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思い出の焼き餅

晃之進の憂うつ

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 その日の夜。
 昼間に菊蔵が朔太郎のために持ってきてくれた鈴虫がりーんりーんと鳴く田楽屋の小上がりで、のぶ、朔太郎と晃之進は夕食を囲んでいる。のぶの田楽を美味しそうに食べている晃之進をのぶはじーっと見つめている。

「かかさま、さかな、さかな」

 朔太郎がのぶの袖を引っ張った。

「ちょっと待ってね。ほらどうぞ」

 のぶは鯵の開きをむしって骨が入らないように気をつけながら白飯の上に置いてやる。朔太郎が嬉しそうに口に運んだ。
 再び晃之進を見ると、彼は相変わらず田楽を嬉しそうに食べていた。

「田楽がうめえ季節だな」

 田楽ならいつの季節も美味しそうに食べるくせにそんなことを言っている。
 まるで朝の諍いなどなかったのような振る舞いがのぶにとっては不思議でたまらなかった。鷹揚な男だと思ってはいたが、それにしても普段通りすぎる。朝の出来事は夢だったのかと思うくらいだ。

「なんでぇ、のぶ。じっと見て」

 のぶの視線に気がついた晃之進が箸を止めた。

「い、いえ。べつに……」

 慌ててのぶは目を逸らす。朝のことをいったい彼がどう思っているのか気になるが、わざわざ蒸し返すようなこともしたくない。
 晃之進がふっと笑った。

「心配するな、朝の話はもう言わねえよ」

 そして鯵のほぐし身を嬉しそうに食べる朔太郎を見た。

「朝はおれも、頭にきちまったが……。考えてみれば、ぼうずのことはのぶが一番よくわかってるからな。のぶが反対するなら、無理じいはよくねえんだろう」

 その言葉にのぶの心は軽くなった。

「私も頭に血が上って、申し訳ありませんでした。詳しい話も聞かないで」

 なにも晃之進は、自分のために朔太郎の特技を利用しようとしたわけではない。あくまでもお役目のためなのだ。それなのにろくに話も聞かず亭主に言い返すなんて……。

「それだけぼうずを大事に思ってるってことだろうよ」

 彼の言う通りだった。朔太郎のこととなると、どうも平静でいられなくなるようだ。母親とはこういうものなのだろうか。

「だけど、さくちゃんの力を借りたいっていったいどんな事件なんですか? お文ちゃんの件では確かにお手柄でしたけど、あれはたまたま小夜さんの話を耳にしただけなのに……」

 尋ねると晃之進は少し考えてから口を開いた。

「兄上が扱っている公事なんだ。日本橋にある和泉屋って呉服屋の身代を巡っての兄弟の争いごとよ」

 身代を巡って兄弟が争う……つまり相続争いだ。
 詳細はこうだった。
 和泉屋の主人、和泉八右衛門には息子がふたりいた。長男が長右衛門、次男が政次郎である。
 跡取りは当然長右衛門だ。普通に行けば政次郎は然るべき年齢で養子に行くかあるいは暖簾分けをするか……。
 だが八右衛門は、次男の政次郎も養子にやったりはせずに和泉屋で働き続けられるように万事整えていたという。日本橋では三番目に大きな身代を持つ和泉屋だから、それでもまったく問題はない。
 ふたりは、仲のいい兄弟として評判で、兄は弟を大切にし、なにかと頼りにしていた。弟は弟で、兄をよく支えていた。ふたりともすでに世帯を持っているが、広い屋敷に妻たちとともに同居していたという。
 それがついひと月前に、八右衛門が卒中で倒れ亡くなってから事態が一変した。
 弟が『親父はおれに暖簾分けさせると約束した』と言い出したのである。すでに長右衛門には知らせずにあれこれ段取りをつけていて、あとは金子を用立ててもらうだけという段階まできたところで八右衛門が亡くなってしまった。八右衛門が約束した通りの金子を用意してくれと兄に要求した。
 それに対して長右衛門は『そんなはずはない。親父は政次郎には和泉屋で末長く兄を支えるようにと亡くなる直前まで言っていた』と主張して金子を出そうとしない。
 それで弟が奉行所に訴え出たという話だ。
 兄と弟とで八右衛門が生前に言っていたという内容が真っ向から食い違っている。

「双方の事情を聞いたのだが、どちらが本当を言っているのわからないというわけだ」

「それで、さくちゃんに……」

 確かにそういうことならば、ふたりを朔太郎に会わせれば一発で解決するだろう。ふたりの意見は対立していてどちらかが嘘をついているのか明らかなのだから。
 でもそういう事情なら、なおさら朔太郎に関わらせなくて正解だとのぶは思う。大人の欲が絡んだどろどろとした揉め事を小さな朔太郎に見せなくない。

「それぞれの連れ合いと奉公人にも事情を聞いたが、当然連れ合いは夫の味方だし、奉公人はどちらの話も聞いていないと言う。母親が生きてたらなぁ……」

 晃之進が参ったというように頭を掻いた。母親は昨年亡くなっているという。

「だけど、いくら弟さんがそう言っても書き置きがないんじゃどうにもならない話じゃないですか?」

 身代は長男が継ぐ。
 いやすでに継いでいるのだから、長右衛門が今の和泉屋の主人だ。暖簾分けは許さないと言えばいくら弟が主張してもどうにもならない。

「どちらかというと弟さんの言い分がなんだか、ひっかかると私は思います。暖簾分けはしない、養子にも出さないと昔から決まっていたんでしょう? それなのに父親が亡くなってからそんなことを言い出すなんて。もともと決まっていた通り、長男さんが家を継ぎ、次男さんはそれを支えるのが筋じゃないでしょうか」

「まぁ、そうだな。おそらく奉行所もそう判断するだろうが……」

 そう言って、晃之進は田楽を食べ終えた。どこか歯切れの悪いその彼に、のぶは首を傾げる。
 なんだかいつもと様子が違うような。そもそも聞く限りそれほど込み入った事件でもない。奉行所の結論も予想できるのに、こだわっているのが彼らしくない。

「おまえさん?」

 尋ねると、

「いや、なんでもねえ」

と被りを振る。気を取り直したように、笑みを浮かべて朔太郎に声をかけた。

「だが、ぼうず。もし、ととさまの手伝いがしたくなったら言ってくれ」

 そんな軽口を言っている。
 朔太郎が不審そうな目つきで彼を見た。

「ぬしは、ととさまではないわい」

「そうか」

 からからと笑ってやり取りするのをのぶはじっと見つめていた。
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