの言っている余裕はない。今すぐに倉之助へ知らせなくては。だけど朔太郎を連れて安居家へ行くのは難しい。まだその辺りをあの侍がうろうろしているかもしれない。
そこへ運良く晃之進が帰ってきた。
のぶから事情を聞くと、すぐに安居家へ行くと言った。
「お前は戸締りしてぼうずと一緒にいろ。一歩も外へ出るなよ。おれは菊蔵に声をかけて、家の周りを見回るように言っておく」
のぶは言われた通りにした。朔太郎に夕食を食べさせて、方時も目を離さないようにした。抱きしめて布団に入り、まんじりともせずに夜を過ごした。
腕の中で安心し切ったように、寝息を立てる朔太郎が愛おしくてたまらなかった。
朔太郎と離れたくないという思いと、彼になにかあったら生きていけないという思いで胸をつぶれそうな心地がする。彼の生まれの複雑さと待ち受ける運命が憎かった。
晃之進が帰ってきたのは明け方だった。
「明日……いやもう今日だな。夜に先方からぼうずを迎えに来る」
「今日ですか?」
寝ずに待っていたのぶは、晃之進の言葉に目を見開いた。覚悟はしていたが、あまりにも突然すぎて心がついていけなかった。
「ああ、こうなったら早い方がいいからな。田楽屋に来た侍がいったいどういう者かわからねえが、お殿さまも覚悟を決められたようだ。ぼうずの存在を江戸屋敷でも明らかにするならば、そばに置く方が安全だ」
「それは、そうですが……」
そう言って唇を噛む。もう今にも涙が溢れそうだ。膝の上で拳を作り痛いくらいに握りしめた。
いよいよこの時が来てしまった。
「のぶ、大丈夫か?」
晃之進が心配そうにのぶを覗き込む。
ぽたりぽたりと拳の上に雫が落ちた。
大丈夫ではなくとも、やらなくてはならないのだとのぶは自分に言い聞かせた。
自分は侍の妻であり、朔太郎もまた侍の子。その時が来るまでしっかりとお預かりすると約束した。最後までその役目をまっとうしなくてはならない。
朔太郎を安全に父親の元へ帰すのが、のぶの役割りなのだから。
袖でぐいっと涙を拭き、のぶはゆっくり頷いた。
20
お気に入りに追加
205
あなたにおすすめの小説
深川あやかし屋敷奇譚
笹目いく子
歴史・時代
第8回歴史·時代小説大賞特別賞受賞。コメディタッチのお江戸あやかしミステリー。連作短篇です。
大店の次男坊・仙一郎は怪異に目がない変人で、深川の屋敷にいわく因縁つきの「がらくた」を収集している。呪いも祟りも信じない女中のお凛は、仙一郎の酔狂にあきれながらも、あやしげな品々の謎の解明に今日も付き合わされ……。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
三賢人の日本史
高鉢 健太
歴史・時代
とある世界線の日本の歴史。
その日本は首都は京都、政庁は江戸。幕末を迎えた日本は幕府が勝利し、中央集権化に成功する。薩摩?長州?負け組ですね。
なぜそうなったのだろうか。
※小説家になろうで掲載した作品です。
和ませ屋仇討ち始末
志波 連
歴史・時代
山名藩家老家次男の三沢新之助が学問所から戻ると、屋敷が異様な雰囲気に包まれていた。
門の近くにいた新之助をいち早く見つけ出した安藤久秀に手を引かれ、納戸の裏を通り台所から屋内へ入っる。
久秀に手を引かれ庭の見える納戸に入った新之助の目に飛び込んだのは、今まさに切腹しようとしている父長政の姿だった。
父が正座している筵の横には変わり果てた長兄の姿がある。
「目に焼き付けてください」
久秀の声に頷いた新之助だったが、介錯の刀が振り下ろされると同時に気を失ってしまった。
新之助が意識を取り戻したのは、城下から二番目の宿場町にある旅籠だった。
「江戸に向かいます」
同行するのは三沢家剣術指南役だった安藤久秀と、新之助付き侍女咲良のみ。
父と兄の死の真相を探り、その無念を晴らす旅が始まった。
他サイトでも掲載しています
表紙は写真ACより引用しています
R15は保険です
証なるもの
笹目いく子
歴史・時代
あれは、我が父と弟だった。天保11年夏、高家旗本の千川家が火付盗賊改方の襲撃を受け、当主と嫡子が殺害された−−。千川家に無実の罪を着せ、取り潰したのは誰の陰謀か?実は千川家庶子であり、わけあって豪商大鳥屋の若き店主となっていた紀堂は、悲嘆の中探索と復讐を密かに決意する。
片腕である大番頭や、許嫁、親友との間に広がる溝に苦しみ、孤独な戦いを続けながら、やがて紀堂は巨大な陰謀の渦中で、己が本当は何者であるのかを知る。
絡み合う過去、愛と葛藤と後悔の果てに、紀堂は何を選択するのか?(性描写はありませんが暴力表現あり)
出雲屋の客
笹目いく子
歴史・時代
短篇です。江戸堀留町の口入屋『出雲屋』は、乳母奉公と養子縁組ばかりを扱う風変わりな口入屋だった。子を失い、横暴な夫に命じられるまま乳母奉公の口を求めて店を訪れた佐和は、女店主の染から呉服商泉屋を紹介される。
店主の市衛門は妻を失い、乳飲み子の香奈を抱えて途方に暮れていた。泉屋で奉公をはじめた佐和は、市衛門を密かに慕うようになっていたが、粗暴な夫の太介は香奈の拐かしを企んでいた。
夫と離縁し、行き場をなくした佐和を、染は出雲屋に雇う。養子縁組の仕事を手伝いながら、佐和は自分の生きる道を少しずつ見つけて行くのだった。
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
雪の果て
紫乃森統子
歴史・時代
月尾藩郡奉行・竹内丈左衛門の娘「りく」は、十八を数えた正月、代官を勤める白井麟十郎との縁談を父から強く勧められていた。
家格の不相応と、その務めのために城下を離れねばならぬこと、麟十郎が武芸を不得手とすることから縁談に難色を示していた。
ある時、りくは父に付き添って郡代・植村主計の邸を訪れ、そこで領内に間引きや姥捨てが横行していることを知るが──
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる