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思い出の焼き餅

のぶの憂うつ

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 晃之進から和泉屋の話を聞いた日から三日後、のぶはきよの月命日で安居家を訪れた。いつものように仏壇に線香をあげて手を合わせて仏間で茶を飲んでいると倉之助が奉行所から帰ってきた。随分早い帰りだ。

「たまにはな。今はとくに込み入った事件を抱えていないし」

 部屋着に着替えた倉之助が、床の間を背にして座り言った。

 朔太郎は茶を飲むのもそこそこに倉太郎のところへ行ってしまった。ここへ来れば遊んでもらえると心得ていて、この日を指折り数えて楽しみにしていたのだ。今日は、お文から買い求めためんこを持ってきたから、さっそくやっているのだろう。隣の部屋からえいやーという楽しそうなかけ声が聞こえてくる。

「なら晃之進さまもご一緒にこちらへ帰っていただけばよかったのに。のぶがこちらに来ているのはご存知でしょう? 久しぶりに兄弟揃って夕食を囲みたかったわ」

 彼の分の茶を出して、りんが不満そうに言った。

「いや、あいつは、まだ終わってはおらん。聞き込みがあるといって出ている」

 倉之助が答えた。

「お前さまは、晃之進さまがまだお勤めなのに帰ってきたのですか」

「いや、わしが命じたわけではないが……」

 そもそもふたりは日中は別々に行動している。倉之助が奉行所で調べ物などの業務に携わり、奉行に出す資料を作成する。晃之進は江戸の街を歩きまわり、倉之助がお奉行に出す資料を作るだけの材料を集めてくるといった具合だ。

「どうしてか、気になる件があるようで、裏取りをしたいと言って聞き込みを続けておるのだ」

 その言葉にのぶの胸がこつんと鳴る。三日前の夕食時の会話が頭に浮かんだ。

「旦那さま、それはもしかして、和泉屋さんの件ではございませんか?」

 尋ねると倉之助が頷いた。

「そうだ。のぶは知っておるのか」

「はい、少し……」

「その話なら私も知っています」

 りんが口を開いた。

「晃之進さまは、和泉屋さんの件の聞き込みを?」

「そのようだな。なんだお前も知ってるのか」

「はい。お茶会で一緒の方が日本橋にお住まいなんです。あちらでは随分話題になってるみたいですよ。和泉屋さんっていったら家族仲がいいので評判だったという話ですから。お嫁さん同士の仲もよくて皆で店に出ていたんだそうです。おふたりとも別の呉服屋さんの娘さんですから、いい生地をお勧めすると評判で……それなのに」

 りんが眉を寄せた。

「次男さんがあんなことを言い出したものだから当然お嫁さん同士の仲もうまくいかなくなっているみたい。お店の雰囲気もなんとなくよくなくて、活気がなくなったって言ってたわ」

「随分詳しく知ってるな」

 倉之助が苦笑した。

「晃之進さまは、この件について聞き込みを続けているのですね?」

 のぶが倉之助に確認すると、彼は頷いた。

「ああ、どうも気になるようだな。今は他に込み入った件があるわけではないから、好きにさせているんだが」

「だけどその次男さんも困った人ね……。こんな騒動を起こしたら、ご自身の評判は落ちる一方だもの。暖簾分けしたって日本橋や京橋辺りではもうお店は出せないでしょう」

 りんが眉を寄せた。
 呉服屋は品物もさることながら、客と店の者とのやり取りが売り上げに大きく関係する。店の中のごたごたはよくないのは確かだ。政次郎の評判が落ちている……ということは、のぶが思った通り世間では長男に分があると見ているようだ。

「だけど晃之進さまはいったいなににこだわっておいでなのかしら、あまりややこしい話にも思えないけれど……」

 りんの言葉に倉之助が答える。

「うむ、長男が身代を継ぐのが不満で次男が訴え出る事件は、珍しくもないからな」

 にべもなく言う。政次郎が無理を言っているのだと決めつけるような言葉に、のぶはなぜか反発を覚えた。
 この話をしていた時の晃之進の様子を思い出した。結論がほぼ決まっている問題なのに、わざわざ朔太郎に無理をさせてまで確認したいと言う彼の行動。

 それは隠密廻同心の手先として、江戸中の揉め事を目の当たりにしてきた彼の勘が動いたからか。
 それとも……。

「それよりのぶ、例のぼうやとの暮らしはどうだ? 随分元気じゃないか」

 隣の部屋から聞こえてくる「わしの勝ちじゃ!」という声に耳を澄ませて倉之助が問いかける。のぶはハッとして口を開いた。

「おかげさまで、つつがなく過ごせております。例の一件からは特に危ない目に遭ったこともございません」

「この辺りまで評判が聞こえてるくらいよ。殿ちびちゃんの田楽屋って」

 弾んだ声でりんが言った。
 その話にのぶは眉尻を下げた。

「田楽がよく売れるのはありがたいですが、なんだか少し変なことになっちゃって……。わざわざさくちゃんに会いに来たなんて言うお客さんもいて困っています。お預かりしてる事情が事情ですから、あまり目立たない方がいいのに」

「あら、それはいいんじゃない? 殿ちびちゃんなんて言っても誰も本当の殿さまだなんて思わないわ。ねえ、おまえさま?」

「うむ」

「でもなんだかさくちゃんを商売に利用しているみたいで……」

 もちろんのぶが自分から朔太郎を売りにしたことはない。
 それなのに、最近ではしょっちゅう客から『殿ちびちゃんの田楽ふたつ!』などと言われるのだ。

「まぁそれはそうね。だけどのぶの田楽が美味しいのは確かだもの。それにぼうやがいるのは今だけの話だし……」

 その言葉にのぶの胸はぎゅーと強い力で掴まれたようになる。ここのところ考えないようにしていたことだった。
 朔太郎は、あくまでもお役目で預かっているだけなのだ。頭ではわかっている、忘れたことは一瞬たりともないのは確かだが、心はまた別だった。
 親子のように過ごす中で感じる、朔太郎の温もりとかかさまと呼ぶ可愛い声、大福餅の頬に唇を寄せてぷうとやる時の幸福感……。
 
 今ののぶには"その時"がくるのが怖くてたまらない。
 普段はなるべく考えないようにしているがいつかは彼の父親の元に返さなくてはならないのだ。

「だがまだしばらくはかかりそうだな」

「まだかかりそう……。お殿さまはご正室さまに打ち明ける決心がまだつかないのでしょうか?」

 倉之助の言葉にのぶは尋ねると、彼は難しい顔で腕を組んだ。

「うむ。どうやら藩主が心配されているのはご正室さまだけではないようだ。つまり朔太郎さまのご母堂は身分が低く後ろ盾のない方だ。しかもお亡くなりになっている。対してご正室さまは藩の実権を握っている江戸家老が後ろ盾となっている。だからそもそも朔太郎さまは藩にとって少し都合の悪い存在なのだ。今のところ江戸家老には、朔太郎さまは国元に置いてきたままと伝えているようだ。つまり江戸にいると知られたら家老がどうでるかわからず……場合によっては……ということもある。そこのところを図りかねているようだな」

「そんな……」

 あまりにもひどい話に、のぶは絶句する。朔太郎は一国の主となる身で本当なら江戸屋敷で大切にされるべきなのに。こんな扱いを受けるなんて、いくら大名だろうが許せないという気持ちだった。

 涙が浮かべ唇を噛むのぶに、倉之助とりんが顔を見合わせている。ただの役目で預かっているはずののぶの情が朔太郎にすっかり移っていることに気がついたようだ。

「ま、まぁ、藩主さまは、なんとか朔太郎さまに滞りなくお世継ぎになってもらうためにあれこれ策を講じていらっしゃる。あまり心配せぬように……」

 取りなすように言う倉之助の言葉にも返事をすることもできなかった。

 胸の中は、本当にそうだろうかという懐疑的な気持ちでいっぱいだ。藩主ならば、「朔太郎が世継ぎなのだ、文句は言わせん」とはっきり言えばいいじゃないか。それができなくてなにが侍かとすら思う。

「とにかく、今のところは朔太郎さまが江戸にいると知っているものは少ないが、今後はどうなるかわからん。周囲の人に目を配ってくれ。もちろん晃之進にもそのように伝えた」

 倉之助が言う。
 隣の部屋で倉太郎とめんこに興じている朔太郎と倉太郎がわーきゃーと嬉しそうに声をあげているのを聞きながら、のぶは奥歯を噛み締めてこくりと頷いた。
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