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思い出の焼き餅
政次郎
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和泉屋の件は、のぶが安居家を訪れた十日後に沙汰が下った。
予想された通り、長男の主張を認め次男の訴えを退けるというものだった。
晃之進はそれ以来、その件について口に出すことはなく。さらにひと月が経った。
和泉屋の次男政次郎が田楽屋にやってきたのは、足元を吹き抜ける風が冷たく感じるようになったある日のことだった。
八つ半を過ぎた田楽屋で、店じまいをしていると竿だけにたくさんの着物を吊るした物を担いだ古着屋に外から声をかけられた。
「こんにちは、おかみさん」
「こんにちは……」
訝しみながらのぶは答える。古着屋は通りをしょっちゅう歩いているけれど店の中にいるのに声をかけられるのははじめてだった。
「安居晃之進さまのお宅ではありませんか?」
「そうですが……」
「ああ、やっぱり。手前は政次郎と申します。晃之進の旦那に坊やの綿入れをお探しだと聞いてまいりました」
「え? うちの人がですか?」
のぶは思わず声をあげた。
ここのところ随分寒くなってきたから、朔太郎の衣服を調達しなくてはと話していたのは事実だが、まさか晃之進が古着屋に声をかけたとは驚きだ。店のあるのぶが、古着屋へ行くのは難儀だから、来てもらえるならありがたいのは確かだが、晃之進はそういう細やかな気遣いができる男ではない。
古着屋ははじめて見る顔だった。歳の頃は三十路といったところだろうか。丁寧な言葉使いと、こざっぱりとした風貌、どこか物腰が柔らかいところは、育ちのよさを感じられる。
「あなたもしかして和泉屋さんの政次郎さん?」
ピンときて、のぶは問いかけた。
「はいそうです。今は実家を出まして佐賀町の裏店で店を構えております。そっちは女房にまかせて、私はこの辺りを歩いておりますので、以後お見知り置きください」
「こちらこそよろしくお願いします」
答えながら、のぶは、さりげなく朔太郎に視線を送る。晃之進が彼に声をかけたのは、例の件が関係しているのは間違いない。沙汰は下りて、もう奉行所が扱う件ではなくなったのに、政次郎をここへ来させた晃之進の意図が読めなかった。
もう沙汰は下りたのだから、今さらなにかわかったとしても結論は変わらないというのに……。
とはいえ、こうやって来た者を追い返すわけにはいかない。とりあえず中へ入ってもらう。政次郎はあらかじめ晃之進から朔太郎の背格好を聞いていたのだろう。彼に合いそうな物を見繕って持ってきてくれていた。
「この坊やですね」
小上がりでまる相手にめんこをしている朔太郎に向かって微笑んだ。
戸惑う気持ちはあるものの、のぶは店じまいしていた手を止めて朔太郎の衣服を見繕うことにした。
「どれもいい物ですね。古着とは思えない」
ひと通り見終えたのぶはそう感想を漏らした。このあたりを歩いている棒手振りが売っているのとは雲泥の差だ。どれも綺麗に洗ってあり、ほつれは丁寧にかがってある。しかも柄の趣味もいい。さすがは老舗呉服屋の次男だ。
「子どもの物でも丁寧に手入れをすれば長く着られますよ」
その言葉にのぶの胸は弾んだ。選びはじめると、なんだか止まらなくなってしまう。寒い季節の小袖を三枚と綿入れ……迷いに迷って思っていたよりもたくさん買い求めてしまう。自分の着る物などは最低限でいいと思うのに、朔太郎の物となるとどうしてかあれもこれも欲しくなるのがおかしかった。
「今日は来ていただいて助かりました。入り用だと思ってはいたんですが、日中は店がありますから、なかなかこちらからは行けなくて」
ひと段落した後、政次郎に飯台に座ってもらい、熱い茶と田楽を置いてのぶは言った。
声をかけられた時は戸惑ったが結果的には来てもらえてありがたかった。
政次郎は、大店で客の相手をしていただけあって、朔太郎にぴったりだというものをどんどん勧めてくれた。それでいて押しつけがましくもなく、買い物がこんなに楽しいと思ったのははじめてだった。
その時。
「こんにちはー!」
裏から声がする。徳次だ。三日に一度の味噌の配達である。
「徳次さん、こんにちは」
彼は勝手知ったる様子で店の中に入ってきて、政次郎に挨拶をする。味噌の瓶を交換して、慣れた様子で飯台に腰掛けた。
「寒かったでしょう? 今日は焼きむすびよ」
のぶは政次郎に断って、彼が田楽を食べている間、徳次の焼きむすびをこしらえることにした。とは言っても、あらかじめ用意してあった味噌をつけた結びを長火鉢に乗せるだけである。途端に香ばしい香りが店いっぱいに広がった。
朔太郎が鼻をひくひくさせて
「かかさま、わしもわしも」
と言ってのぶの袖を引っ張った。
「はいはい」
表面を炙るだけだから焼きむすびはすぐにできる。ふたり分を飯台に置くと、徳次は手を合わせて食べ始め、あっという間に食べ終えた。
「ごちそうさまでした。また三日後に」
「よろしくお願いします。徳次さん寒くなってきたから、温かくしてね。お風呂は湯舟にゆっくりつかるのよ。烏の行水はだめだからね」
手代としてはしっかりしていてものぶから見ると、まだまだ子どもみたいなものだ。風邪をひかせては、深川のかかさまに申し訳ないような気がして、ついつい口うるさくなってしまう。
そののぶに、徳次が困ったように笑った。
「嫌だなぁ、おかみさん。お店者が、そんなに長湯できませんよ。ですよね? お兄さん」
ちょうど田楽を食べ終えた政次郎に同意を求めるように言う。たくさんの古着を脇に置いている彼が、商売をしにきていることは一目瞭然だ。
「まぁ、そうかもしれませんね」
政次郎が答えると、ふっと笑って帰っていった。
「政次郎さん、お待たせしました」
「いえ、こちらこそごちそうになりました。おかみさん、今の手代さんにはいつもああやってなにか差し上げるんですか?」
「ええ、配達は三日に一度ですけど。いつもなんでもきれいに平らげてくれるのでついつい張り切ってしまいます。政次郎さん、おいくらになりますか?」
そう言ってのぶは支払いをしようと札入れを持ってくる。それに政次郎が首を横に振った。
「晃之進の旦那には、この間の公事の件で大変お世話になりました。代金をいただくわけにはいきません」
「そんな……。それじゃ私がうちの人に叱られます。お店をはじめたばかりなんでしょう? きっとうちの人は政次郎さんを助けたくてここに来てもらうように段取りをつけたんだと思います。私もそのつもりでたくさん選んだのに……」
困り果ててのぶは言った。
品物を選ぶうちに、のぶの頭に浮かんだことだった。
晃之進は今さら、和泉屋の揉め事を掘り返そうなどとは思っていない。おそらく実家を出て頑張る彼の力になりたいと思っただけなのだ。
世間では、欲に目が眩んだ次男だと評判を落とした政次郎だが、その人となりは少し一緒にいただけで真っ直ぐなのだとのぶにもわかった。晃之進も朔太郎に彼を会わせても大丈夫だと思ったのだろう。
政次郎が微笑んだ。
「あの件では晃之進の旦那だけが、私の話を真剣に聞いてくださいました。親父が私に言ったと同じことを、商売仲間が耳にしていないかと、聞き込みまでしてくださって……。それに私は救われました。だからこうしてさっぱりした気持ちで新しい一歩を踏み出せているのです。だからお代をいただくわけにはいきません」
自分で言った通り、さっぱりとした顔できっぱりと言う。
のぶはこっそり朔太郎を見る。焼きにぎりをはふはふと嬉しそうに食べていた。
やはりと思い、のぶは札入れをしまった。
「わかりました。そういうことなら今回はありがたくお受けすることにいたします。だけどそれならまた来てくださいな。今度こそ……。さくちゃんだけじゃなくて、うちの人の冬の物を揃えたいので」
のぶが言うと政次郎は頷く。
「はい、承りました」
そして少し考えてから、意味深な言葉を口にした。
「おかみさんを晃之進の旦那がお選びになったのも納得だ」
「……え?」
のぶが首を傾げると、彼は遠くを見るような目をして、口を開いた。
「直接話をしたのは今回の件がはじめてでしたが、私の方は旦那のことを前々から存じ上げておりました。旦那は若い頃深川界隈では知らない者はいないほどの男ぶりでしたから。私も若い頃は、ちょっと遊んでた時期がありましたが、どこへ行っても旦那の話は耳にして……」
とそこで気遣うようにのぶを見る。
「おかみさんには、こういう話は余計ですかね」
つまり晃之進があちこちに女を作っていた頃の話だ。妻であるのぶには面白くない話かと思ったのだろう。
のぶは首を横に振った。
「大丈夫ですよ、私にとっては今さらの話ですから。私、安居さまのお屋敷で奉公していたんです。うちの人が白粉の匂いをさせて朝帰りするなんてしょっちゅうでしたし」
政次郎が安心したようにまた口を開いた。
「とにかく旦那は私ら男にとっても憧れの方でした。ま、狙っていた娘に晃之進さまが好きだと打ち明けられた時は、ガックリきましたが」
政次郎が苦笑して言葉を続けた。
「今回の件で久しぶりにお顔を拝見しました。昔と変わらない男ぶりでいらっしゃったのにも驚きだが、なによりも世帯をお持ちになられていたのに仰天いたしました。昔は小町と言われる娘さんや大店の娘さんが、どんなに頼んでも決して世帯を持とうとはなさらなかったのに」
そう言って意味深な目でのぶを見た。
「う、うちの人はお侍ですから、惚れたというだけで一緒になるわけにいかなかったんでしょう」
慌てて言うのぶに、政次郎がにっと笑った。
「ですが、おかみさんとは惚れ抜いて駆け落ちまでしたという話じゃないですか。旦那がおっしゃっていましたよ」
「え⁉︎ うちの人が? もう……」
のぶは真っ赤になってしまう。駆け落ちをしたというのはこの辺りの人間なら知っていることだが、わざわざ人に言うことではないと思う。それに惚れ抜いてだなんて、はっきり言って余計なひと言だ。
「ですから私、今日は少し楽しみにしていたんです。あの旦那に惚れ抜いたなんて言わせる方がどんな方なのか」
「普通なんで驚かれたでしょう……」
もう消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。のぶは小町と言われたこともなければ、大店な娘でもない。
晃之進は、女の好みがあまりにも変なんで男を下げてしまったかと心配なになるくらいだ。
政次郎が「まさか」と声をあげた。
「なるほど、さすが旦那だと思いました」
そう言って、徳次の焼きむすびの皿に視線を送った。そしてのぶが口を開くより早く立ち上がって、古着を吊るした竿竹を担いだ。
「では私はこれで失礼いたします。ご馳走さまでした。今後ともご贔屓に」
「はい、ありがとうございました」
政次郎は、通りを颯爽と永代橋の方向へ歩いていく。その背中に、のぶは晃之進がこの件についてこだわっていた理由がわかったような気がしていた。
予想された通り、長男の主張を認め次男の訴えを退けるというものだった。
晃之進はそれ以来、その件について口に出すことはなく。さらにひと月が経った。
和泉屋の次男政次郎が田楽屋にやってきたのは、足元を吹き抜ける風が冷たく感じるようになったある日のことだった。
八つ半を過ぎた田楽屋で、店じまいをしていると竿だけにたくさんの着物を吊るした物を担いだ古着屋に外から声をかけられた。
「こんにちは、おかみさん」
「こんにちは……」
訝しみながらのぶは答える。古着屋は通りをしょっちゅう歩いているけれど店の中にいるのに声をかけられるのははじめてだった。
「安居晃之進さまのお宅ではありませんか?」
「そうですが……」
「ああ、やっぱり。手前は政次郎と申します。晃之進の旦那に坊やの綿入れをお探しだと聞いてまいりました」
「え? うちの人がですか?」
のぶは思わず声をあげた。
ここのところ随分寒くなってきたから、朔太郎の衣服を調達しなくてはと話していたのは事実だが、まさか晃之進が古着屋に声をかけたとは驚きだ。店のあるのぶが、古着屋へ行くのは難儀だから、来てもらえるならありがたいのは確かだが、晃之進はそういう細やかな気遣いができる男ではない。
古着屋ははじめて見る顔だった。歳の頃は三十路といったところだろうか。丁寧な言葉使いと、こざっぱりとした風貌、どこか物腰が柔らかいところは、育ちのよさを感じられる。
「あなたもしかして和泉屋さんの政次郎さん?」
ピンときて、のぶは問いかけた。
「はいそうです。今は実家を出まして佐賀町の裏店で店を構えております。そっちは女房にまかせて、私はこの辺りを歩いておりますので、以後お見知り置きください」
「こちらこそよろしくお願いします」
答えながら、のぶは、さりげなく朔太郎に視線を送る。晃之進が彼に声をかけたのは、例の件が関係しているのは間違いない。沙汰は下りて、もう奉行所が扱う件ではなくなったのに、政次郎をここへ来させた晃之進の意図が読めなかった。
もう沙汰は下りたのだから、今さらなにかわかったとしても結論は変わらないというのに……。
とはいえ、こうやって来た者を追い返すわけにはいかない。とりあえず中へ入ってもらう。政次郎はあらかじめ晃之進から朔太郎の背格好を聞いていたのだろう。彼に合いそうな物を見繕って持ってきてくれていた。
「この坊やですね」
小上がりでまる相手にめんこをしている朔太郎に向かって微笑んだ。
戸惑う気持ちはあるものの、のぶは店じまいしていた手を止めて朔太郎の衣服を見繕うことにした。
「どれもいい物ですね。古着とは思えない」
ひと通り見終えたのぶはそう感想を漏らした。このあたりを歩いている棒手振りが売っているのとは雲泥の差だ。どれも綺麗に洗ってあり、ほつれは丁寧にかがってある。しかも柄の趣味もいい。さすがは老舗呉服屋の次男だ。
「子どもの物でも丁寧に手入れをすれば長く着られますよ」
その言葉にのぶの胸は弾んだ。選びはじめると、なんだか止まらなくなってしまう。寒い季節の小袖を三枚と綿入れ……迷いに迷って思っていたよりもたくさん買い求めてしまう。自分の着る物などは最低限でいいと思うのに、朔太郎の物となるとどうしてかあれもこれも欲しくなるのがおかしかった。
「今日は来ていただいて助かりました。入り用だと思ってはいたんですが、日中は店がありますから、なかなかこちらからは行けなくて」
ひと段落した後、政次郎に飯台に座ってもらい、熱い茶と田楽を置いてのぶは言った。
声をかけられた時は戸惑ったが結果的には来てもらえてありがたかった。
政次郎は、大店で客の相手をしていただけあって、朔太郎にぴったりだというものをどんどん勧めてくれた。それでいて押しつけがましくもなく、買い物がこんなに楽しいと思ったのははじめてだった。
その時。
「こんにちはー!」
裏から声がする。徳次だ。三日に一度の味噌の配達である。
「徳次さん、こんにちは」
彼は勝手知ったる様子で店の中に入ってきて、政次郎に挨拶をする。味噌の瓶を交換して、慣れた様子で飯台に腰掛けた。
「寒かったでしょう? 今日は焼きむすびよ」
のぶは政次郎に断って、彼が田楽を食べている間、徳次の焼きむすびをこしらえることにした。とは言っても、あらかじめ用意してあった味噌をつけた結びを長火鉢に乗せるだけである。途端に香ばしい香りが店いっぱいに広がった。
朔太郎が鼻をひくひくさせて
「かかさま、わしもわしも」
と言ってのぶの袖を引っ張った。
「はいはい」
表面を炙るだけだから焼きむすびはすぐにできる。ふたり分を飯台に置くと、徳次は手を合わせて食べ始め、あっという間に食べ終えた。
「ごちそうさまでした。また三日後に」
「よろしくお願いします。徳次さん寒くなってきたから、温かくしてね。お風呂は湯舟にゆっくりつかるのよ。烏の行水はだめだからね」
手代としてはしっかりしていてものぶから見ると、まだまだ子どもみたいなものだ。風邪をひかせては、深川のかかさまに申し訳ないような気がして、ついつい口うるさくなってしまう。
そののぶに、徳次が困ったように笑った。
「嫌だなぁ、おかみさん。お店者が、そんなに長湯できませんよ。ですよね? お兄さん」
ちょうど田楽を食べ終えた政次郎に同意を求めるように言う。たくさんの古着を脇に置いている彼が、商売をしにきていることは一目瞭然だ。
「まぁ、そうかもしれませんね」
政次郎が答えると、ふっと笑って帰っていった。
「政次郎さん、お待たせしました」
「いえ、こちらこそごちそうになりました。おかみさん、今の手代さんにはいつもああやってなにか差し上げるんですか?」
「ええ、配達は三日に一度ですけど。いつもなんでもきれいに平らげてくれるのでついつい張り切ってしまいます。政次郎さん、おいくらになりますか?」
そう言ってのぶは支払いをしようと札入れを持ってくる。それに政次郎が首を横に振った。
「晃之進の旦那には、この間の公事の件で大変お世話になりました。代金をいただくわけにはいきません」
「そんな……。それじゃ私がうちの人に叱られます。お店をはじめたばかりなんでしょう? きっとうちの人は政次郎さんを助けたくてここに来てもらうように段取りをつけたんだと思います。私もそのつもりでたくさん選んだのに……」
困り果ててのぶは言った。
品物を選ぶうちに、のぶの頭に浮かんだことだった。
晃之進は今さら、和泉屋の揉め事を掘り返そうなどとは思っていない。おそらく実家を出て頑張る彼の力になりたいと思っただけなのだ。
世間では、欲に目が眩んだ次男だと評判を落とした政次郎だが、その人となりは少し一緒にいただけで真っ直ぐなのだとのぶにもわかった。晃之進も朔太郎に彼を会わせても大丈夫だと思ったのだろう。
政次郎が微笑んだ。
「あの件では晃之進の旦那だけが、私の話を真剣に聞いてくださいました。親父が私に言ったと同じことを、商売仲間が耳にしていないかと、聞き込みまでしてくださって……。それに私は救われました。だからこうしてさっぱりした気持ちで新しい一歩を踏み出せているのです。だからお代をいただくわけにはいきません」
自分で言った通り、さっぱりとした顔できっぱりと言う。
のぶはこっそり朔太郎を見る。焼きにぎりをはふはふと嬉しそうに食べていた。
やはりと思い、のぶは札入れをしまった。
「わかりました。そういうことなら今回はありがたくお受けすることにいたします。だけどそれならまた来てくださいな。今度こそ……。さくちゃんだけじゃなくて、うちの人の冬の物を揃えたいので」
のぶが言うと政次郎は頷く。
「はい、承りました」
そして少し考えてから、意味深な言葉を口にした。
「おかみさんを晃之進の旦那がお選びになったのも納得だ」
「……え?」
のぶが首を傾げると、彼は遠くを見るような目をして、口を開いた。
「直接話をしたのは今回の件がはじめてでしたが、私の方は旦那のことを前々から存じ上げておりました。旦那は若い頃深川界隈では知らない者はいないほどの男ぶりでしたから。私も若い頃は、ちょっと遊んでた時期がありましたが、どこへ行っても旦那の話は耳にして……」
とそこで気遣うようにのぶを見る。
「おかみさんには、こういう話は余計ですかね」
つまり晃之進があちこちに女を作っていた頃の話だ。妻であるのぶには面白くない話かと思ったのだろう。
のぶは首を横に振った。
「大丈夫ですよ、私にとっては今さらの話ですから。私、安居さまのお屋敷で奉公していたんです。うちの人が白粉の匂いをさせて朝帰りするなんてしょっちゅうでしたし」
政次郎が安心したようにまた口を開いた。
「とにかく旦那は私ら男にとっても憧れの方でした。ま、狙っていた娘に晃之進さまが好きだと打ち明けられた時は、ガックリきましたが」
政次郎が苦笑して言葉を続けた。
「今回の件で久しぶりにお顔を拝見しました。昔と変わらない男ぶりでいらっしゃったのにも驚きだが、なによりも世帯をお持ちになられていたのに仰天いたしました。昔は小町と言われる娘さんや大店の娘さんが、どんなに頼んでも決して世帯を持とうとはなさらなかったのに」
そう言って意味深な目でのぶを見た。
「う、うちの人はお侍ですから、惚れたというだけで一緒になるわけにいかなかったんでしょう」
慌てて言うのぶに、政次郎がにっと笑った。
「ですが、おかみさんとは惚れ抜いて駆け落ちまでしたという話じゃないですか。旦那がおっしゃっていましたよ」
「え⁉︎ うちの人が? もう……」
のぶは真っ赤になってしまう。駆け落ちをしたというのはこの辺りの人間なら知っていることだが、わざわざ人に言うことではないと思う。それに惚れ抜いてだなんて、はっきり言って余計なひと言だ。
「ですから私、今日は少し楽しみにしていたんです。あの旦那に惚れ抜いたなんて言わせる方がどんな方なのか」
「普通なんで驚かれたでしょう……」
もう消えてしまいたいくらい恥ずかしかった。のぶは小町と言われたこともなければ、大店な娘でもない。
晃之進は、女の好みがあまりにも変なんで男を下げてしまったかと心配なになるくらいだ。
政次郎が「まさか」と声をあげた。
「なるほど、さすが旦那だと思いました」
そう言って、徳次の焼きむすびの皿に視線を送った。そしてのぶが口を開くより早く立ち上がって、古着を吊るした竿竹を担いだ。
「では私はこれで失礼いたします。ご馳走さまでした。今後ともご贔屓に」
「はい、ありがとうございました」
政次郎は、通りを颯爽と永代橋の方向へ歩いていく。その背中に、のぶは晃之進がこの件についてこだわっていた理由がわかったような気がしていた。
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